4月5日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちの罪を負われるイエス・キリスト」
マタイの福音書26章69~75節
十字架の上で死なれたイエス・キリストは墓に葬られ、聖書に記されているとおり、三日目によみがえられました。これは、後のキリスト教が創作した話でも、弟子たちの抱いた幻想でもなく、人類の歴史という舞台において具体的に現れた、紛れもない歴史的事実です。もしこれが虚構であったなら、二千年前の一都市の出来事は、時の流れとともに風化し、忘れ去られていたことでしょう。しかし今もなお、復活の主によっていのちを与えられ、ともに歩む人々が世界中に存在しているのです。
では、復活が歴史的事実であるという根拠は何でしょうか。聖書の記述から、いくつかの点を挙げることができます。何よりもまず、葬られた墓が空であったという事実です。主の遺体が盗まれないよう、墓の入口には大きな石が置かれ、総督ピラトの命を受けた番兵が厳重に監視していました。しかし、三日目の朝、石は脇に転がされ、墓の中は空になっていたのです。当時の敵対者たちも「墓が空であること」自体は否定できず、「弟子たちが遺体を盗んだ」という噂を流さざるを得ませんでした。次に、復活されたイエス・キリストが、多くの人々の前に姿を現されたという事実です。聖書には、ペテロをはじめとする弟子たち、さらには「五百人以上の兄弟たち」に同時に現れたと記されています。一人や二人であれば、幻覚として説明できるかもしれませんが、これほどの大人数が同時に、しかも一定期間(四十日間)にわたってイエス・キリストの顕現を目撃し、交流したという事実は、集団的な幻覚では説明がつきません。そして決定的なのは、弟子たちが全く別人のように変えられたという点です。主が捕らえられたとき、彼らは恐れて逃げ出し、ペテロは三度も「主を知らない」と否認しました。しかし、その臆病であった彼らが、後には命を懸けて「イエスは復活された」と宣べ伝え、ついには殉教していったのです。人間は、自ら捏造した嘘のために命を捨てることはありません。彼らを死の恐怖から解放したのは、復活した主との再会という圧倒的な事実以外には考えられないのです。
イエス・キリストの復活は、単なる過去の奇跡の記録ではありません。だとすれば、現代の私たちに問われているのは、その復活が、今を生きる私たちにどのような意味を持ち、どのような影響をもたらすのか、ということです。では、私たちはイースターを迎えるたびに、単なる「季節の行事」として祝うだけでよいのでしょうか。重要なのは、この復活が、今を生きる私たちの人生をどのように変えるのか、という点です。聖書は、人間が創造主なる神から離れた(罪を犯した)結果、本来与えられていた「神のかたち」を損ない、死と絶望に支配されるようになったと教えています。もしキリストが死んだままであったなら、私たちの罪の贖いは未完成のままであり、救いの保証もありません。しかし、キリストが死を打ち破って復活されたことにより、十字架による罪の赦しが神に受け入れられたことが明らかにされました。このことによって、私たちは神との平和を回復し、本来あるべき姿へと新しく造り替えられる道が開かれたのです。復活は、死が人生の終着点ではないことを示しました。イエスを信じる者に与えられる「救い」とは、単に地上の人生にとどまらず、神の統治される新しい天と地においても、永遠のいのちにあずかり続けることを意味しています。たとえイエス・キリストがどれほどすばらしい教えを語り、人々を愛されたとしても、もし死に勝利されなかったのであれば、それはこの世の限界の中での出来事にとどまっていたでしょう。しかし、キリストは「完全な死」を経て、「完全な復活」を成し遂げられました。この歴史的事実こそが、私たちの信仰の土台であり、希望の源です。イースターとは、この勝利のいのちが、今、信じる私たち一人ひとりの内にも与えられていることを喜び、感謝する日なのです。
今朝お読みいただいた聖書箇所は、イエス・キリストが捕らえられ、ユダヤの大祭司による裁判を受ける場面です。今朝は、この前後に登場する何人かの人物を通して、私たちの罪について思いを向けたいと思います。「罪」と聞くと、何か重大な犯罪を犯すことのように思われ、自分とは直接関係のないもののように感じるかもしれません。しかし、そうではありません。罪とは、私たちにとって現実的で身近なものであり、私たち人間の性質そのものに深く関わっているものです。これから挙げる四つの点は、この前後の聖書箇所を読みながら、私たちに共通する性質に気づかせてくれます。そして、そのような人間の罪の性質のゆえに、イエス・キリストが十字架にかかられたのです。
