「深みに漕ぎ出して」

7月14日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「深みに漕ぎ出して」
(イエスキリストの生涯⑩)
ルカの福音書5章1~11節

 マルティン・ブーバー(Martin Buber)は、オーストリア出身のユダヤ人宗教哲学者です。彼の著名な著作に『我と汝』があります。この著作でブーバーは、人間関係の本質を「我と汝」と「我とそれ」の二つの基本的な態度に分類して論じています。

 ブーバーの哲学では、人間の人生や存在の本質は他者との出会いと対話によって相互に形成されるとされています。特に「我と汝」の関係において、人は他者や世界と深く結びつき、自己を発見し、成長するとされます。この関係では、二人の個人(または個人と神)が完全に相互に認識し合い、主体的な存在として互いに向き合います。ここでの「汝」は、他者を単なる対象や手段として見るのではなく、独立した存在として尊重し、全存在をもって向き合うものです。
 一方で、「我とそれ」の関係は、対象を単なる「それ」として見る態度を表します。ここでの「それ」は、物事や他者を客体として捉え、分析し、利用する対象として扱うものです。この関係では、他者や物事の機能や効率を重視するため、関係が表面的かつ実利的になりがちです。その結果、主体的な存在としての尊厳や独自性、内面的な価値が無視され、関係が冷たく、疎外的になる可能性があります。ですから、人の出会いや対話が人間の存在の核心であり、人生における意味や価値を見出すための鍵となるのです。

 私たち一人ひとりのイエス・キリストとの出会い方は、それぞれ異なります。しかし、イエス・キリストに出会った人は、皆新しい人生を歩み始めることができます。今朝は、ルカの福音書から「深みに漕ぎ出す」ということについて考えます。「深み」に漕ぎ出すことには危険を伴いますが、そこには浅瀬では味わえない豊かな恵みの世界があります。私たちもまた、「深みに漕ぎ出す」ように招かれているのです。

 まずは、ルカの福音書5章の場面の状況について、簡単に説明します。
 ガリラヤ湖は、「ガリラヤの海」、「ティベリアの海」、「ゲネサレ湖」と三つの名称で呼ばれていました。長さはヨルダン川の入り口から約20キロメートル、幅は約13キロメートルの広さでした。「ゲネサレ」は、湖の西岸にある美しい平野の名称であり、非常に肥沃な地域です。

 イエスは、ゲネサレ湖のほとりで群衆に「神の国」の福音を教えていました。群衆が押し寄せてきたため、イエスは湖に浮かぶ漁船に乗り込み、その船から座って群衆に教えました。イエスが教え終わると、漁師たちに対して湖の深みに漕ぎ出して網を降ろすように命じました。シモン(ペテロ)は、前の夜に何も獲れなかったことを伝えますが、イエスの言葉に従い網を降ろします。すると、網が破れそうになるほどの大量の魚が獲れ、二艘の船が沈みそうになるほどの大漁でした。

 この奇蹟を目の当たりにしたペテロは、イエスの足元にひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と告白しました。それは、大漁のため、ペテロもいっしょにいたみなの者も、驚くべき経験をしたからです。その場にいた漁師仲間のゼベダイの子ヤコブやヨハネも同様でした。イエスは、萎縮しているペテロに「恐れることはない。今からあなたは人間を捕る漁師になるのです」と告げるのです。

① おことばですので

 人生において、常識や信念をその土台に据えることは大切です。誰しも専門的な経験を積み、それが自分の常識や信念となって生きています。専門的な経験に基づいた判断は、時に迅速かつ的確な行動を可能にします。しかし、その常識や信念が常に正しい方向を示すとは限りません。

 ペテロは、誰よりもガリラヤ湖や漁に精通していたことでしょう。そんな専門家のペテロが、夜通し漁を続けていたにもかかわらず何一つ捕れなかったのです。素人であるイエスから「更に深みに漕ぎ出せ」という指示を受けたとき、彼の専門的な知識と経験は、イエスの指示に反論することもできたはずです。しかし、ペテロはイエスへの信頼を捨てませんでした。「イエスのお言葉だから」という理由だけで、イエスの指示に従いました。単なる漁の手段としてではなく、イエスという存在そのものを尊重し、全存在をもって向き合ったのです。

