私たちは神の「かたち」に似せられ、神の性質を備えた存在として創造されました。しかし、神の言葉に背いてしまい、神の創造の目的を見失いました。聖書によれば、神が創造した本来の人間の存在意義から外れることを「罪」と定義しています。 罪を犯す前の人間の姿は、「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」と聖書は記述しています。しかし、善悪の知識の木の実を食べた結果、それが恥ずかしいと感じるようになりました。ここで人間自身の主観的な価値観に基づく善悪の区別が生まれました。
① 自分で善悪を決めようになった
“すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」”4-5
神は園の中のどの木からでも自由に食べてよいと言っていますが、善悪の知識の木だけは食べてはならないと命じています。善悪の知識の木と他の木との違いは何だったのでしょうか。問題は善悪の知識の木と他の木との違いを理解することではなく、神がその戒めをどのような思いで語ったのか、そして、神の言葉をどのように受け止めるかが重要なのです。しかし、悪魔は巧妙に隙間を突き、神が愛の存在であることに疑念を抱かせ、神と人間との信頼関係を失わせてしまいます。
善悪の知識の木の実を食べることは、その実が特別なものであるというのではなく、神の命令に背くことを意味します。本来は、神の言葉によって善悪が判断されていたものが、自己中心的な価値観で善悪を判断するようになります。人間は神の「かたち」として、神の息を吹き込まれて創造された存在でありながらも、自分の存在や生き方を神とは関係なく独自に決めてしまうことは、神が人間を創造した目的から外れてしまうことなのです。
神は、木の実を食べさせないようにしたのではなく、善悪の知識の木だけを禁じられたのです。それは神の存在を忘れることなく、神の言葉を守るようにその一本の木に限定して命じられたのです。もし、全てのものが自分の思い通りになるのなら、誰によって養われているのか、その恵みは誰によって与えられているのかを忘れてしまうかもしれません。中央に禁じられている一本があることによって、それを見るたびに、神から多くの恵みが与えられていることを思い起こすことができるのです。
神は、ただ一本だけ食べてはならないと禁じられているのであり、残りのものはすべて委ねられ、任されているのです。その一本を禁じられているからこそ、私たちは神から離れることなく密接な関係を保つことができるのです。それは不幸なことではなく、幸せな人生を歩むために大切なことなのです。パウロがテモテへの手紙に書いているとおり、神の言葉は、ときには厳しく、人間には理解が難しいこともあるかもしれません。しかし、神の価値観や教えが御言葉を通じて示され、私たちは誤った行いから戒められます。そして、過ちから立ち直るために導き、正しい行いを促し、私たちは訓練されます。 私たちは、神の御心を理解し、その御心に応じて生きることで、人は神の目的に合った存在となり得るのです。
② 神の前に裸でなくなった
“そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”2:25
“こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。”7
“そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」”8-
“主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」神である主は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」”11-
罪を犯す前のアダムとエバは、二人とも裸でしたが、お互いには恥ずかしさを感じませんでした。これは、罪を犯す前の彼らの状態でした。「裸」は単に服を着ていない状態を指しているのではありません。本質的には、彼らが裸でいることが当然であり、それが彼らの本来の姿であったからです。アダムとエバは、互いに秘密や隠し事を持っていなかったでしょう。夫は妻と結びつき、二人は一体となるとされていますが、彼らの間には障害がなく、互いに裸を意識することもありませんでした。神によって「かたち」に創造された彼らの姿は、互いに隠すべきものではなかったのです。
罪を犯す前の彼らは、神との間にも何の隔たりもなく、不安も恐れも一切ありませんでした。アダムとエバとの間にも完全な平和が保たれており、神が治めるように命じられた被造物との間にも調和が保たれていたのです。しかし、善悪の知識の木の実を食べたことにより、二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを自覚しました。いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作りました。
神の目的に従って、神によって「かたち」に創造されたことが本来の姿であり、自分自身を基準とすることなく、神の善悪の基準のもとで生きることが理想的であるとされています。しかし、神の目的に従うことを捨てて、自分の考えや感情で生きるようになった人間は、神の御顔を避けて園の木の間に身を隠さざるを得なくなりました。本来は、神の前でありのままの姿を見せることは当たり前のことだったはずですが、それが当たり前ではなくなったのです。
罪を犯す前は、神の御顔を避けて身を隠す必要はありませんでした。しかし、神との関係が崩れることによって、自分のありのままの姿を隠すようになりました。神との関係の歪みは、互いに助け手であった人間との関係も歪めました。自分の責任を隠し、他人に責任を転嫁するようになりました。
この世界にはさまざまな悪が存在しますが、悪そのものが存在するのではなく、人間が生み出した神との歪み(罪)が悪を生じさせているのです。神の「かたち」に創造された最高の姿でありながら、神に背いて神の目的に沿わない生き方をするときに、その状態(罪)がさまざまな悪を生み出していき、人は悪人になっていったのです。しかし、そのような状況になったとしても、その本質において人間は悪人になったのではなく、神の「かたち」を今も持っているのです。
ここで、罪の理解として留意しておきたいことがあります。
(1) 罪責感と罪とは異なる。
罪は私たちが罪責感を感じるかどうかとは関係ありません。罪を犯しても罪責感がないことはあり、その人に罪責感がなかったとしても罪の状態に陥っていることはあります。しかし、反対に、イエス・キリストの十字架の赦しを受けていながら、なおも罪責感に苛まれていることもあり得るのです。私たちの罪の赦しというのは、罪責感の有無によって決まるのではなく、神の言葉を受け入れるかどうかによって決まるのです。私たちが罪責感を感じるかどうかは関係ありません。赦されているのに罪責感があってはならないし、罪責感がないからといって罪の状態にないとも言えないのです。
(2) 恥と罪とは異なる。
私たち日本人は「恥の文化」に生きているとよく言われます。他人の非難や嘲笑を恥ずかしいと感じ、それに恐れて自らの行動を律しています。しかし、恥ずかしいことは必ずしも善悪の基準ではありません。罪とは神と人間との関係の問題です。もちろん、罪が恥を生むことはあるかもしれませんが、恥ずかしいことが罪であるとは限りません。恥ずかしい感覚が強くなりすぎて、罪の感覚が理解しづらくなっている人がいるかもしれません。罪が赦されているにもかかわらず、キリスト者となったとしても、恥を基準に生きている人がいるかもしれません。
私たちがどんな状態にあろうとも、神は私たちを恥じてはいません。自分がだめだと感じている人は、それは神の善悪の基準ではなく、自分の善悪の基準に置いていることに気づいてほしいのです。自分の善悪の基準でだめだと思っているだけであり、神は私たちをだめだとは思っていません。むしろ、あなたは神にとって高価で尊い存在と考えられています。
(3) 悪と罪とは異なる。
悪いことをしなければ罪人でないということではありません。善を行っているから罪人でないということでもありません。罪人とは行いのことではなく、状態のことであり、神との関係のことなのです。罪人とは、神によって造られた本来のあるべき姿から外れているということです。それは、自分自身を善悪の基準とすることです。自分を善悪の基準としているから、争いや妬み、戦いがあらゆるレベルで絶えず起こる原因となり、悪が生まれていくのです。
私たちが救われるために必要なのは、罪責感や恥を感じること、また善い行いをすることではありません。むしろ、自分を神の立場に置いていること(罪)を認めることです。つまり、自分が罪人であるということを自覚することが必要なのです。
③ 神はあきらめない
“神である主は蛇に言われた。「…わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」”15
“神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。”21\
Author: Paulsletter