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「イエス・キリストの復活が与える平安」

2025 4/22
メッセージを読む
2025年4月20日2025年4月22日

4月20日メッセージ
小平牧生牧師
「イエス・キリストの復活が与える平安」
ヨハネの福音書20 章19~23 節

 イエス・キリストは、神のかたちであられる方でしたが、神としてのあり方に固執せず、ご自分を無にして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。神が人となられたことで、私たちと同じように空腹を覚え、眠りを必要とし、傷つき、悩み、苦しみ、そして弱さを経験されたのです。それは、なぜなのでしょうか。なぜ、イエス・キリストは私たちと同じ「人のかたち」をとられたのでしょうか。もちろん、それは単に私たちに同情するためでも、見せかけのパフォーマンスでもありません。イエス・キリストが人としてこの地上に来られたのは、罪のないお方が、私たちの罪の贖いの代価として、身代わりにその罰を負い、十字架で死なれるためでした。そのためには、神であられる方が、人とならなければならなかったのです。私たちの罪を負い、神の裁きを受けるためには、受肉された真の人間である必要があったのです。そして、その死から三日目に、復活されたのです。イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たちの罪の贖いとして、十分であり、かつ、完全であることを証明しているのです。

 パウロが言うように、もしイエス・キリストの復活がなかったとしたら、たとえ主が私たちのために死んでくださったとしても、たとえその死がどれほど尊く、神の愛を示すものであったとしても、それだけでは、私たちの罪の贖いが完全に成就したことの証明にはなりません。つまり、イエス・キリストが三日目によみがえってくださったからこそ、その贖いのわざが完全に成し遂げられたことが明らかになったのです。

 イエス・キリストは生前、弟子たちとのさまざまな会話の中で、「人の子は必ず、多くの苦しみを受け、拒まれ、殺され、三日目によみがえらなければなりません」と繰り返し語られました。しかし、弟子たちはイエス・キリストが十字架で死ぬことも、ましてや復活することも理解していませんでした。そのため、イエスが復活して彼らの前に現れたときでさえ、すぐにはその事実を信じることができなかったのです。

 復活の日の早朝、マリアは墓の異変に気づき、ペテロたちに急いで知らせに行きました。ペテロは、墓の中にイエスの体がなく、亜麻布だけが残されているのを目にしましたが、それでも「イエスが死人の中からよみがえらなければならない」という旧約聖書の預言を、まだ理解していなかったのです。マリアに至っては、復活されたイエスご自身が目の前に立っておられるのを見ても、それがイエスであるとは気づきませんでした。また、エマオに向かっていた二人の弟子も、イエスが近づき、ともに道を歩かれたにもかかわらず、その方がイエスであるとはわからなかったのです。その後、イエスに気づいたマリアや、エマオで出会った二人の弟子たちは、そのことを他の弟子たちに報告しましたが、弟子たちはすぐには信じることができなかったようです。そのような中で、イエス・キリストは弟子たちの前にご自身を現されたのです。そして、イエス・キリストは、ご自分の手と脇腹にある十字架の傷跡を弟子たちに示し、「平安があなたがたにあるように」にと語られたのです。

 私たちは、この地上での生涯を立派に生きて天に召されたイエス・キリストを礼拝しているのではありません。また、単に私たちのために十字架にかかられたという理由だけで愛しているのでもありません。私たちがイエス・キリストを礼拝するのは、キリストが十字架で死なれ、さらに復活されたこと、そしてその死によって私たちの罪が贖われたという、救いの喜びがあるからです。この恵みに満ちた福音のゆえに、私たちは心からイエス・キリストを礼拝するのです。

 今朝は、復活されたイエス・キリストが弟子たちに語られた「平安があなたがたにあるように」という言葉の意味、そして、キリストの復活によって与えられる「平安」について、ともに学びたいと思います。 

 注:「平安」という言葉は、ヘブライ語では「シャローム(שָׁלוֹם)」、ギリシャ語では「エイレーネー(εἰρήνη)」と訳されるのが一般的です。この言葉には、円満、健全、安泰といった意味が含まれ、調和と充足のある全人的な健やかさを表しています。しかし、ここでイエスが語っておられる「平安」とは、単なる人間的な幸福や安心を意味するものではありません。それは、キリストを通して与えられる神との和解と救いに基づく、内的でありながら根源的な安らぎを指しています。罪や死、人からの敵意といった、あらゆる恐れの源に打ち勝たれたイエスが与えてくださるこの「平安」は、外的な状況に左右されることなく、私たちの内に確かな確信として宿り、心を支えるものなのです。

目次

① 死の恐れが取り去られた

 ヨハネが記録しているイエス・キリストの復活の記事には、いくつかの特徴があります。その一つは、弟子たちが恐れにとらわれていた様子が繰り返し描写されていることです。彼らは、イエス・キリストこそがユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくださる救い主であると信じ、強い期待を抱いていました。しかし現実には、イエスはローマ兵に捕らえられ、十字架刑に処せられました。この出来事によって、弟子たちの希望と信仰は打ち砕かれ、彼らの心は深い絶望に沈んだのです。その結果、弟子たちは「これから自分たちはどうなるのか」と、不安と恐れに支配されていました。つまり、ここで描かれている弟子たちの恐れとは、一言でいえば「死への恐れ」、あるいは「死がもたらす現実への恐れ」だったのです。