 もしこのとき、ペテロが自分の常識や効率を重視しすぎてイエスの言葉に耳を傾けず無視していたとすれば、ペテロとイエスの関係は「我とそれ」の関係に留まっていたでしょう。しかし、ペテロは、イエスの命令が自分の常識や信念から逸脱していたとしても、「イエスのお言葉だから」と受け入れ、イエスに主体的に向き合ったのです。ペテロは単なる漁の手段や客体としてイエスを捉えるのではなく、尊重し、全存在をもって向き合いました。その結果、ペテロはイエスと「我と汝」の関係を築くことができたのです。これは、主客の関係を超えた、深い信頼と共感に基づいた関係です。そして、イエスの言葉を信じて深みに漕ぎ出したからこそ、ペテロは浅瀬では味わうことのできなかった深みにおける主の恵みに与ることができたのです。

“話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」…”4- 

② 罪がわかるということ

 大漁の奇蹟を目の当たりにしたペテロは、イエスの足元にひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と告白しました。ペテロの反応は、イエスの神性と自身の罪深さを深く自覚したことを示唆しています。彼は自分が聖なる存在であるイエスに相応しくないと感じたのです。その場にいた漁師仲間のゼベダイの子ヤコブやヨハネも同様でした。

 4章では、イエスがカペナウムで多くの病人を癒し、悪霊を追い出すという奇蹟的な出来事が描かれています。この場面で群衆は、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めようとします。しかし、5章では、同じようにイエスの奇蹟を目の当たりにしたペテロは、「私から離れてください」と対照的な告白をしています。この違いは何だったのでしょうか。群衆は、イエスの癒しや悪霊を追い出す奇蹟や力をもっと見たいと思っていましたが、それはイエスの持っている外側の力やご利益を求めているだけだったのです。しかし、ペテロはイエスとの出会いと対話によって、イエスの本質を認識することができたのです。イエスとペテロは相互に認識し合い、主体的な存在として互いに向き合うことができました。つまり、二人の関係は「我と汝」との関係が形成されたのです。

 ペテロとイエスが出会ったのは、このときが初めてではありませんでした。4章において、イエスがペテロの家に入られたとき、ペテロの姑がひどい熱で苦しんでいた場面で、周りの人々が彼女の癒しのためにイエスにお願いしています。このとき、イエスとペテロがすでに出会っています。しかし、イエスとペテロとの出会いは、イエスがペテロに近づくことはあっても、ペテロが積極的にイエスに近づいていくものではありませんでした。5章においても、おそらくイエスがペテロに話しかけるために舟に乗り込んだものと思われます。

 ペテロにとって、深みに漕ぎ出すことは、単にイエスの語りかけに耳を傾けるだけでなく、イエスとペテロが「我と汝」の関係に入ることを意味しています。自分の罪を認識することは、ただ「わかっている」と開き直るのではなく、ペテロとイエスの関係が「我と汝」の関係を形成することによって、神の前に立ち続けることのできない自分の存在を知ることなのです。

 イザヤは、栄光の光に包まれた神の聖なる臨在を見たとき、自分の罪深さを痛感しました。彼の反応は「ああ、私はだめだ」という言葉に象徴されています。これは、神の純粋で聖なる存在の前で自分の不完全さと罪深さを認識するという意味です。ペテロも同様です。聖なる神の姿を見たとき、自分の罪の現実に打ちのめされました。「私は決してあなたの側にいるような人間ではない」と思わざるを得なかったのです。この経験がなければ、いくら聖書を読んでも祈っても、神の前に立ち続けることができないという思いにはならないでしょう。そんなイエスがペテロに対して「恐れることはない」と言い、「人間を捕る者になる」という新しい使命を与えてくださったのです。それは、まさに深みに漕ぎ出す第一歩なのです。

“これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」” 8

“朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた。群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした。”4:42 

③ 自分の人生の本番へと

 「人間を捕る」という言葉は、ギリシャ語ではもともと「生け捕る」や「捕らえる」という意味を持っていました。新約聖書では他の箇所でもこの言葉が使われていますが、頻度は高くありません。聖書の中では、「生き捕らえる」「悪魔に捕らえられる」という意味で使われています。古典ギリシャ語では戦争で敵を生け捕りにする意味にも使用されていました。イエスがこの言葉を使ったのは、単に物理的に捕まえるという意味ではなく、人々を神の国へと導き、霊的な意味で生かすという意図があったと考えられます。

 漁師が魚を捕るのは食糧の確保のためであり、その結果として魚の命が失われます。一方で、イエスが「人間を捕る」というのは霊的な目的を持っており、その結果として人々は霊的な命を得ることになります。漁師は魚を捕ることで人間の食糧を確保し、その過程で魚の命を奪いますが、イエスは「人間を捕る」ことで霊的な命をもたらし、霊的な生を提供するのです。この二つの行為のアナロジーを通じて、漁師の捕獲が物理的な死を意味するのに対して、イエスの捕獲が霊的な生をもたらすという深い対比が浮かび上がります。

 イエスは「人間を捕る」という言葉を通して、私たち一人ひとりが永遠の命へと導かれる存在であることを示唆しています。私たち一人ひとりがイエスの呼びかけに応答し、神の国へと歩んでいくことが求められているのです。そして、大漁の奇蹟は、福音宣教によって多くの人々が永遠の命へと導かれることを予表しているのです。

 ヨハネによる福音書21章では、復活のイエスが弟子たちの前に現れ、再会する場面が描かれています。この場面では、ルカによる福音書5章でペテロがイエスと真の意味で出会ったときの経験が甦るようです。それは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」という場面です。

 両者に共通するのは、イエス・キリストが漁師たちに対して「大漁」の奇蹟を行うという点です。最初は、イエスがペテロたちに「深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言い、復活後のイエスは弟子たちに「舟の右側に網を打ちなさい」と言いますが、いずれも大量の魚を捕らせる奇蹟が起こります。どちらの奇蹟も、イエスが漁師たちに対して指示を与え、それに従うことで成果を得るという構造になっています。これによって、イエスの権威と神の力が示され、奇蹟の後に弟子たちはイエスの神性を認識し、信仰が深まります。

 ルカによる福音書5章では、イエスがペテロたちを最初に呼び、彼らに「人間を取る漁師」としての使命を与える場面が描かれています。大漁の奇蹟を通して、イエスはペテロたちの未来の役割―福音を広める使徒としての使命―を象徴的に示しています。この奇蹟はイエスの神の力の証明であり、またペテロたちがイエスの言葉に従うことによって、神の計画が成就することを示しています。

 一方、ヨハネによる福音書21章では、イエスの復活後に弟子たちに対する最後の教えが描かれています。この奇蹟はイエスの生存の証であり、またペテロたちに再び使命を確認させる場面です。ここでイエスはペテロに「わたしの羊を牧しなさい」と命じ、彼の使命を確認させています。この奇蹟はイエスの復活の証拠であり、弟子たちが再び彼の教えに従い、使命を引き継ぐ準備が整ったことを示しています。

 これら二つの奇跡は、時間の経過に伴う信仰の成長と使命の深化を表しています。ルカによる福音書第5章の奇跡は初期の召命の象徴であり、ヨハネによる福音書第21章の奇跡はその使命の再召命と新しい段階の始まりを示しています。

“イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。” 10-

“イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。…イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」” ヨハネ21:6

 イエスは、私たちが理解できるように原点に立ち返りながら、いつまでも浅瀬に留まることなく、深みに漕ぎ出すように私たちを促し、導いてくださっています。そして、「わたしの羊を牧しなさい」と私たちの使命を再確認させてくださっています。

Author: Paulsletter

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