1月19日メッセージ
小平牧生牧師
「調べられ、告げ知らされる救い」
(ペテロから私たちへの手紙③)
ペテロの手紙第一1章6~12節
皇帝ネロによる大迫害の中、多くのキリスト者たちは、イエス・キリストを信じるがゆえに、苦しみや虐待、迫害に耐えていました。しかし、ペテロはそのような試練に直面している人々に向けて、「大いに喜んでいる」と語っています。そして、その喜びを「尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」と表現しています。
ペテロ自身もまた、この手紙に記された内容を体現するかのように、激しい迫害の中で内なる喜びを抱きながら殉教の死を遂げました。では、彼や他のキリスト者たちは、なぜこれほど厳しい状況の中でも喜ぶことができたのでしょうか。その理由は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって確かな「たましいの救い」が与えられたことにあります。この救いがもたらした「生ける望み」が、彼らを支え、生涯を全うする力となったのです。
キリスト者は、このような苦難を経験することで、その信仰が精錬され、不純物を取り除くために炉に入れられる金のように、より成熟した信仰へと導かれます。それは、イエス・キリストと再び出会うための準備として必要なものです。そして、生涯を終えたとき、信仰の実りとして、神から賞賛、栄光、そして誉れを受けることができるのです。
神戸市御影には、「母の家ベテル」という施設があります。ここでは、プロテスタントの献身的な女性たち(ディアコニッセ)が共同生活を送り、奉仕の精神をもって多様な活動を展開しています。「母の家ベテル」の歴史は、1899年、ドイツ・東プロイセンのボルケンという町で、一人の牧師と4人の女性が「母の家」を創設したことに始まります。「ディアコニア」とはギリシャ語で「仕える」「奉仕する」という意味で、「ディアコニッセ」は「奉仕する女性」を指します。「母の家ベテル」では、このような女性たちが、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」という聖書の教えに基づき、福音を伝えるために、さまざまな奉仕活動を行い続けています。
ある日、牧師の会合で「母の家ベテル」を訪れた際、いつも目にする婦人の姿が見えなかったため、「〇〇さんはどうされていますか?」と職員に尋ねました。すると、「祭りの前夜を過ごしておられます」という答えが返ってきました。これは、イエス・キリストの再臨を待ち望む「大きな喜びの準備期間」を詩的で、かつ、象徴的に表現したものでした。
聖書では、イエス・キリストの再臨は「主の日」と呼ばれ、キリスト者にとってその日は祈りと喜びをもって準備する特別な時です。この「再臨を待ち望む姿」を「祭りの前夜」とたとえた表現には、期待感や高揚感とともに、霊的な準備をしている心の状態がよく伝わってきました。ペテロも同様に、この手紙を書いた後、大きな喜びを持って、「祭りの前夜を過ごす」ように、主の再臨を待ち望みつつ、殉教していったことでしょう。それは、ペテロもまた、「たましいの救い」を得ていたからだと思います。本日は、ペテロの語った、イエス・キリストによる救いの確かさについて考察したいと思います。
① 救いはあらかじめ語られていた
ペテロはこの手紙の中で、イエス・キリストによる救いについて語っています。それは「終わりのとき」に明らかにされるように用意され、信仰の結果として与えられるものであり、同時にすでに与えられているものでもあると述べています。この救いは、キリストを信じる者たちの考えや宗教的教えによって作り出されたものではなく、イエス・キリストが約二千年前に地上に遣わされたときに始まったものでもありません。救いの計画は、イエス・キリストの地上での生涯や十字架の死、復活の時代よりもはるか以前から存在していました。それは旧約聖書の預言者たちを通して語られ、メシアの到来が「いつ」「誰によって」「どのように」実現するのかを神が示してこられたものです。
多くの預言者たちは、それぞれ異なる時代や場所に生きていましたが、メシアの到来について熱心に探求し、細かく調べました。ただし、彼ら自身がそのすべてを理解していたわけではありませんでした。彼らが知っていたのは、自分たちの預言が自分たちのためではなく、未来の世代、すなわちイエス・キリストを信じる私たちのために与えられたものであるということです。これらの預言は、聖霊の働きを通じて神が前もって啓示されたものであり、預言者たちはメシアの到来を直接見ることなくこの世を去ったのです。
私たちは、旧約聖書を難解で分かりにくく、何のためにあるのかと感じることがあります。その背景には、「信仰」が自分を力づけたり励ましたりするものであり、自分が天国に行ければそれで良いという、非常に個人的で自己中心的な考え方があるのかもしれません。しかし、神が与えられた救いは、個人的で限定的なものではありません。それは世界全体、被造物全体に及ぶ壮大な救いの計画なのです。
