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「私たちのために捨てられるイエスキリスト」

2025 4/14
メッセージを読む
2025年4月13日2025年4月14日

4月13日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちのために捨てられるイエスキリスト」
マタイの福音書26章69~75節

 本日は「棕櫚の主日」です。「棕櫚の主日」とは、イエス・キリストがエルサレムに入城したことを記念する日で、イエスがエルサレムに入城した際、群衆が棕櫚の枝を手に持って歓迎したことに由来します。棕櫚の木は、王や英雄の凱旋を祝う際に用いられたことから、勝利の象徴とされていました。そのため、人々はイエスを勝利の王、救い主として迎えたのです。しかしその後、イエスは十字架にかけられ、復活することになります。復活の前日までの最後の1週間は「受難週」と呼ばれ、これらの出来事は四つの福音書すべてに共通して記されています。

 私たちは、今年に入ってから、使徒ペテロが最後に書き記した手紙を繰り返し読んできました。これまでお話ししてきたように、ペテロは、当時ローマ帝国による迫害の苦難に直面し、離散していたキリスト者たちに向けて、イエス・キリストによって与えられたたましいの救いという福音の真理と、終末に対する希望、そしてその信仰にある喜びを、さまざまな角度から言葉を尽くして語り、励ましを与えてきました。 

 ペテロは、かつてガリラヤ湖の北東にあるベツサイダという町の漁師でした。彼はガリラヤ湖畔でイエスに召し出され、網を捨てて弟子となり、イエスに従いました。その後、ペテロはイエスが十字架にかけられるまでの約3年間、寝食を共にしたのです。その中で、ペテロは十二使徒の中でも特にイエスに近しい存在となり、後に初代ローマ教皇と位置づけられる教会の指導者へと成長しました。しかし、そんな彼も、最後の1週間にとんでもない失敗をしてしまいます。その出来事が描かれているのが、今朝の聖書箇所です。

 過越の食事の席で、イエスは弟子たちに「あなたがたの中に裏切り者がいる」と告げ、さらに「弟子たち全員が私を見捨てて逃げ出す」と予告します。ペテロは「私は決してあなたを見捨てません」と強く主張しますが、イエスは「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と告げました。やがて、十二弟子のひとりであるユダが、祭司長や民の長老たちから差し向けられた群衆を引き連れて現れ、イエスは捕らえられます。そして、大祭司カヤパの屋敷に連れて行かれました。ペテロも遠くからイエスのあとをつけ、大祭司の中庭にまで入り、成り行きを見守っていました。そのとき、女中の一人が近づいてきて、「あなたも、ガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」と声をかけます。しかしペテロは、皆の前でそれを否定し、「何を言っているのか、私にはわからない」と言いました。同じようなやりとりが三度続き、ペテロは三度、イエスを知らないと否定してしまいました。そのときペテロは、イエスが言われた「鶏が鳴く前に三度、あなたは私を知らないと言う」という言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。このときのペテロの感情は、単にイエスの言葉を思い出しただけではなく、自分の弱さや足りなさ、愚かさを痛感したことによるものであったと推察されます。これらの出来事は、ペテロがどれほど弱い人間であったとしても、神の手の中で養われ、やがて教会の指導者へと変えられていく姿を示しており、神が弱い者をも育て、用いられることを私たちに教えているのです。

 ペテロにとって、これらの出来事は非常に恥ずかしく、できれば自身の歴史から消し去りたいものであったかもしれません。しかし、四つの福音書すべてが、この出来事を詳細に、しかも克明に書き記しています。まるで、ここまで丁寧に書く必要がないのではないかと思うほど、見事に詳述されているのです。なぜ、ここまで詳しく記されているのでしょうか。当時の教会の最高指導者であったペテロの大失態がしっかりと記録されているのは、人がどれほど弱い存在であったとしても、イエス・キリストがこの地上に来られ、十字架にかかられた目的を明らかにするためです。もし、このような出来事が記されなかったなら、イエス・キリストの教えは単なる理念や概念にとどまってしまったでしょう。実際に、教会の最高指導者となるべきペテロが、イエス・キリストを否定してしまったという事実は、人間の徹底的な弱さを示しています。そして同時に、主はそのような者を新しく生まれ変わらせ、イエス・キリストの真の弟子としてくださるのだという証しでもあるのです。そんなペテロが、自らの手紙の中で証している御言葉が、ペテロの手紙第一2章22〜23節に記されています。

“キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。” 1ペテロ2:22-23

 この手紙にペテロが書き記したことは、あの時の自身の大きな過ちを忘れてのことではなかったと思われます。イエス・キリストの筆頭弟子が三度も知らないと否定する姿を見ながら、主は、私たちの罪を負って十字架にかかられたのです。この御言葉を読み、礼拝のメッセージを準備する中で、「キリストは、正しく裁かれる方に委ねられた」とありますが、それができないために、私自身がどれほど苦しんできたことかと思います。ペテロは、その後、ローマ帝国の弾圧によって殉教したと言われていますが、この手紙には、神がそのような弱さをそのまま愛し、本物のキリストの弟子としてくださったという、神の愛と偉大さを体験的に知ったペテロの思いが込められています。

 私たちは、受難週を迎えて、自身の人生や生き方と切り離して、イエス・キリストの受難週を過ごすことはできないと思います。今朝は、受難週の1週間に登場する人物やペテロの姿を通して、私たちがキリスト者としてどうあるべきかを考えたいと思います。

目次

① イエスキリストは、私たちの偽りとねたみのために裁かれた

 ゲツセマネでイエスが逮捕された後、夜間に大祭司カヤパの官邸で最高法院(サンヘドリン)が開かれたという記録は、当時のユダヤ法と照らし合わせると、いくつかの点で異例です。ユダヤ法では、刑事裁判は原則として日中に行われ、夜間の開廷は例外的な措置でした。また、過越の祭りの期間中は、宗教的な理由から裁判を避けるべきとされていました。

 しかし、最高法院は「不利な偽証を得ようとした」とあるように、イエスを陥れることを目的に、これらの規則を無視して夜間に開廷したと考えられます。さらに、裁判の結論も事前に決まっており、イエスを死刑に処することが最初から目的だったことは、福音書の記述からも明らかです。最高法院はイエスを罪に陥れるため、偽証による証拠を集めようとしましたが、提出された証言は矛盾しており、適切な証拠とはなりませんでした。それにもかかわらず、審理の間、イエスは終始沈黙を守られました。最後にふたりの証人が進み出てイエスに不利な証言をし、大祭司はこれを受けて、イエスに「あなたは神の子キリストなのか」と問いかけます。イエスがこれを肯定したため、大祭司たちは神への冒涜罪にあたるとして、死刑に相当すると断じました。もちろん、イエスが神の子であるという主張は事実に基づいています。しかし彼らは、イエスに対する怒りや妬みに突き動かされ、真実なる神の子イエス・キリストを裁いてしまったのです。 

“さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。” 26:59

“ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。” 27:18

② イエスキリストは、私たちの恐れのために否定された

 ペテロは、捕らえられたイエスのあとをついて行き、遠くから成り行きを見ようし、そのところで、女中のひとりがペテロに近づいて来て、「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」と言うのです。ここで、女中のひとりと記されていることから、取るに足らない、無視してもおかしくない証言であったかもしれません。にもかかわらず、ペテロは狼狽してしまうのです。なぜなら、ペテロは、捕縛されたイエスと仲間とみなされることに恐れを抱いていたからです。この姿は、ユダヤの人々に追及されていたが終始沈黙を守っていたイエスの姿とは対称的です。次から次へと偽証されても、イエスは弁解をしませんでした。一方で、ペテロは、「何を言っているのか、私にはわからない」「そんな人は知らない」「のろいをかけて誓い始めた」とありますとおり、ことのほか多弁だったのです。福音書の記者も、何一つ弁解しないイエスの姿の一方で、恐れの中に自分の素性を隠しながら、多弁にイエスとの関係を否定する姿を対称的に一つの物語の中で描写しているのです。

 そう言われてみると、人は多弁なときほど、かえって嘘っぽく見えるものです。自分の足りなさを指摘され、誰かに申し開きできないことがあると、雄弁にそれを否定し、さまざまな言葉で自分を隠そうとしてしまうのです。けれども、神の前ではすべてが見通されています。どれだけ多弁に言い訳しようとも、本当の自分の姿は明らかなのです。福音書が完成した時には、ペテロはすでに教会の指導的な存在となっていました。しかしその後、彼は迫害の激しいローマへ向かい、殉教の死を遂げることになります。

