2月9日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちは互いに熱く愛し合う」
(ペテロから私たちへの手紙⑥)
ペテロの手紙第一1章22~25節
私たちは、イエス・キリストの十字架と復活によって新しく生まれ、「たましいの救い」を与えられました。「新しく生まれる」とは、神の御霊によって私たちの内側が変えられ、神との正しい関係が回復することを意味します。そして、終わりの時には神の御国に迎えられ、完全な救いをいただきます。神の国とは、神が完全に支配し、愛と義に満ちた世界であり、罪も苦しみも一切存在しない、完全な秩序が支配するところです。このような恵みにあずかった私たちは喜びに踊っています。この喜びは、神の救いという素晴らしい贈り物をいただいたことに対する、心からの喜びです。苦しみの中にあっても、その時をひたすら待ち望みつつ、神に望みをおいて生きているのです。キリスト者は、この世の苦しみの中にあっても、将来の希望を抱いて生きることができるのです。 そのような私たちの姿にはもう一つの大切な特徴があります。それが今日のテーマです。それは、神への愛と隣人への愛です。
“あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。” 22
イエス・キリストによって新しく生まれた者は、神への信仰とともに、互いに愛し合う生き方を与えられています。私たちは、神の愛に生きることを目指し、神の聖霊によって互いに愛し合う交わりを生み出します。そして、その愛に生きることこそが、キリスト者に与えられた恵みであると信じています。今朝は、神の愛に生きるとはどういうことか、そしてその根拠がどこにあるのかを学びたいと思います。
私たちは互いに愛し合います
① 愛が、私たちの目標です
互いに愛し合うことが重要な教えであることを記している聖書の箇所はいくつかあります。その一つが、マタイの福音書22章39節です。その前の37節では、「神である主を愛することが第一の戒めである」と教えています。そして、39節では、それに続いて「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めが示されています。つまり、神を愛することと同様に、隣人を愛することも極めて重要であり、優先すべきものであることが強調されています。神との関係において、神を愛することがすべての土台であることは言うまでもありません。しかし、それと同時に、「自分を愛するのと同じように隣人を愛しなさい」という戒めも与えられています。ここで言われている「愛する」とは、単なる感情的な好意ではなく、神への愛から流れ出るものです。それは、積極的に相手のために行動し、思いやることを意味しています。したがって、神を愛する者は必然的に隣人を愛するようになり、隣人を愛することは神を愛することと切り離せないのです。
もう一つは、コリント人への手紙第一13章の御言葉です。私たちは、目に見えるものを求め、それによって自分が高く評価されたいという思いを抱きがちです。もし、他の人よりも優れた賜物が与えられていたとしても、あるいは神の奥義や聖書に関する深い知識を持っていたとしても、そこに愛がなければ、神の視点から見て価値はなく、何の役にも立たないのです。つまり、私たちに問われているのは、互いに愛し合うことです。それは必修科目のようなものと言えるかもしれません。なぜなら、他のどんなものでも代わりにならない、大切なものだからです。夫として妻との関係を築くこと、親として子を育てること、牧師として教会を導くこと――どの立場においても、最も大切なのは愛です。愛がなければ、すべては無に等しいのです。
私たちは、心から愛することが大切だと分かっていても、それができずに苦しんでいます。最初のうちは、互いに愛し合っていると思っているかもしれません。しかし、やがてその愛が表面的なものであり、心からの愛ではないことに気付くことがあります。外見的には本物の愛に見えるかもしれませんが、実際には真実の愛が存在しないということも少なくありません。しかし、ペテロは、私たちがイエス・キリストによって新しく生まれ変わり、偽りのない愛――すなわち、表面的なものではなく、真実の心からの愛を抱くようになると語っています。もちろん、現実には、私たちはまだそのように完全に愛せていないかもしれません。しかし、それでも神によって、互いに愛し合うように生かされているのです。
それでは、偽りのない真実の愛を実際に抱くためには、どのようにすればよいのでしょうか。ペテロは、二つの要素があると語ります。それらは、全く別のことではなく、いずれも関連しているものです。一つは、真実である神のことばに従うことであり、もう一つは、神のことばに従うことによって心がきよめられ、その結果として偽りのない、尽きることのない真実の愛が生まれるということです。逆に言うと、偽りのない真実の愛は、私たちが真理である神のことばに従い、たましいがきよめられることによって与えられるということです。
“『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。”マタイ22:39
“たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ何の役にも立ちません。”1コリ13:1-3
② 愛は、真理である神のことばに従うことによって与えられます