この救いとは、単に私個人の罪が赦されるだけでなく、悪そのものが完全に滅ぼされる必要があります。なぜなら、悪が存在する限り、そこから完全に解放されることはできないからです。ですから、神は私たちの罪を赦すだけでなく、悪を完全に滅ぼしてくださるのです。それこそが、私たちを含む被造物全体に対する救いの完成であり、神の計画の全貌なのです。
救いの約束は、神の永遠の計画の中で用意されており、新約聖書の至るところに記されています。ローマ人への手紙1章2節から3節では、神の救い、すなわち「福音」が突然現れた新しい考えではなく、神が旧約聖書で預言者たちを通して前もって約束されたものであることが示されています。このことにより、福音は一貫した神の救いの計画であることが明らかにされているのです。
“この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。” 10-11
“この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。” ローマ 1:2-
② 救いはすでに実現している
イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちは新しく生まれ、「たましいの救い」を得ることができました。これは、ただ神の大きな愛とあわれみの故であり、私たちが願ったことでも、善行を積んだことでもありません。イエス・キリストの十字架の死と復活は、完全な贖いを証しするものであり、それによって私たちは神の子とされました。私たちは死んで終わりではなく、神の国を相続する者として、生ける望みを与えられています。繰り返し言いますが、これは神の愛とあわれみの故であり、代価を支払ったわけでもなく、受けるにふさわしくない私たちが、神の恵みによって一方的に与えられているものに過ぎません。そして、その愛の実体を理解すべきです。この愛は、イエス・キリストの十字架の死と復活という受難の事実と共に存在しており、すでに実現しているのです。
“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。…”3-
“しかしキリストは、…雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。” ヘブル9:11-
③ 救いは私たちに伝えられている
旧約聖書の預言者たちは、メシアの到来がいつ、誰によって、どのような形で実現するのかを熱心に調べ、求めました。しかし、彼らはその実現を直接見ることなく、未来の世代である私たちのために神の啓示を語る役割を果たしました。やがて、預言者たちが調べたことは、聖霊に導かれた福音を語る人々を通して、未来の世代にも告げ知らされるようになりました。御使いたちもその全貌をはっきりと見たいと願っていると書かれていますが、神の御使いも預言者たちと同様に、すべてを知っているわけではなく、やがてその救いの全貌が明らかにされることを願っていたのです。現在、聖書は編纂され、さまざまな言語に翻訳され、手に取って読むことができるようになり、旧約時代の預言者たちが詳しく調べたことが、聖書の御言葉を通じて私たちにも伝えられています。
聖書の御言葉は、神が直接私たちに語りかけることもありますが、キリスト者の交わりを通じて気づかされることもあります。もちろん、預言者がすべてを理解していなかったように、私たちにもすべてが明らかにされておらず、十分に知らされていないこともあります。しかし、いずれ全貌が明らかにされる時が来ることは確かです。大切なのは、知らされていないことを無理に知る必要はなく、明らかにされていることをしっかりと受け止めることです。はっきりしていることは、神の救いの計画が明確に実現され、その完成を待っているということです。それをしっかりと受け止め、信じて歩んでいきたいと思います。
最後に、聖書が明確に示し、実現していることは、神の大きな愛とあわれみによって、私たちが選ばれ、イエス・キリストの十字架の死と復活によって新しく生まれ、生ける望みを持っているということです。今後、さまざまな試練の中で悲しまなければならない経験をするかもしれませんが、イエス・キリストと再びお会いするその時まで、「祭りの前夜を過ごす」ように歩んでいきたいと思います。神はすべてのなやみ、悲しみ、苦しみをご存じです。私たちは神の力によって守られると約束されていますので、その約束を信仰の土台として、喜びをもって主の再臨を待ち望みたいと思います。
“彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。…”12
“私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。” 1ヨハネ1:3-
Author: Paulsletter