4月12日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちを新しくするキリストの復活」
コリント人への手紙第一15章3~5節
私は、イースターにまつわる忘れられない思い出があります。牧師になって5年ほど経った、あるイースターのときのことです。当時、阪神地区の協力教会が集まり、神戸女学院の講堂でイースター早天礼拝が行われました。そのとき、私は聖書朗読の奉仕を与えられていました。礼拝が終わり、講壇を降りていたところ、一人の年配の女性が駆け寄ってきて、突然私に話しかけてこられました。「牧生ちゃん、お分かりになりますか」私はそのお顔に見覚えがなく、戸惑っていると、その方は、甲子園の二葉幼稚園で先生をしておられたとおっしゃいました。実は私は、日本キリスト教団甲子園二葉教会附属の二葉幼稚園の園児でした。入園して2か月ほど経った6月に、父が療養することになり、私は父の郷里である長野県の祖父のもとに預けられることになりました。この女性は、私が在園していた4月と5月の、わずか2か月間だけ担任してくださった先生だったのです。その方は、それから(当時すでに20数年が経っていましたが)なお私のことを覚えていてくださり、「ずっと祈っていましたよ。ご立派になられましたね」と、本当にうれしそうな顔で声をかけてくださいました。教会附属の幼稚園であり、私が牧師の子どもであったこともあったでしょう。しかし、わずか2か月間の関わりであったにもかかわらず、私のことを覚え、ずっと祈り続けてくださっていたのです。
聖書を紐解くと、すべての福音書において、イエス・キリストの十字架の死と埋葬、そして復活の記事が克明に記されています。イエス・キリストは生前、弟子たちに対して、ご自身がエルサレムで苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを繰り返し語っておられました。しかし、弟子たちはその言葉の真意を理解できず、かえってその話を避けるほどでした。そのため、実際にイエスが捕らえられ十字架に付けられたとき、弟子たちは恐れに支配され、イエスを見捨てて逃げ去ってしまったのです。息を引き取られたイエスの遺体を引き取ったのは、ユダヤ教の最高法院(サンヘドリン)の議員でありながら、密かにイエスの弟子となっていたアリマタヤのヨセフでした。彼は勇気を出してピラトに遺体の引き渡しを願い出、まだ誰も葬ったことのない自分自身の新しい墓にイエスを納めました。また、ヨハネの福音書によれば、ニコデモもこれに協力し、多量の香料を持って遺体を整えたと記されています。イエスの遺体が安置されると、墓の入り口は大きな石でふさがれました。翌日、祭司長たちは「三日の後によみがえる」というイエスの言葉を思い出し、弟子たちが遺体を盗み出して「復活した」と嘘をつくのを防ぐため、ローマ総督ピラトの許可を得て墓を封印し、番兵を置いて厳重に監視させました。ところが、安息日が終わった週の初めの日の早朝、マグダラのマリアをはじめとする女たちが墓を訪れると、石は転がされ、墓は空になっていました。彼女たちは、その後、復活されたイエス・キリストご自身に出会うことになります。今朝の聖書箇所にも記されている通り、主イエスは一度きりではなく、その後四十日にわたって、繰り返し弟子たちの前にその姿を現されました。疑う弟子には傷跡を見せ、共に食事をし、聖書を解き明かすことで、彼らの不信仰を確信へと変えられたのです。こうして復活の主と出会い、聖霊の力を受けた弟子たちは、かつての臆病な姿から一変し、命を懸けて「復活の証人」として全世界に福音を宣べ伝えていくこととなりました。
イエス・キリストの復活ということについて、皆さんはどこまで信じることができるでしょうか。イエス・キリストの復活をこの目で目撃した弟子たちでさえ、その復活をすぐには信じることができませんでした。実のところ、私自身もイエスの復活について、聖書の教えとしては信じていたとしても、あるいは、イエス・キリストの復活がなければ十字架の意味が明確にならないということを理論的には理解していたとしても、どこかで今ひとつ、本当に心から自分のものとなっていなかったのです。しかし、私自身がイエス・キリストの復活、すなわち「イースターの恵み」について本当に腑に落ちたのは、先に述べた神戸女学院のイースター礼拝後の出来事のときだったのです。私にとってのイースターの忘れられない思い出とは、二十数年ぶりに幼稚園の先生と再会したという出来事そのもの以上に、イエス・キリストの復活について、頭の理解を超えて、心の底から明確に受け止めることができた出来事であったのです。私にとって、父の病気を理由に父の実家に預けられた経験は、楽しいものではなく、むしろ心に傷を残すような悲しい思い出でした。真っ暗な寝床に横たわっている父の姿は、幼いながらも父が重い病気であることを感じさせ、漠然とではありましたが、このまま父が死んでしまうのではないかという恐れを抱かせる経験でもありました。実家にたどり着き、用意された布団の中で、一人泣いたことを今も覚えています。そのような経験を経てから二十数年後、神戸女学院でのその女性との再会は、私がそれまで持っていたイエス・キリストの復活の意味を大きく覆すものとなりました。つまり、振り返ってみると、私が初めて深い苦しみを味わっていたあの時でさえ、その向こう側で私のことを知り、心にかけ、祈り続けてくださっていた方が確かにおられたという事実に気づかされたのです。私は、その女性との再会を通して初めてそのことを知りました。しかし、それは私が気づいていなかっただけで、実際にはその事実は確かに存在していたのです。