① イエス・キリストは裁かれた ~ 私たちの偽りのために
自分の内側に「偽り」があると認識できる人は、すでに罪の本質を理解し始めている人です。マタイの福音書26章59節以降には、イスカリオテのユダの手引きによって逮捕されたイエスが、大祭司カヤパのもとへ連行され、不当な裁きを受ける場面が記されています。聖書には、「祭司長たちと最高法院は、イエスを死刑にするために、イエスに不利な偽証を得ようと躍起になっていた」とあります。彼らは真実を究明しようとしていたのではありません。すでに「死刑」という結論が出ており、その結論を正当化するための「口実」を必死に探していたのです。表面的には宗教的な法に従うふりをしながら、その内心は殺意に満ちていました。そのため、多くの偽証人が現れましたが、証言は互いに食い違い、決定的な証拠を得ることはできませんでした。本来、公正であるべき法廷が、偽りを生み出す場へと変わっていたのです。実のところ、彼らにとって客観的な証拠は二の次でした。後に登場するローマ総督ポンティオ・ピラトは、彼らが「ねたみから」イエスを引き渡したことに気づいていたと記されています。ユダヤの指導者たちを突き動かしていたのは、民衆の支持を集めるイエスに対する激しい嫉妬でした。彼らは自分たちの権威と立場を守るために、神の子を「冒涜者」に仕立て上げるという大きな嘘を作り上げたのです。この出来事は、二千年前の特定の人々だけの問題ではありません。私たちの中にも、同じ罪の性質が潜んでいます。このように、自分の思いに固執し、神の真理よりも自分の都合を優先させる「罪の性質」こそが、罪なきイエス・キリストを十字架につけたのです。私たちは、自分の誤りを突きつけられたとき、素直にそれを認めることができるでしょうか。それとも、祭司長たちのように、偽りを重ねてまで自分を正当化しようとするでしょうか。聖書がこれらの出来事を記録として残しているのは、私たちが自らの内にある「偽り」に気づき、その罪を担って十字架にかかられたキリストの愛に立ち返るためなのです。
“さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証 を得ようとした。多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。” 26:59-60
② イエス・キリストは否定された ~ 私の恐れのために
二つ目は、特定の個人の姿としてのペテロの場合です。ペテロは、捕らえられたイエスのあとを追い、大祭司の家の中庭まで密かについて行きました。彼は、その後の成り行きが気になっていたのでしょう。その意味では、ペテロも最初からイエスを裏切るつもりはなかったのだと思います。しかし、彼は恐れに支配されていたのです。やがて思いがけない出来事に直面します。大祭司の中庭で、一人の召使に呼び止められ、「あなたもガリラヤ人イエスといっしょにいましたね」と言われます。さらにほかの者たちもこれに同調しました。しかしペテロは、とっさに「そんな人は知らない」と否定します。そして、その否認を三度繰り返したとき、鶏が鳴きました。イエスがあらかじめ告げておられたとおり、ペテロは三度イエスを否認したのです。ペテロに向かって「この人はイエスの仲間だ」と言ったのは、ただの召使にすぎません。その言葉は、本来なら取り合わず、無視することもできたでしょう。イエスに向かって「あなたは神の子キリストなのか」と問われた場面に比べれば、取るに足らないものでした。しかしペテロは、恐れのゆえに狼狽し、「知らない」と否定してしまったのです。イエスは多くの人々から偽りの証言を受けながらも動揺されず、何一つ弁解されませんでした。しかしペテロは対照的に、恐れのために黙っていることができませんでした。裁く者の前で沈黙を守り、十字架へと向かわれたイエスに対して、ペテロは恐れの中で自分を守るために否定の言葉を重ねていったのです。言うまでもなく、このペテロの姿の中に、私たち自身の姿を見る思いがします。私たちはしばしば、恐れに支配されるとき、かえって雄弁になり、語りすぎてしまいます。そして、人は雄弁であればあるほど、かえって不自然に見えてしまうものです。