 「死」とは、私たちに安心を与えている、目に見える確かさ―人間関係や日常の営み―を奪い去るものです。たとえば、もし今日、私が亡くなれば、来週には私の姿はこの世から跡形もなく消えてしまうでしょう。このように、「死」とは、私たちの目に見える確かさを一瞬にして奪い去る力を持つものなのです。 

 弟子たちの場合を見てみましょう。彼らは、それまでの生活を捨てて、三年間イエス・キリストに従ってきました。その日々は、生きているイエスと共に過ごすことが前提でした。イエスの姿を見ることができ、声を聞き、触れることができ、語り合うことができたのです。しかし、そのイエスがローマの手によって十字架で処刑され、死に、墓に葬られてしまいました。もはやイエスに関する「目に見える確かさ」はすべて失われたのです。イエス・キリストの死によって、弟子たちの歩みやこれまでの働き、そして将来に対する希望までもが止まり、まさにシャットダウン寸前の状態に追い込まれていたのです。それと同時に、これまで歩んできた歩みそのものも虚しくなってしまったのです。19節には、弟子たちが集まっているところでは、「ユダヤ人を恐れて戸を閉めてあった」と記述されていますが、弟子たちは、「自分たちもイエスのように捕らえられて処刑されるのではないか」と恐れ慄いていたのです。もちろん、「死」は例外なく、老若男女を問わず、誰にでも起こりうることです。その「死」をどのように受け止めるかが重要なのです。ちょうど、「死」への不安と恐れに支配されていた弟子たちのところにイエス・キリストが現われたのです。

 私たちはこれまで、ペテロの手紙第一を学んできましたが、その1章3節には、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました」と記されています。これこそが、イエス・キリストによって与えられた、「死」に打ち勝つ「平安」ではないでしょうか。イエス・キリストを信じる者にとって、「死」はすべてをシャットダウンするものではありません。「死」は終わりではないのです。もちろん、私たち誰もが、思いがけず死を迎えることがあるかもしれません。けれども、それは決して、私たちの人生の終わりを意味するものではなく、「明日」が完全に失われることでもありません。なぜなら、イエス・キリストによって、私たちには永遠のいのちが与えられているからです。

 私たちの生涯は、この地上の生涯で終わるものではありません。イエス・キリストを信じる者は、イエスがマルタとマリアに語られた、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」という言葉のとおりに生きるのです。すなわち、肉体の死を迎えるということは、目に見える確かな世界から不確かな世界へ移ることではなく、むしろその逆で、今私たちが生きている不確かな世界から、はるかに確かな世界へと導かれていくということなのです。この地上の世界は、やがて朽ち果て、消え去っていく一時的なものですが、神とともに住まう世界は、まことに永遠なる世界です。ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、その永遠の世界を約束されているがゆえに、「死」の恐れから解放されているのです。

 もちろん、誰しも「死」を実際に経験したことはありませんから、「死」とは何かについて不安を感じることがあるかもしれません。しかし私たちは、「たとい、死の陰の谷を歩くとしても、わたしはわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」とダビデが告白したように、たとえ「死」という現実的な恐怖があったとしても、神のご臨在そのものが、恐れを超える「平安」となるのです。

“その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」” 19

“イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」” ヨハネの福音書11:21,26

“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。” 1 ペテロ1:3

② 罪の赦しが与えられた

 イエス・キリストは復活された後、弟子たちの前に現れ、ご自身の十字架の傷跡を示されました。もし単に「復活の事実」を伝えることが目的であれば、わざわざ傷跡を見せる必要はなかったはずです。ただ姿を現すだけでも十分だったでしょう。それにもかかわらず、イエスは釘で打たれた手と、槍で刺された脇腹を弟子たちに示されました。

 では、なぜイエス・キリストは、「平安があなたがたにあるように」と言って、傷の残る手と脇腹を弟子たちに見せ、また触れさせたのでしょうか。それは、この十字架の傷跡こそが、真の「平安」の根拠であるからです。「平安があなたがたにあるように」という言葉は、単なるあいさつでも、気休めの励ましでもありません。「大丈夫だよ、心配しなくていいよ」という程度の慰めではないのです。イエス・キリストは、十字架上で受けた苦しみの跡を示すことによって、ご自身の「死」と「復活」が、私たちに与えられる平安の根拠であることを語られたのです。

 イエス・キリストの復活とは、単に「死からよみがえった」という奇跡にとどまるものではありません。私たちが理解すべきなのは、十字架の死と復活が持つ本質的な意味です。すなわち、イエス・キリストが私たちの罪の刑罰を身代わりとして引き受け、十字架で苦しみ、死に、そして復活されたということです。この死と復活によって、キリストは罪と死に対して完全に勝利されました。そしてそれは、私たちの罪と死の問題に対する神の完全な解決を示すものとなりました。イエス・キリストを信じる者には、この十字架と復活を通して、罪の赦しと永遠のいのちが与えられたのです。