言い換えるならば、私の知らないところで、私の人生と共に歩んでくださっていた方がおられたと言っても過言ではありません。そして、その方の存在と重なるように、イエス・キリストもまた、常に私と共にいてくださったのです。私が気づかないところで、また知らないところで、イエス・キリストは私のために十字架で死なれただけでなく、墓に葬られ、よみがえられました。まさにイエス・キリストが「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束されたとおり、主は今も私たちと共にいてくださるのです。私はこの女性との再会を通して、その事実に気づかされました。しかし、たとえその再会がなかったとしても、彼女が私のために祈り続けてくださっていたという事実は、決して揺らぐことのない現実なのです。このように、たとえ私が神のことを知らず、また信じることができなかったとしても、神が私と共にいてくださり、共に歩んでくださっているということは、確かな事実であると気づかされたのです。
初代教会から二千年後の今日の教会に至るまで、最も大切なこととして伝えられてきたのは、イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、そして三日目によみがえられたという事実です。大切なのは、この事実を私たちが知っているかどうかということではありません。また、目に見えなければ信じられないということでもありません。私たちの態度がどうであっても、神が私たちを愛し、私たちのためにイエス・キリストを十字架につけ、よみがえらせてくださったということは、揺るぐことのない歴史的事実なのです。だからこそ私たちは、自分の知らないところにおいても、神の御業が確かに成されていることを信じることが大切なのです。
“私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、…” 1 コリント15:3-
今朝も、イエス・キリストの復活について、三つのポイントを挙げて、共に分かち合いたいと思います。
① 私たちのもっとも大切な罪と死の問題に答えを与えます
聖書は、「人間とは何なのか」という問いに対して、明確な答えを提示しています。伝道者の書3章11節に記されているとおり、神は「人の心に永遠を与えられました」。私たちは単なる物質的な存在ではなく、「神のかたち」として創造された特別な存在です。そのため私たちは、永遠なる神に対する霊的な渇きを持ち、神を求めるように造られています。しかし、人間が自らの意志で創造主なる神から離れ、背を向けた結果、本来与えられていた「神のかたち」は損なわれ、人間は罪と死に支配されるようになりました。人間は本来、霊的な存在として創造されたゆえに、本能だけで生きる動物とは決定的に異なります。動物も命を持って生きていますが、人間のように罪の自覚に苦しんだり、死の先にある問題の解決を求めたりはしません。人間だけが、自らの罪と死という根本的な問題に対して、答えを求める存在なのです。私たちは、「どこから来て、どこへ行くのか」を知る必要があります。しかし、自らの存在理由や、特に避けることのできない「肉体の死」について、私たち自身は根本的な解決策を持っていません。人類は知恵と知識を尽くし、医療によって寿命を延ばそうと努めてきましたが、死そのものを克服することはできません。同様に重大なのが「罪の問題」です。私たちは本来、互いに愛し合い、平和を築くべき存在であると知りながら、実際には憎しみや妬み、悪意といった罪に支配されています。これは個人の内面の問題にとどまらず、社会や国家レベルでの争いや憎しみの連鎖として現れています。聖書が語るように、人間は「善を行いたいと願いながら、かえって悪を行ってしまう」という矛盾の中で苦しんでいるのです。私たちが真に人間らしく、希望をもって生きるためには、生活の安定や夢の実現以上に、「罪の赦し」と「死の克服」という二つの根本問題が解決されなければなりません。その唯一の解決が、イエス・キリストの十字架と復活です。神のひとり子であるイエスが、私たちのすべての罪を背負って身代わりに死なれたことによって、神の愛が示され、罪の赦しの道が開かれました。また、イエスが死に打ち勝ってよみがえられたことによって、私たちには死を越えた永遠のいのちの保証が与えられました。イエス・キリストの復活こそが、行き詰まりに見える私たちの人生に、最も確かな解決と希望の道を与えるのです。この方を受け入れるとき、私たちは再び神との交わりに立ち返り、本来の創造の目的に従って歩み始めることができるのです。
“神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。” 伝道者の書3:11、第三版
② 私たちの信仰を確信のあるものにします