22節では、ペテロは「真理」という言葉を使っています。これは「偽り」という言葉と対比される言葉です。一見、同じように見える「愛」であっても、真実から生まれた愛と、そうでない表面的な偽りの愛があるのです。そして、真実の愛とは、真理である神のことばに従うことによって与えられるものだと語っています。私たちは、常に変わることのない生ける神のことばによって新しく生まれ変わり、そのいのちである神のことばによって偽りのない真実の愛を与えられているのです。重要なのは、「真理である神のことばに従う」という点です。つまり、神のことばは時代を超えて変わることのない生きたことばなのです。神のことばに従うときに、偽りのない真実の愛が私たちの内に生まれるのです。互いに愛し合いなさいと励ますことも大切ですが、そのような掛け声よりも、私たちが神のことばに従うときに、そのことばのいのちによって、神の愛が働きかけて互いに愛し合うようにしてくださるのです。
“あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです…” 22
“あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。” 23
③ 愛は、きよい心からうまれるものです
真実の愛は、聖別された心から生まれるというのは、神のことばに従うことによって、霊的に清められるということであり、その結果、表面的でない、真実の愛を持つようになるということです。
聖書には、3種類の「愛」が登場します。これらは「愛」を表す代表的な概念であり、それぞれに独自の特徴とニュアンスがあります。以下に、それぞれの「愛」について説明します。
(1)エロス (Eros)
エロスは、恋愛感情や性的な愛を指す言葉です。この愛は、肉体的・感情的な欲求から生まれるもので、主に自分自身に向かいます。エロスは自己中心的な愛であり、特定の相手に対して強い情熱や欲望を抱きます。この愛は、肉体的な魅力や欲望が主導するため、しばしば一時的で表面的なものとなる場合があります。そのため、命を懸けることはあっても、自己犠牲的に命を捧げることは少ないのが特徴です。
(2)フィリア (Philia)
フィリアは、友情や親しい関係に基づく愛を指します。フィリアの愛は、相手が自分を愛してくれるという条件付きで成り立つため、相互の愛情が必要です。この愛は、無条件ではなく、相手が応えてくれるかどうかに依存します。そのため、フィリアは不安定であり、互いの信頼と共感があってこそ深まります。
(3)アガペ (Agape)
アガペは、最も高尚で無償の愛を指す言葉です。自己犠牲の伴う無条件の愛であり、相手のために自分を捧げ、見返りを求めない愛です。この愛は、相手に対して向けられるもので、相手が自分を愛しているかどうかには関係なく、無償で与えられます。アガペは、神の愛や、神が人間に対して持つ愛を最もよく表しています。
私たちは、自分自身の期待や欲望を満たすエロスの「愛」や、友情や親しい関係に基づく条件付きのフィリアの「愛」を経験してきました。時に恋に破れ、友情に裏切られ、その愛に傷つき、痛みを覚えることは少なくありません。私たちはそのような経験を繰り返しながら生きてきましたが、そんな私たちがイエス・キリストと出会い、これまで経験したことのない無償で自己犠牲的な愛、相手のために自分を捧げる無条件の愛を知ったのです。そして、その無条件の愛を知っただけでなく、その愛によって愛されていることを知ったのです。無条件の愛を知った使徒ヨハネは、「神はそのひとり子を世に使わし、私たちがその子によって命を得るために、神の愛は私たちに示されたのです。愛とは、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためにその子を贖いの供え物としてお送りになったことです。」と言いました。この「愛」は、エロスやフィリアのような自己中心的で、他人に依存する「愛」ではなく、イエス・キリストによって示された神の無条件のアガペの「愛」なのです。私たちの人生は、神の愛を知ることによって新しくされ、神の愛で満たされ、愛する者とされました。ヨハネが語ったこの御言葉は、まさに神の真実の愛を知った時の心境を表現しています。だからこそ、私たちもイエス・キリストの真実の愛を知った者として、自己犠牲的に愛を表すべきなのです。それがなければ、お互いに愛し合うという目的を掲げても、それは意味を成しません。ですから、私たちは真理である神のことばに従うとともに、自分のたましいが清められることを求め、互いに愛し合うことが切り離せないものであることを理解しなければなりません。
もちろん、真理である神のことばに従い、たましいが清められることを求めていても、十分に互いに愛し合っていると胸を張って言えるわけではないかもしれません。しかし、私たちは、汚れも傷もない子羊の血潮、すなわちイエス・キリストのいのちという尊い代価によって、死と滅びから解放され、たましいが救われ、永遠のいのちが与えられたことを知っています。それによって、イエス・キリストと同様に、互いに愛し合う者とされているのです。私たちが生きるこの地上の現実は、愛を語りながらも、愛に裏切られる世界です。しかし、そのような中にあっても、イエス・キリストによって新しく生まれ変わった者として、互いに愛し合うことを諦めずに生きることができるのです。
“あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。”22
“この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。”1テモテ1:5
Author: Paulsletter