1月26日メッセージ
小平牧生牧師
「ひたすら待ち望む」
(ペテロから私たちへの手紙④)
ペテロの手紙第一1章13~16節
ペテロは、この手紙の中で、神に選ばれ召された人々に対し、「生ける望み」が与えられていることを、様々な表現を用いて思い起こさせようとしています。「神の子」とされたということは、イエス・キリストによって新しく生まれ、たましいが救われたことを意味します。そして、「神の子」として、神の国の相続人とされたのです。そのため、人々は大いに喜んでいます。このようなキリスト者の人生について、ペテロは「ひたすら待ち望む人生」であると語っています。
この「ひたすら」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語では「τελείως」(テレイオース)という語が用いられています(※詳しくは『新約聖書ギリシア語辞典』をご参照ください)。この語は「完全に」「徹底的に」「全く」といった意味を持つ副詞であり、「目標や終点に向かって全力を尽くして何かを成し遂げようとする」ニュアンスを強調します。また、この言葉は外見上は静的であっても、その内には強い確信と大いなる期待が込められている姿を示しています。したがって、この節で使われている「ひたすら」は、単に漫然と待つことではなく、目標をしっかりと見据えた意識的かつ徹底的な態度を意味します。ペテロはキリスト者に対し、イエス・キリストの再臨という希望に心を向け、積極的で意識的に待ち望む姿勢で生きるよう促しているのです。
それでは、なぜそのような生き方が求められるのでしょうか。それは、すでに実現したイエス・キリストの十字架の死と復活による救いがあるからです。私たちが将来に希望を託すのは、現在希望を持てないからではありません。むしろ、イエス・キリストから与えられた恵みは、すでに与えられているものであり、それは、朽ちることも汚れることも消えることもない永遠のものであるからです。そして、この恵みは、再びイエス・キリストが来られるときに完全に成就します。それは、約束され、完成された神の国を受け継ぐという確かな希望でもあります。私たちは「祭りの前夜を過ごす」ように、そのときを「ひたすら」待ち望む姿勢で生きるべきなのです。もちろん、その時がいつ訪れるのかは神が定められることであり、私たちが知るところではありません。しかし、そのときをどのような態度で待ち望むかは、私たち自身の選びに委ねられています。本日は、この「ひたすら」という言葉に注目し、その意味について共に考えてみたいと思います。
※新約聖書ギリシア語辞典
Therefore gird up the loins of your mind, be sober-minded, and set your hope completely (teleiōs | τελείως | adverb) on the grace that will be brought to you at the revelation of Jesus Christ.
※筆者談:他の英語訳聖書を調べたところ、この語には「completely」「perfectly」「fully」「to the end」といった単語が使われていました。
① 従順な子どもであることへのひたすらさ
私たちは、イエス・キリストが再び来られるときを、どのような態度で待ち望むべきでしょうか。それは、過去に罪に囚われていた古い性質に支配されることなく、神の子として従順に生きることです。ただし、注意すべきは、何に対して、また誰に対して従順であるべきかという点です。誤った対象に従順になるほど、その過ちは大きな結果をもたらします。私たちは、神の子として正しい選択をしているかどうかを見極める必要があります。具体的には、「神のかたち」として創造された者に相応しい生き方とは何か、すなわち、神に対する従順さを選ぶのか、それとも地上の欲望に従うのかという選択が問われています。かつて私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活を知らず、自分の欲望のままに生きていました。しかし今は、神の愛と十字架の贖いによって新しく生まれ、神の子とされました。そして、神の財産を受け継ぐ者とされたのです。また、試練の中で悲しむときには神の力によって守られ、終わりのときには、完成された確かな救いに預かることを知っています。だからこそ、私たちはこの世の欲望に従う必要はありません。むしろ、従順な神の子としての希望に生きることを、大いに喜ぶべきなのです。
“従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、” 14
② 自分を動かしているものへのひたすらさ
ペテロは、私たちが神に従う従順な子とされたのだから、イエス・キリストの十字架の死と復活を知らなかった頃のように、さまざまな欲望に従うことなく、神の子として相応しい聖なる者となりなさい、と語っています。彼は、内に働く神の子としての喜びと、この世の喜びを比較しながら、私たちを動かしているのはどちらなのか、と問いかけています。私たちは一体何によって動かされ、何に従順であるべきなのでしょうか。私たちは、自分の価値に相応しい生き方をしなければなりません。