今朝の御言葉を読むにあたり、パウロの書き方にぜひ注目してみてください。パウロが「最も大切なこと」として強調しているのは、私たちの内面的な変化ではなく、イエス・キリストに起こった歴史的な出来事そのものです。一般的に「信仰」は、個人の「心の持ち方」や「気の持ちよう」といった主観的な精神状態として理解されがちです。多くの人は、信仰を「物事の捉え方」「心の平安」「悟り」「前向きな姿勢」などと結びつけて考えています。しかし、パウロが語る信仰の本質は、そのような主観的な思いや心理状態とは明確に異なります。パウロが懸命に伝えているのは、私たちがどう感じるかではなく、「イエス・キリストにおいて何が起こったのか」という客観的な事実です。パウロが「最も大切なこと」として掲げるのは、キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたという出来事です。これらは、特定の時間と場所で起こった歴史的・客観的事実にほかなりません。パウロにとって福音とは、個人の心理的な癒やしではなく、「神が歴史の中に具体的に介入された」という事実そのものです。だからこそ、キリスト信仰は「私たちがどう思うか」という不安定な土台の上に立っているわけではありません。私たちの心が揺れ動き、確信が持てない時であっても、「キリストが死に、葬られ、よみがえられた」という事実は決して揺らぎません。パウロは、この客観的な事実こそが、私たちを罪と死から救う唯一の解決策であり、次世代へ、そして世界へと伝えるべき最も重要なメッセージであると強調しています。この事実を受け入れることこそ、聖書が教える真の信仰の姿なのです。
イエス・キリストというお方は、私たちにとって単なる「精神的な支え」や「漠然とした希望の象徴」ではありません。私たちの信仰の根拠は、自分の内面にある揺れ動く感情ではなく、二千年前の歴史の中に確かに起こった「イエス・キリストの客観的事実」にあります。この動かしがたい事実こそが、私たちの信仰を確かなものとし、どのような困難の中でも揺らぐことのない真の希望を与えるのです。もしイエス・キリストが死者の中から復活されなかったのであれば、私たちがどれほど熱心に信じ、洗礼を受け、あるいは自分の信仰の強さを他者と比較したとしても、それらは救いの根拠にはなり得ません。パウロが指摘するように、もしキリストがよみがえられなかったのなら、私たちの信仰は空しく、私たちは今もなお罪の中に閉じ込められたままなのです。救われているという実感さえ、単なる「思い込み」に過ぎなくなってしまいます。しかし、私たちが「罪を赦された」と確信をもって言えるのは、自分の感情が安定しているからではありません。イエス・キリストが実際に私たちの罪のために十字架にかかられたという事実があるからです。また、私たちが「永遠のいのち」を与えられていると確信できるのは、それが願望ではなく、イエス・キリストが実際に死からよみがえられたという歴史的事実に基づいているからです。パウロが「最も大切なこと」として伝えた福音とは、彼自身も受け取った、「キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、そして三日目によみがえられた」という歴史的事実にほかなりません。
“そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは滅んでしまったことになります。…しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。” 15:17-
“死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。…” 15:42-
③ 私たちの人生をゴールに焦点の合ったものにします
私たちは、イエス・キリストを信じることによって永遠のいのちを与えられています。「永遠のいのちを得る」とは、単に死後に天国へ行くという意味だけではありません。私たちは今、この地上で肉体のいのちをもって生かされていますが、同時にすでに「神の国」に属する者として生き始めているのです。たとえこの肉体が朽ち果てても、永遠のいのちを与えられた私たちは、神の国において永遠に生かされます。つまり、キリスト者の歩みとは、地上の生涯を大切にしつつも、そこだけで完結するのではなく、常に神の国の完成に目を向けて生きることなのです。人生は自分ひとりの力で築き上げているのではありません。私たちが気づかないところで、私たちのために祈り、支えてくださっている方々がいます。その祈りと支えがあってこそ、今の私たちがあるのです。これから婚約式に臨むお二人も、出会い、結ばれる決意をされました。しかし、その背後にはお二人の思いだけでなく、ご家族や教会の方々の多くの祈りがあったことを忘れてはなりません。そして、私たちはそれ以上に偉大な事実を知っています。それは、私たちが神を知らず、まだ罪人であった時に、すでに私たちのために十字架にかかってくださった方がおられるということです。この圧倒的な愛の事実を知るとき、私たちの人生が新しくされないはずがありません。
パウロはコリント人への手紙第二5章15節で次のように語っています。「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」私たちの人生は、単に「自分が幸せになればよい」というレベルのものではありません。神の御心がこの世界で行われるために、そして神の愛がすべての人に届けられるために、私たちは生かされています。「私が神に愛されている」という喜びを知ったからこそ、私たちのために死に、よみがえってくださった方がおられるという福音を、すべての人に伝えていく使命が与えられているのです。イエス・キリストの復活という歴史的事実を信じ、心から主をあがめ、その復活のいのちに生かされて歩みたいと願っています。
“兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。”15:50
“キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。…ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” 2コ リン ト5:15-
Author: Paulsletter