 ペテロは、自分の伝道によって生み出された教会の人々に対し、かつてイエス・キリストを否定し、裏切った過去を、教会の交わりの中で、あのときの自分の弱さや愚かさを正直に証ししていたことでしょう。もしペテロ自身が、自分の失態を隠していたならば、このような事実は誰にも知られずに終わっていたかもしれません。しかし彼は、いかに自分が恐れに支配されていたかを証し、それを皆と共有したのです。そのことによってこそ、彼は「今、自分がここにいられるのは神の恵みのおかげだ」と、心から神に栄光を帰すことができたのです。自分の弱さや愚かさを隠す必要はありません。たとえ自分の失敗がどれほど大きく、決定的なものであったとしても、神の憐れみはそれ以上に大きいのです。それを証しする姿こそ、指導者ペテロの真の姿なのです。

“ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。” 26:75

③ イエスキリストは、私たちのために、わずか銀貨30枚で捨てられた

 マタイによる福音書26章15節には、祭司長たちがイスカリオテのユダに銀貨三十枚を支払ったことが記されています。そして27章3節には、イエスを売ったユダが、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返そうとしたことが記されています。しかし、聖書には、なぜ十二弟子の一人であったユダがイエスを裏切ったのか、その真相は明確には記されていません。

 ユダは、イエスが当時のローマ帝国に対抗してユダヤの王になろうとしているのだと、ある意味で政治的な期待を寄せていた一人だったのかもしれません。また、ユダはイエスを捕らえるために官憲を案内したことからも、ローマ側との関係をある程度築いていたと考えられ、政治的な意識が高かったことを示しているかもしれません。いずれにしても、結果としてユダはイエスを裏切り、銀貨三十枚でイエスを売り渡しました。銀貨三十枚という額は、出エジプト記21章32節によれば、奴隷一人を買い取る際に支払う額とされています。神は、「ご自身の御子さえ惜しまず、私たちすべてのために死に渡された」(ローマ8章32節)と記されている通り、イエス・キリストを与えるほどに私たちを愛されました。私たちは、イエス・キリストの命に等しいほどの価値を神から見いだされているのです。それにもかかわらず、イエスは奴隷一人分の価格で売られました。

 ユダは、イエスが罪のないことを知っていながら、自分の行為を悔やみ、銀貨三十枚を神殿に投げ込んだ後、自ら命を絶ちました(マタイ27章5節)。この悲しい出来事は、単にユダだけの問題ではありません。イエスが銀貨三十枚で売られたという事実は、私たちに重要なことを教えています。つまり、イエスを売る、裏切るという行為は、人生を決定づけるような大きな動機によるものではない、ということです。ユダの裏切りも、祭司たちの妬みも、ペテロの否認も、いずれも突き詰めれば、ほんの小さな動機、すなわち、些細な恐れや失望、期待外れという心の動きに過ぎなかったのです。

 私たちがイエス・キリストから離れてしまうのも、同じような理由によるのです。それは、聖書を読まなくなるとか、礼拝に行かなくなるとか、大きな迫害や困難があるからというよりも、むしろ、他に心惹かれるものができたり、何かしたいことがあったりする、といったちょっとした理由からです。人生を左右するような大きな決断ではなく、些細な選択や心の揺れが、いつの間にか私たちをイエス・キリストから遠ざけてしまうのです。

 この事実を心に留めるとき、私たちは自分の心の小さな傾きに敏感でありたいと願わずにはいられません。なぜなら、私たちを救うためにいのちを投げ出されたイエス・キリストの愛は、決して些細なことで見失ってよいものではないからです。

“こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。” 26:15

④ イエスキリストは、私たちの無責任のために十字架に引き渡された

 個人的に一番引っかかっているのは、ポンテオ・ピラトに関する記述です。
 前述のとおり、ユダヤの最高法院はイエスを死刑に相当すると断じました。しかし当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、十字架刑による死刑の宣告と執行はローマの総督によってのみ行うことができました。そのため、最高法院がイエスに死刑を執行させるには、総督ピラトによる裁判を経る必要があったのです。ピラトによる裁判では、死刑宣告に足る十分な証拠や証言が求められましたが、ピラト自身、ユダヤの指導者たちがイエスに対して抱いていたのは妬みであり、イエスに犯罪を構成する要件がないことを理解していました。ちょうど過越しの祭りの時期だったため、慣例に従い、罪人の恩赦に際して、総督ピラトはイエスの釈放を期待して、バラバかイエスかの選択を群衆に委ねました。しかし群衆は、バラバの赦免を求め、イエスを十字架につけるよう要求しました。マタイによる福音書27章24節には、ピラトが「群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗った」と記されています。このピラトの仕草は、自分にはもはや事態を収拾する手立てがなく、責任もないことを示すものであり、「自分たちで始末せよ」という態度を表しています。