自分の弱さや過ちを指摘され、弁明できないとき、私たちはそれを強く否定し、さまざまな言葉で自分を覆い隠そうとするのです。マタイがこの出来事を福音書に記したとき、ペテロはすでに教会の指導的な存在となっていました。彼にとってこれは、たいへん恥ずかしい過去であり、できれば知られたくない出来事であったかもしれません。しかし聖書は、罪の性質がどのようなものであるかを明らかにし、イエス・キリストがそのような罪のために十字架にかかられたことを示しているのです。そしてその後、ペテロは迫害の激しいローマへと向かい、ついには殉教の死を遂げることになるのです。
“ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた イエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。” 26:75
③ イエス・キリストは捨てられた ~ 私の欲望のために
ここでは、ユダの姿に目を向けます。マタイは、この箇所に登場する一人一人の姿を通して、人間の罪のゆえにイエス・キリストが十字架にかかってくださったのだと記しています。26章の冒頭には、ユダが祭司長たちと、イエスを売り渡す相談をする場面が記されています。「イエスをあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか」とユダが言うと、祭司長たちは銀貨三十枚を支払いました。なぜユダがイエスを売り渡したのか、その詳細な理由は聖書に明らかにされていません。しかしユダは、少なくとも三年間、イエスと寝食を共にしてきた人物です。弟子としてイエスに従い、そのお方が罪のない方であることをよく知っていたはずです。それにもかかわらず、ユダはイエスを銀貨三十枚で売り渡したのです。銀貨三十枚とは、当時、奴隷一人の値段に相当するものでした。ユダは、三年間共に歩んできたイエスを、奴隷一人の価格で売り渡したのです。聖書はここに、人間の内にある欲望という罪の性質を示しています。この出来事は、私たちに重要なことを教えています。私たちがイエスを裏切り、信仰から離れてしまうとき、それは必ずしもイエス・キリストにつまずいたからでも、イエスを理解できなかったからでもありません。むしろ、もっと些細なことがきっかけとなるのです。人間関係の中での争い、自尊心が傷つけられたこと、誰かに言われた一言――そうした、イエス・キリストの十字架と復活とは直接関係のない、本当に小さなことによって、私たちは信仰から離れ、イエスを裏切ってしまうのです。これが、私たちの持っている罪の性質です。イエス・キリストは、私たちのためにご自分のいのちをささげてくださいました。それを知りながらも、私たちは、あたかも銀貨三十枚と引き換えにするかのように、イエスを手放してしまうほど弱い存在です。その現実を、私たちは知らなければならないのです。
“こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」 すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。” 26:15
④ イエス・キリストは十字架に引き渡された ~ 私の無責任のために
27章には、ローマ総督ポンティオ・ピラトが登場します。これもまた、聖書が示すポンティオ・ピラトの罪の姿です。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、裁判はユダヤの律法で審理されたうえで、最終的にはローマ帝国の法律によって裁かれなければなりませんでした。つまり、司法制度は二重の構造を持っていました。まず、宗教的な冒涜罪などはユダヤの律法に基づき、彼らの最高法院(サンヘドリン)で審理されます。しかし、ローマの属州であったため、死刑を執行する権限はユダヤ人側にはなく、最終的にはローマ帝国の法律に基づき、総督の認可を得なければならなかったのです。
