イエス・キリストは公生涯の初期にナザレからガリラヤ湖の西北岸にあるカペナウムへ移住し、そこで宣教活動の拠点としました。当時、カペナウムはヘロデ・アンティパスの管轄下にあり、収税所やローマ軍の駐屯地が存在していました。イエスはここで多くの病人を癒し、嵐を静め、悪霊を追い出すなど、多くの奇跡を行い、人々を驚かせました。たとえば、中風(麻痺)にかかった百人隊長のしもべや熱病で床についていたペテロの姑、汚れた霊に憑かれた人、また四人の男に担がれてきた中風(麻痺)の人などを癒しました。イエスの奇跡を目の当たりにした群衆は、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めようとしたほどです。しかし、イエスは奇跡を見せるためにこの地上に遣わされたわけではありません。
当時の社会には、イエス以外にも病を癒したり、悪霊を追い出したりする能力を持つ人物が何人もいました。しかし、イエスが行った奇跡は、旧約聖書で預言されたメシア(救世主)であることを示すものであり、罪を赦す権威をもって私たちの罪を赦す道を切り開くためのものでした。また、それは神の国、すなわち神の支配と正義が実現する時代が到来したことを示すものでした。
律法学者とパリサイ派の人たちは、イエスの噂を聞き、ガリラヤやユダヤの村々、さらにはエルサレムからも集まってきました。大勢の人が集まっていたため、病人をイエスの元に運び込むことができませんでした。そこで、彼らは屋上に上り、屋根の瓦をはがして、寝床ごと病人をイエスの前に吊り下ろしました。当時の家屋は石で建てられ、藁と粘土を平たく固めたものを木の梁の上の屋根に載せているという簡易なものでした。また、外付けの階段があり、屋上に続いていたため、屋上に上ると屋根をはがすことができたのです。
病人がイエスの元に来たのは彼自身の力ではありませんでした。彼がどのように連れて来られたのか、その経緯は不明ですが、4人の男たちによって運ばれてきました。大勢の人がいてイエスの元に直接連れて行くことができない状況でしたが、彼らは諦めず、人目を気にせずに病人をイエスの前に吊り下ろしました。すると、イエスは病人自身の信仰ではなく、運んできた男たちの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦されました」と言われたのです。
しかし、「あなたの罪は赦されました」というイエスの言葉は問題となりました。律法学者とパリサイ派の人たちは、イエスが神を冒涜する言葉を口にしていると非難したのです。つまり、罪の赦しの権限が誰にあるのかという問題でした。今朝は、罪が赦されるとはどういうことなのかについて考えてみたいと思います。
① 罪の赦しの宣言はだれができるのか
イエスは、中風(麻痺)の人を癒すために集まった群衆の前で、「あなたの罪は赦された」と宣言しました。当時、病気や障害は神の罰や罪の結果と見なされることがありました。律法学者とパリサイ派の人たちは、イエスが罪の赦しを宣言することで、この病気の根本的な原因を取り除き、罪を赦す行為をしていると捉えました。彼らの信仰と律法的な理解において、罪を赦すのは神のみであり、イエスが自分を神とし、神の権威を示していると非難したのです。律法学者やパリサイ派の人々が問題視したのは、病人が癒されたことや、無理やり屋根を剥がしたことではありませんでした。彼らが問題視したのは、イエスが何の権限をもって「あなたの罪は赦された」と宣言したのかという点でした。権限がないのに罪の赦しを宣言することは、神を汚すことであり、神への冒涜だと非難したのです。
“イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」” 20-21
ダビデ王は、部下であるウリヤの妻バテシェバに対して姦淫の罪を犯し、その罪を隠すためにウリヤを戦場の最も危険な前線に配置させて殺しました。ダビデ王は、後に自分の罪を自覚したとき、一人の信仰者として神の前に立ち、「私は主に対して罪を犯しました」と言って悔い改めました。
罪を犯すとは、「神のかたち」として神に創造されたにもかかわらず、神の前にあるべき姿から外れていることです。時代や文化によっては殺人が罪に問われない場合もあるかもしれませんが、神の前ではそれは罪です。したがって、罪の赦しを宣言できるのは神だけなのです。その意味では、罪の赦しの権限を有するのは神だけであるという律法学者とパリサイ派の人たちの理解は間違いではありませんでした。しかし、イエスは彼らが心の中で考えていることを見抜き、次のように言われました。
“イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。” 22-23