 ピラトは終始イエスに罪がないことを認めていながら、毅然と訴えを退けることはせず、群衆の勢いと圧力に押されていきました。おそらく、自らの立場を守ろうとする思いもあったのでしょう。ピラトもまた、恐れに支配されていた一人だったのかもしれません。結局、彼は自ら責任をもって決断することなく、その責任を最高法院に委ねました。直接的には、ピラト自身がイエスに死刑を宣告したわけではありませんが、使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられた」と記されているように、歴史的には彼のもとでイエスが十字架につけられたと評価されています。

 私たちは、イエス・キリストを信じ、従っていくことは、成り行きでも、社会の雰囲気でも、同調圧力でもありません。私たち一人ひとりが神から与えられ、委ねられた責任のもとで、決断すべきことです。信仰を持ったならば、人が何と言おうと、イエス・キリストに従うという決断をすべきです。イエス・キリストが救い主であると知ったならば、従う信仰を告白すべきです。ピラトは、イエスが無罪であることを知っており、ユダヤの人々がなぜイエスを十字架につけようとしていたのかも知っていました。しかし、裁判に責任をもって関わろうとはしなかったのです。その無責任さが、イエス・キリストを十字架に引き渡す結果を招いたのです。

“ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」” 27:23-24

 最後に、マタイによる福音書26章・27章を通して読みながら、ここに登場する人物を挙げ、自分が誰に相当するかを思い、もし自分が当時の同じ立場であったならどうだったかを思い巡らせてみました。それで、気づいたことは、自分はこれらの登場人物すべてに該当すると思ったのです。

 かつてペテロ自身も、イエス・キリストを「知らない」と言いました。しかし、イエスに対して否定的な態度をとったのはペテロだけではありません。そこには、イエスを裏切ったユダの姿、イエスを見捨てて逃げ出した弟子たちの姿、イエスを嘲笑し、唾を吐きかける人々の姿、さらにはイエスを十字架につけるよう群衆を扇動した祭司長や長老たちの姿も描かれています。加えて、イエスを裁いたヘロデ・アンティパスとピラトの姿も記されています。ヘロデ・アンティパスは、イエスに奇跡を起こさせようとしましたが、イエスは一言も答えませんでした。一方、ピラトはイエスの無罪を知りながらも、群衆の歓心を買うために、イエスを十字架につけるよう引き渡しました。

※ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王とその妻マルタケとの間に生まれた子です。ヘロデ大王の死後、その領地の一部(ガリラヤとペレヤ)がアンティパスに分割され、統治を任されました。彼はイエスの裁判の際、たまたまエルサレムに滞在しており、イエスの審問に立ち会いました。 

 これらの人々の姿は、私たち自身の姿を映し出しているのではないでしょうか。私たちは、イエスを裏切ったユダのように、イエスをないがしろにしてしまうことがあるかもしれません。また、イエスを見捨てて逃げ出した弟子たちのように、困難な状況に直面するとイエスから離れてしまうことがあるかもしれません。さらに、イエスを嘲笑し、唾を吐きかける人々のように、イエスを信じる人をさげすみ、嘲笑してしまうことがあるかもしれません。そして、ピラトのように、自分の立場を守るために真実を曲げてしまうことがあるかもしれません。

 しかし、これらの姿は単に他人の過ちを指摘するためのものではありません。私たち一人ひとりの心に潜む弱さや罪深さを認識するための鏡です。イエスは、そのような私たちのすべての罪を背負って十字架にかかり、私たちに真の赦しと新しい命を与えてくださいました。私たちは、イエスの愛と赦しを受け入れ、変わることができたのです。ペテロは、イエス・キリストによって新しく生まれ変わった模範として、自身を証ししました。ここに記されている人々の姿は、すべて私たちの姿であり、いや、私たちの姿はもっと醜いものかもしれません。そのような私たちでさえも、新しく生まれ変わり、生ける望みを持つようにしてくださったのです。この喜びをもって、イエス・キリストの復活を迎えたいと願います。

Author: Paulsletter

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