「私たちは神に望みを置く」

2月2日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちは神に望みを置く」
(ペテロから私たちへの手紙⑤)
ペテロの手紙第一1章17~21節

 私たちには「たましいの救い」が与えられました。この救いは、私たちが神との正しい関係に回復し、永遠のいのちを得るという、最も基本的な教えであり、私たちが信じるべき根本的な真理です。この救いは私たち自身の力や努力では成し得ないものであり、神の愛と恵みによってのみ与えられるものです。そして私たちは「神の国を受け継ぐ者」とされています。神の国とは、神が完全に支配する、神の愛と義に満ちた世界であり、罪と苦しみが一切存在しない完全な秩序が支配する世界です。それは単なる思い込み、悟り、願望のようなものではなく、確かな約束であり、実現されるべき未来の現実です。なぜなら、この約束は、イエス・キリストの十字架と復活という歴史的事実に基づいているからです。

 イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死に、そして死者の中からよみがえられました。この復活は、死と罪に対する神の勝利を証明するものであり、私たちにもその勝利に与る希望を与えます。イエス・キリストは死を打ち破り、永遠のいのちへの道を開いてくださったのです。私たちはやがてイエス・キリストに会う時が来ます。その時、私たちは復活のからだを与えられ、神の国で永遠のいのちを生きるのです。この約束は私たちの信仰の希望そのものであり、今生きているこの瞬間から未来に至るまで、神の愛と恵みを確信させてくれます。

 ですから、私たちは知識や形式的な信仰ではなく、実際に神に望みを置くのです。神への信頼と希望こそが、キリストに対する信仰の本質です。それは単なる理論的な理解や神学的な教義を信じるだけでなく、実際の生活の中で神に従い、神の御心を求め、日々の生活においてその信頼を示すことです。信仰とは、神との生きた関係に基づくものであり、それが私たちに力と希望を与え、どんな困難な状況においても神の国の到来を信じて前進する力を与えてくれるのです。

 生きた信仰とは、神との生きた関係において、神に望みを置くことです。今朝は、神に望みを置くその理由を考えたいと思います。

① 神がすべてのわざに報いてくださるから

 私たちは、日常生活の中で何が正しいのかわからず、困難な状況に直面することがあります。自分では正しいと思っていても、他の人はそうではないと言い、逆に、人は正しいと言うことでも、自分は決して正しくないと感じることがあります。しかし、私たちは神に望みを置くことができます。なぜなら、この地上において、神はすべてを正しく捌かれる方であり、私たちが理解できないことも含め、すべてを神に委ねることができるからです。それは、私たちが、イエス・キリストによって救われた、従順な神の子としての姿なのです。ですから、私たちが、神に対して、「お父さん」と呼んでいるのであれば、神に望みを置いて生きることは当然のことなのです。

 私たちは、この地上では寄留者であり、旅人です。なぜなら、私たちの国籍は天にあるからです。したがって、神に希望を置いた生き方と、この地上で旅人として過ごす生き方とは、本来異なるものなのです。やがて、私たちはイエス・キリストと再びお会いし、神の救いの計画の全貌を知る時が来ます。その時を待ち望みながら、私たちはそこに焦点を当て、この地上の生涯を歩んでいくのです。つまり、私たちには神の国が約束されており、この地上では旅人なのですから、一時的な欲望に従って生きる必要はありません。同時に、最終的なゴールにおいて完全で公平な報いが与えられることを信じて生きることができるのです(ただ、厳密には神の国の到来が最終的なゴールではありません)。

 スイスの思想家カール・ヒルティは、『幸福論』や『眠られぬ夜のために』などの宗教的な著作で知られています。彼は、来るべき世を信じることがすべての考え方を決定すると説きました。この世の人生で終わると考えるのか、それとも神の愛と義によって統治される神の国があると信じるのかによって、人生に対する見方は大きく異なるというのです。『幸福論』でヒルティは、人生を単なる現世の成功や快楽の追求として捉えるのではなく、永遠の視点から考えるべきだと述べています。すなわち、あらゆる疑問と謎に満ちている現世の生活に道理ある解決を与えるものは、この世の人生の後に永遠のいのちが存続するという事実だけであると言うのです。それをひとたび堅く信じるようになると、全存在の一部に過ぎないこの世の人生において経験する楽しみや苦しみ、またその多寡などは大した問題ではなくなり、以前は重大であると思えたことも、まるで抜け殻のように私たちから抜け落ちていくとヒルティは言います。つまり、私たちがどこに目を向けているかによって、生き方が決まるというのです。

 キリスト者は、永遠のいのちが与えられ、神の国を受け継いでいるからこそ、それに相応しい生き方をするものです。しかし、問題は、そのことを信じていながらも、どれほどのリアリティをもって生きているかという点です。もし本当に信じているならば、その信仰に相応しく生きるはずですが、実際には、目の前の出来事に振り回され、知らず知らずのうちに見えない外的な力に支配されてしまうのが、私たちの現実なのです。