この世にあって、朽ちるものや消えていくものが、私たちの目には素晴らしいものに映り、魅力的に感じられることがあるでしょう。それらは私たちの欲望を刺激し、時には私たちを誘惑します。しかし、立派に成功を収めた人々でさえ、そのような欲望に囚われることで、長年築き上げた輝かしい業績や地位を一瞬で失ってしまうことがあります。この現実を目の当たりにするとき、私たちは、この世において何を自分の喜びとし、何が自分の心を動かしているのか、何を期待して待ち望むのかを明確に自覚する必要があります。そうでなければ、私たちもまた、さまざまな欲望に支配される危険性にさらされることを忘れてはなりません。
物の価値はどのように測られるのでしょうか。その物の価値は、主にその物をどれだけの値段で購入できるか、つまりその貨幣価値によって測られることが一般的です。価値は供給と需要のバランスによって変動し、物がどれだけ求められているかや、その物を得るためにどれだけの対価を払うべきかに影響されます。
ペテロは、「あなたがたがむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物によるのではなく、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」と語っています。当時、金や銀は価値が下がらない高価なものであると考えられていましたが、それにも増して、イエス・キリストのいのちという代価を払って、罪の奴隷であった私たちが買い戻されたのです。つまり、私たちの価値はイエス・キリストのいのちと同等であり、非常に高価で尊いものなのです。にもかかわらず、どうして私たちはこの世の欲望に従順になる必要があるのでしょうか。私たちの価値に相応しい選択とは、この世と調子を合わせることではなく、神の御心を求め、何が良いことであり、何が神に受け入れられるかを見分けることです。聖霊なる神が私たちに語りかけておられます。私たちは神の子としての自覚を持ち、その喜びによってイエス・キリストを「ひたすら」に待ち望むべきなのです。
“従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、” 14
“ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。”ローマ12:1-2
③ キリストにならって生きることへのひたすらさ
ペテロは、キリスト者に対して、「召してくださった聖なる方(神)に倣い、すべての生活において聖なる者となりなさい」と命じています。この命令は、レビ記11章44節からの引用であり、神がイスラエルの民に「聖なる民」であることを求めたように、キリスト者にも聖なる生活を送るように求めたものです。繰り返しになりますが、神の愛とあわれみによって、私たちはイエス・キリストの十字架のいのちによって新しく生まれ、神の子とされ、神の財産を相続する者とされました。やがてイエス・キリストと再びお会いするその日まで、イエス・キリストに倣ってすべてのことにおいて聖なることを求める生き方こそが、私たちを突き動かすものであり、その「ひたむきさ」が大切なのです。
したがって、私たちにとって、朽ちて消滅するようなものに従う生き方は、キリスト者として相応しくありません。私たちが相応しいのは、私たちを愛してくださった聖なる神に倣って生きることであり、神はその歩みを支えてくださいます。私たちはしばしば、それができるかどうか、現実的かどうかをすぐに考えてしまいますが、大切なのは、私たちがすでに「神の子」とされていることを知っているということです。無知ではなく、そのことを知っている以上、「神のかたち」は私たちのあるべき姿であり、イエス・キリストに倣って生きるべきなのです。
私たちの模範者は、イエス・キリストです。人間的に考えると、その模範はあまりにもレベルの高いものです。イエス・キリストが模範者であると聞かされると、立ちすくんでしまうかもしれません。しかし、問われているのは、それを完璧に実行することや成し遂げることではありません。「神の子」とされた喜びを持って「ひたすら」に生きることが大切なのです。すなわち、「神の子」であることを「ひたすら」に求め続ける姿勢が重要です。その姿勢を持ち続けることで得られる喜びが、「神の子」とされたことを実感させ、「神の子」として何をすべきかを決定する力となり、さらにその自覚が深まるのです。
「神の子」であることを自覚するのは、祈りの中で感じられることもありますが、この世のさまざまな現実の中で、その価値観を選び取らずに捨てることでもあります。それは、ある意味で厳しく辛い決断かもしれませんが、その選択を通して私たちは「神の子」としての実感を深めることができるのです。
私たちは、神のすべてのものを受け継ぐ者として、天に財産が蓄えられています。ですから、私たちに備えられているものは、この地上のものとは比べものにならないほど大きいものです。私たちは、再臨のイエス・キリストを待ち望みながら、「神の子」としてどのような豊かさの中で生きるべきかを、少しずつ学んでいきます。時には「神の子」として喜び、時には痛みや悲しみを経験するかもしれませんが、その中で私たちはよりイエス・キリストに似た者へと変えられていきます。
私たちは「神の子」としての実感を深め、その喜びによってイエス・キリストを「ひたすら」に待ち望むのです。
“むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。” 15-
“このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。…それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。…” 2:21-
Author: Paulsletter