24節では、ピラトが「私には責任がない。自分たちで始末するがよい」と宣言し、これに対して民衆は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもよい」と答えています。ピラトはイエスを尋問したものの、死罪に相当する罪を見いだすことはできませんでした。また、ユダヤの指導者たちが「ねたみ」からイエスを引き渡したことも見抜いており、何とか釈放しようと試みます。しかし指導者たちは、「この人を釈放するなら、あなたは皇帝の味方ではありません」と叫び、ピラトを政治的に追い詰めました。暴動が起こればローマ皇帝からの信任を失い、自らの地位が危うくなる、そのような恐れが、ピラトの心を支配したのです。しかし、真理を知り、イエスが無罪であることを確信していながら、民衆を満足させるために死刑を宣告したという事実は消えることはありません。ピラトの罪とは、ユダヤ人たちの圧力に屈し、群衆の声を抑えることができず、自分の立場を守るために知っている真理を曲げ、不義に加担したこと、すなわち、自らの責任を貫かなかった点にあります。ピラトの姿は、現代に生きる私たちにとっても他人事ではありません。聖書は彼の姿を通して、人間がいかに脆く、容易に正義を投げ出してしまう存在であるかを浮き彫りにしています。そして、そのような人間の妥協や弱さ、不条理のすべてを背負って、イエスは黙々と十字架への道を歩まれました。今日、私たちが信仰告白する「使徒信条」において「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と記されているように、彼の名はイエス・キリストを十字架につけた者の一人として歴史に刻まれました。イエス・キリストは、このような人間の無責任という罪の性質のためにも十字架にかかられたのです。私たちは、そのことを深く心に留めるべきです。
このように、イエス・キリストが私たちの偽りのために十字架で死なれたのは、私たちが義のために生きるためです。イエスが私たちの恐れのために十字架に死なれたのは、私たちが勇気をもって生きるためです。イエスがわずか銀貨三十枚で売られて死なれたのは、私たちが朽ちない価値に生きるためです。そして、イエスが私たちの無責任のために十字架にかかって死なれたのは、私たちが与えられた人生の責任を果たして生きるためなのです。このイースターの日に、このことを共に覚えたいと思います。
最後に、二つの御言葉を紹介して締めくくりたいと思います。一つは、使徒ペテロが記した、ペテロの手紙 第一 2章22節から24節の御言葉です。
“キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。…” 1 ペテロ2:22-
イエス・キリストの十字架と復活を祝うこのイースターは、単に「おめでとう」と言い合うだけの記念日ではありません。この日は、私たちがキリストにあって、「罪に対して死に、義のために生きる」という新しい歩みを始める日、主によって新しく生まれ変わるスタートを切る日なのです。
さらに、コリント人への手紙 第一 15章17節にはこう記されています。
“そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、 あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。”1コリント15:17
私たちは、たとえイエス・キリストの十字架を信じていたとしても、主が復活されたという確信を持っていないとしたら、その信仰は土台を失い、意味のないものとなってしまいます。神が私たちを愛し、御子を十字架に捧げてくださった。その愛が完成したのは、主が死を打ち破って復活されたからです。この復活によって、私たちの罪の贖いは完全なものとなり、私たちは主の義の中に生きることが可能になったのです。
私たちは、この十字架と復活による救いの真の意味を、しっかりと胸に刻んで生きるべきです。
単なる感情的な喜びで終わらせるのではなく、キリスト者としての責任を持ち、正しさと喜び、そして勇気をもって、与えられた人生を歩んでいきましょう。自分のいのちを懸けて、イエス・キリストに従って生きたいと願う。そのような決意を新たにする出発の時、それがこのイースターなのです。
“ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。” 27:18
“ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を 取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。 おまえたちで始末するがよい。」” 27:24
Author: Paulsletter