 イエスはこの真理を、ご自身の傷跡をもって弟子たちに示されました。だからこそ、弟子たちはその手と脇腹を見て、恐れから解放され、深い喜びに満たされたのです。この出来事は、イエス・キリストが十字架にかかる約700年前、すでに預言者イザヤによって預言されていました。イザヤは、メシヤの受難と十字架の死が私たちの罪のために必要であり、その犠牲によって私たちが救われることを告げていたのです。さらに、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷によって私たちは癒された」と記されているように、罪からの解放と霊的な癒しが与えられることも預言されていました。だからこそ、イエスは十字架の傷跡を弟子たちに示されたのです。それは、「平安があなたがたにあるように」という言葉とともに、救いがすでに成し遂げられたことを示す、確かな証だったのです。したがって、この「平安」の宣言は、単なる宗教的な挨拶や慰めではなく、神による救いのわざが完成したという確信に満ちた宣言なのです。

“こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」” 20-21

“主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。” ローマ4:25

“私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたことです。” 1 コリント15:3-

③ 新しい人生が始まった

 イエス・キリストの復活によって与えられる「平安」とは、死の恐れが取り去られ、罪の赦しが与えられ、新しい人生が始まることを意味しています。

 この場面でイエス・キリストが弟子たちの前に現れたからといって、彼らのユダヤ人たちへの恐れがすぐに消えたとは限りません。というのも、弟子たちにとっては、一歩外に出れば捕らえられ、処刑される可能性が現実として十分にあったからです。それにもかかわらず、そんな彼らがやがて死をも恐れず、命を懸けて福音を宣べ伝える者へと変えられていったのは、「平安」が単なる慰めや不安の解消にとどまらず、人生そのものを新しくする力として彼らに与えられたからです。

 このことは、イエスが弟子たちに語られた「聖霊を受けなさい」というヨハネの福音書20章22~23節の言葉に象徴されています。ヨハネ14章では、イエスが十字架にかかる前夜、弟子たちにこう語られました。「父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです」。この「助け主」とは、「真理の御霊」、すなわち聖霊を指しています。

 そして、十字架の死からよみがえられたイエスは、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。これは、創世記2章に記された創造の出来事、すなわち神がアダムにいのちの息を吹き込まれた場面を想起させるものです。創世記では、人がちりから形づくられ、神のいのちの息によって生きる者とされたことが記されています。しかし、人間は神に背いたことで、霊的には死んだ状態となり、神との関係は断絶しました。その結果、人間関係にも亀裂が生じ、神によって委ねられた地を正しく治めることもできなくなってしまったのです。そのため、世界には罪と死、苦しみが満ちるようになったのです。けれども、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、人は罪の赦しを受けるだけでなく、霊・心・体のすべての領域において回復を得ることができるようになりました。

 同様に、復活されたキリストが弟子たちに息を吹きかけられたことは、彼らが霊的ないのち、すなわち聖霊を受けて新たに生きる者とされたことを意味しています。彼らは「神のかたち」として生かされ、尊厳と使命を与えられた新しい人間の姿を現す存在となったのです。さらにイエスは、弟子たちに罪を赦す権威をお与えになりました。これは、聖霊によって新しくされた者たちが、神との和解の福音を携えてこの世に遣わされるという使命を託されたことを意味しています。聖霊によって生かされた者は、キリストの愛と赦しを証しする者として生きるのです。このように、復活のイエスが弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語られた出来事は、新しい創造の始まりを告げるものでした。かつて神が人間にいのちを与えられたように、今やキリストが霊的ないのちを与え、新たな歩みと使命、そして赦しの権威を弟子たちに託された瞬間だったのです。

 パウロがコリントの教会の人々に向かって、「あなたがたは神の宮であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と問いかけたように、その問いかけは、今の私たちにも向けられているのではないでしょうか。私たち一人ひとりは、神の霊が宿る神の宮であり、神は私たちを聖別し、完全な者へと成長させてくださっています。このことを、今一度、心に深く刻みたいものです。

 最後に、イエス・キリストは復活されたのちの40日間、弟子たちの前に現れ、ともに過ごされました。その間、神の国について語られたことが『使徒の働き』に記されています。そして、その10日後、聖霊が弟子たちの上に臨み、そこから福音宣教が始まり、教会が誕生し、今日へと至っています。私たちは今日、2025年のイエス・キリストの復活を喜び祝いました。そしてこれから、50日後に訪れるペンテコステの日を待ち望む歩みが始まります。私たちは、主イエスの「聖霊を受けなさい」という言葉に応答し、自らの内を神の御言葉によって聖別し、聖霊に心を明け渡して歩む者でありたいと願っています。キリストを信じる私たちと教会は、十字架の愛、復活のいのち、そして聖霊の力に満たされて歩んでいくのです。

“こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」”22-23

“神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。” 創世記2:7

Author: Paulsletter

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