② 罪が赦されること、そしていのちが与えられること
イエスが中風(麻痺)の人に「罪の赦し」を行ったとき、律法学者とパリサイ派の人たちは激しく反発しました。彼らは、イエスがこの行為によって自分たちの権威を脅かしていると考えただけでなく、罪の赦しは神のみが許すことができると考えていたため、イエスが神を冒涜していると非難したのです。
当時のユダヤ教においては、神と人間の間には極めて厳格な隔たりがありました。神は全能であり、聖であるため、神が許すことができるものと、人間が行うことができることには明確な境界がありました。罪の赦しもその一部であり、神のみがそれを行うことができるとされたのです。そのため、イエスが罪を赦す行為は神と同等の権威を主張していると捉えられ、冒涜とみなされたのです。イエスは彼らの心の中を見抜き、律法学者たちの疑念に答えるために、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが容易か」と問いかけました。この問いかけは、一見、どちらが容易かを問うているように見えますが、実際には「罪の赦し」の真の意味について問うているものと考えられます。「罪の赦し」は内面的な問題であり、客観的に証明しにくいもので、「あなたの罪は赦された」と言っても、それが実際にどうであるかは誰にも分かりません。一方で、「起きて歩け」と言うのは目に見える形で現れるものです。つまり、イエスは中風(麻痺)の患者の体を癒すことで、「罪の赦し」の力と権限をも神から与えられていることを示したかったのです。
イエスは様々な場所で病を癒し、悪霊を追い出すなど、多くの奇跡を行いました。その際、イエスは罪の悔い改めを条件に奇跡を行うことはありませんでした。これらの奇跡は無条件で行われていたのです。イエスに癒された人の中には、「ありがとう。」と礼を言って去っていった者もいたことでしょう。また、友人たちに担ぎ込まれた中風(麻痺)の人は、友人たちの信仰によって罪が赦されたのです。
ガリラヤ湖でイエスが大量の魚を捕まえる奇跡を目の当たりにしたペテロは、自然をも支配するイエスの力に圧倒され、自らの罪深さを痛感しました。神聖なるイエスの姿と圧倒的な御業を目の前にした彼は、自身の不完全さや罪深さを否応なく認めざるを得なかったのです。
ペテロは、罪が単なる人間の倫理観に基づく善悪の判断を超え、神との関係における深い問題であることを自覚しました。神の前に立つことで、彼は自身の不完全さや罪深さを客観的に認識することができたのです。他者との比較や主観的な判断では、真の罪の深さを理解することは難しいでしょう。神を見上げ、その偉大な御業と愛に触れる時、私たちは自身の小ささや罪深さをより深く認識できるのです。「神のかたち」に造られた私たちは、本来、神の教えに従って互いを愛し、神から委ねられた世界を管理する役割を担っていました。しかし、神から離れ、本来の道を外れてしまった状態が、まさに罪なのです。罪は、神の命の息を吹き込まれて生きる者が、霊的にも肉体的にも死ぬ状態、すなわち神との断絶を意味します。神の愛と恵みから遠ざかり、本来の使命を果たせなくなった状態こそが、真の意味での罪なのです。
神は、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよいが、善悪の知識の木からは食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と人に命じられました。神は善悪の知識の木の実を惜しんでいるのではなく、神との約束を守る大切さを人に教えたのです。その木から食べるときに必ず死ぬというのは、神との約束を破ることによって、神から離れ、神との繋がりが断たれてしまうことを意味します。蛇はエバを唆し、善悪の知識の木の実を食べると神のようになると言いましたが、これは、誰の言うことを聞く必要がなく、自分が神のように自身の判断で生きていけばよいということです。
私たちはしばしば、神との正しい関係よりも正しい行いを重視してしまうことがあります。しかし、正しい行いをする集まりが必ずしもイエス・キリストの教会であるとは限りません。パリサイ人や律法主義者のように、形式的な規則や儀礼を重んじるあまり、神との真の交わりを忘れてしまう人もいるからです。重要なのは、神との正しい関係を築くことです。罪深い人間であっても、イエス・キリストと正しく繋がっている集まりこそが、真のキリストの教会なのです。キリスト者になるということは、単に正しい行いをする立派な人になることではありません。むしろ、神の前にへりくだり、自分の罪を自覚することができるようになることです。自分の罪を自覚することで、罪を悔い改め、神の愛を受け入れることができるようになります。キリスト者とは、自分が神のようになり、正しい者や立派な宗教家になることではないのです。キリスト者とは、神の愛を受け入れ、イエス・キリストに従う者であるということです。
“イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。” 22-23
“イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。” 22-23
“神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。”創世記2:7
神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」” 創世記2:16-17
③ 罪の赦しを確信し、神をあがめる
イエスが中風(麻痺)の人に「あなたの罪は赦された」と宣言した後、「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」と命じました。病人の罪は赦され、病が癒され、立たせることによって、彼に神の命が注がれ、神の霊によって生きることができる体験をすることができたのです。
イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。イエスは今も私たちにこの言葉を語り続けています。「友よ」という言葉はアラム語で「人よ」や「仲間」という意味があり、旧約聖書の「アダム」もヘブライ語で「人間」や「人」を意味します。イエスが中風(麻痺)の人を癒す場面で「友よ」(「人よ」)と呼びかけたことは、その人が「人間」としての根本的な罪の問題に触れていることを意味しています。人が善悪の知識の木の実を食べて木の陰に隠れているときに、神は「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけられました。神から与えられた命を失って彷徨い隠れている人に対して、神は探し求めて声を掛けられているのです。それは、私たち一人ひとりに対する呼びかけでもあります。この呼びかけの姿は、エデンの園の出来事に始まり、聖書の歴史を通して一貫して続いています。神は、私たちがその呼びかけに応答し、神の御許に立ち返ることを待ち続けておられるのです。また、「友よ、あなたの罪は赦された」というイエスの言葉は、ギリシャ語の完了形で表現されています。「赦された」とは、罪の赦しが過去に完了した行為として宣言され、その結果が現在にも適用されることを示しています。さらに、「赦し」はイエス・キリストの十字架刑という一度の行為で完了し、その結果が永続的であることを保証しています。
自分の力ではなく、人々に担がれて、イエスの御許に連れられた中風(麻痺)の人は、「友よ、あなたの罪は赦された」と声かけられました。すべての救いは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、すでに完了形で成就しているのであり、私たちの罪もすでに赦されていると宣言されているのです。これが、福音の知らせなのです。
最後に触れておきたいのは、中風(麻痺)の人の「罪が赦された」のは、本人の信仰によるのではなく、中風(麻痺)の人をイエスのもとに運んだ男たちの信仰によるものです。どのような経緯があったのかは記されていませんが、男たちは心を合わせてこの病人を諦めず、人の迷惑や非難を顧みずに屋根を壊してイエスのもとに運びました。彼らは、屋根は修理できるが、この病人を癒せるのはイエスしかいないと信じていました。イエスは、そのような彼らの信仰を見られたのです。人は損壊した屋根や外側のことを見るかもしれませんが、イエスは私たちの心の中を見られるのです。
イエスが「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために…」と言ったのは、彼の神性とその権威を示すためでした。イエスは、その権威を証明するために、目に見える形での奇跡を行い、その奇跡を通じて、罪の赦しという霊的な権威が実際に存在することを証明しようとしました。人々はイエスの奇跡に驚き、神をあがめました。「私たちは今日、驚くべきことを見た」と言って、イエスの奇跡とその権威に感動し、神を賛美しました。人々の反応は、イエスの奇跡が単なる肉体的な癒しにとどまらず、神の力と権威を示すものであったことを示しています。
“しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」” 24-26
Author: Paulsletter