“また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。” 17

“信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。”ヘブル11:6

 私たちの現実には、不可解に思えることがたくさんあります。自分の力では解決できないこともあります。しかし、私たちは全世界の創造主である神を「お父さん」と呼び、神の約束である神の国を待ち望んでいます。だからこそ、地上のものではなく、神の国にあるものを求めるべきです。また、何を行うにしても、人の評価や報酬を第一に考えるのではなく、主に仕えるように、心から喜びをもって行いなさいとパウロは語っています。私たちは、正しい行いをしなければならないから生きるのではなく、また、正しい行いによって救われるのでもありません。むしろ、神の国が約束されていることを知っているからこそ、神に希望を置いて生きるのです。そして、神は私たちのすべてのわざに報いてくださいます。

“何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。” コロサイ3:23-24

② イエスキリストが私のために血を流されたから

 ペテロは、信者が「先祖から伝わったむなしい生き方」から贖い出されたと言っています。ペテロの言う「先祖から伝わったむなしい生き方」とは、神を知らずに生きる無意味な人生や、律法主義的な宗教生活を指しています。ペテロ自身もユダヤ人として、律法をただひたすら遵守するという生き方をしてきたことでしょう。

 私たちも同様です。私たちは父祖を尊敬していますが、受け継いできた生き方がむなしいものであったことは否定できません。例えば、仏壇や神棚を受け継いだものの、自分の代で終わらせることができず、どうすればよいのか悩んで相談されることがあります。もしそれに真の救いがあると信じているのなら、そのまま守ればよいでしょう。しかし、そこにたましいの救いがないと知りながらも、単に父祖から形式的に受け継いだという理由だけで続けるのは、まさに「むなしい生き方」ではないでしょうか。

 ペテロは「贖い出された」と表現していますが、「贖い」という言葉は、聖書において「罪からの解放」や「身代わりによる救済」を意味します。ローマ帝国時代、奴隷は市場で売買される存在であり、自らの力で自由を得ることはできませんでした。奴隷が解放されるためには、誰かが銀貨や金貨などの代価を支払い、その奴隷を買い戻す必要がありました。私たちもかつては罪の奴隷でした。しかし、汚れも傷もない子羊の血潮、すなわちイエス・キリストのいのちという尊い代価によって、買い戻されたのです。これにより、私たちは死と滅びから解放され、たましいが救われ、永遠のいのちが与えられました。そして、神の子とされ、神の国を受け継ぐ者とされたのです。このように、かつての形式的でむなしい生き方から贖い出されたことこそが、福音の恵みなのです。

 ペテロには、この手紙において、最後の遺言としてどうしても書き残したかったことがあったと思います。そして、注目すべきは、この手紙がキリスト者に向けて書かれたものであるということです。ペテロが伝えたかったことは、イエス・キリストを信じることが単に「救われる」ことだけにとどまらず、救われた者として、それに相応しい生き方をすること、つまり神に望みを置きながら生きることの重要性です。私たちは、イエス・キリストのいのちという代価によって罪を赦され、永遠のいのちを与えられました。その恵みをどのように受け止め、それに相応しく生きるにはどう考えて生きるべきか、私たちはそのことを深く考えさせられます。

“ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです。” 18-

 旧約時代、罪を持つ人間は直接神に近づくことができませんでした。そこで、人々は雄やぎや子牛を全焼のいけにえとして祭壇にささげ、神に近づいていました。しかし、これは一時的な手段に過ぎず、人間の罪が完全に赦されたわけではありませんでした。しかし、イエス・キリストは傷のないご自身を神にささげ、その血によって、雄やぎや子牛の血では成し遂げられなかった完全な赦しをもたらしました。パウロは、旧約の祭儀とキリストの贖いを比較し、キリストがご自身の血によって永遠の贖いを成し遂げたことを語っています。私たちはもはや罪の束縛や律法主義的な信仰に縛られることなく、神との親しい関係を持ち、清められた者として、日々の生活において神に仕えることが求められているのです。   

“まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。” ヘブル9:14

③ 神が「私」を完成してくださるから 

 イエス・キリストの救いの計画は、世界の基が置かれる前から定められていました。そして、神は私たちの人生に一つひとつ目的を持っておられ、一人ひとりの人生に相応しく生きるようにと、神の定めた最終ゴールに向かって導いておられます。最終的には、神の救いの計画は完全に成就され、私たちもイエス・キリストに倣ったかたちで完成されるのです。それは、単なる言葉だけのメッセージではなく、現実的に、イエス・キリストがこの地上に遣わされ、十字架の受難を経験し、死からよみがえられたという歴史的事実に基づいているからです。だからこそ、私たちは神に望みを置くことができるのです(何度もいいますが、神の国の成就が最終のゴールではありません)。

 私たちはこの地上の人生において労苦があり、自分の無知や無力さを感じ、限界を感じながら生きています。しかし、私たちは神に望みを置くことによって、最終的には神が私たちを完成させてくださるのです。私たちは神の造られた作品であり、失敗を恐れることなく、過去に囚われる必要はありません。ましてや、罪に支配されることはもはやないのです。神の作品として、聖別された生き方をしていくのです。

 創造主なる神に望みを置いて、寄留者である旅人としての歩みを、神の国を見上げ、待ち望みながら喜んで歩んでいく人生が与えられています。どんなときでも、私たちは神に望みを置くことができるのです。

“キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。…”20-21

“兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。” ピリピ3:13-

Author: Paulsletter

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