「損なわれてしまった神のかたち」

1月28日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「損なわれてしまった神のかたち」(私たちに与えられた救いと聖化④)
聖書:創世記 3章1〜7節

 神は、この世界を支配するように、私たちを神の「かたち」に似せて創造されました。神そのものではありませんが、神の性質を備える存在として創造されました。しかし、人間は神の言葉に背いて、神の創造の目的を見失ってしまいました。聖書は、神が創造された本来の人間の存在意義から外れることを「罪」としていますが、この「罪」によって、本来の神の「かたち」が損なわれてしまったのです。神がイエス・キリストを通して授けてくださった「救い」とは、私たちが本来の「神のかたち」に回復し、本来の姿を取り戻すことです。私たちは将来、イエス・キリストと共にこの世界を支配し、神と共に永遠の秩序に至ることが神の本来の目的なのです

① 「神のかたち」としての姿を損なわないための戒め

“神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。”2:8-9

“神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」”2:16-17

 主はエデンの園を造り、そこにアダムを置いて、彼にそれを耕し守る責任を与えました。そして、その土地には、見るからに好ましく、食べるのに適したすべての木があり、園の中央にはいのちの木、さらには善悪の知識の木が植えられました。主はその中で自由に食べてもよいとしましたが、中央の善悪の知識の木だけは食べてはならないと命じました。この世界を治める権限を与えられ、すべての木から食べることが許された中で、その中の一つだけは食べてはならないとの指示なのでした。善悪の知識の木も他の木と同様に手を伸ばせば届くところにありましたので、食べようと思えば食べることができましたし、神の命じたことを守ろうと思えば守ることもできたのです。

 なぜ神はそのような善悪の知識の木を創り、人間に罪を犯させるようなことをさせたのでしょうか。それは、神は人間に自由意思を授け、自分の選択に責任を持たせているからです。神は人間が正しい選択をすることを望んでおられますが、それを強要することはありません。人間の自由意思を尊重しているのです。神は人間を深く愛しており、その愛を通じて人間にも神を愛することを望んでいます。ただし、神が人間に対して強制的に神を愛させることは真の愛とは言えません。真の愛は、自らの意思で相手を選び、尊重し、従うことに根ざしています。神の愛は揺るぎないものであり、神の戒めはその愛から生まれています。私たちには、神の戒めが神の愛の指針として受け入れられるかどうかが問われています。悪魔の誘惑は、その愛を疑わせてくるものです。神の戒めは、神の「かたち」として創造された人間が正しい選択をすることを期待するものであり、神の愛の性質を損なわないようにするためのものです。

② 神に代わって善悪を決めるようになった人間

“蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」”3:1-2

“すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」”3:4-5

 人間は神の言葉の意味を理解せず、それを疑ってしまうことがあります。なぜこの木が良く、あの木が悪いのか理解できないこともあるでしょう。しかし、問題は善悪の知識や他の木との違いを理解することではなく、神がその戒めをどのような思いで語ったのか、神がどのような存在であるかを理解することです。悪魔は巧妙に姿を変えて近づき、その思いを巧妙に惑わせます。
 神は園の中のどの木からでも自由に食べてよいと言っていますが、善悪の知識の木だけは食べてはならないと命じています。しかし、サタンである蛇は「神はどんな木からも食べてはならないのか」という疑問を投げかけ、エバを惑わせるような質問をし、論点をすり替えました。エバは「園にある木の実は食べてよいが、中央の木の実には触れてもいけない」と答えました。蛇はさらにエバに対して、「死ぬことはない。その実を食べると、目が開き、神のようになり、善悪を知ることができるでしょう」と言いました。サタンは巧妙に隙間を突き、神が愛の存在であることに疑念を抱かせ、結果的に神の「かたち」が損なわれ、神と人間との信頼関係が失われてしまったのです。
 「善悪を知るようになる」とは、それまで神の言葉によって善悪が判断されていたのが、自分を神の立場に置き、自己中心的な価値観で判断することを指します。本来、人間は神の「かたち」として、神の息を吹き込まれて創造された存在ですが、その存在や生き方を神とは関係なく独自に決めてしまうことは、神が人間を創造した目的から外れてしまうことなのです。

 人間は神の言葉の意味を理解せず、それを疑ってしまうことがあります。なぜこの木が良く、あの木が悪いのか理解できないこともあるでしょう。しかし、問題は善悪の知識や他の木との違いを理解することではなく、神がその戒めをどのような思いで語ったのか、神がどのような存在であるかを理解することです。悪魔は巧妙に姿を変えて近づき、その思いを巧妙に惑わせます。

 神は園の中のどの木からでも自由に食べてよいと言っていますが、善悪の知識の木だけは食べてはならないと命じています。しかし、サタンである蛇は「神はどんな木からも食べてはならないのか」という疑問を投げかけ、エバを惑わせるような質問をし、論点をすり替えました。エバは「園にある木の実は食べてよいが、中央の木の実には触れてもいけない」と答えました。蛇はさらにエバに対して、「死ぬことはない。その実を食べると、目が開き、神のようになり、善悪を知ることができるでしょう」と言いました。サタンは巧妙に隙間を突き、神が愛の存在であることに疑念を抱かせ、結果的に神の「かたち」が損なわれ、神と人間との信頼関係が失われてしまったのです。

 「善悪を知るようになる」とは、それまで神の言葉によって善悪が判断されていたのが、自分を神の立場に置き、自己中心的な価値観で判断することを指します。本来、人間は神の「かたち」として、神の息を吹き込まれて創造された存在ですが、その存在や生き方を神とは関係なく独自に決めてしまうことは、神が人間を創造した目的から外れてしまうことなのです。

③ 本来の姿を失った人間の姿

“そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。”3:8

“人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」”3:12

Author: Paulsletter