私たちは、神によって「神のかたち」に創造されました。この世界を治めるように私たちに委ねられたにもかかわらず、私たちは神に逆らう道を選び、「神のかたち」に傷をつけてしまいました。結果として、私たちはこの世界の価値観に従属し、支配されるようになってしまったのです。
イエス・キリストは、私たちが本来の「神のかたち」に回復し、本来の姿に戻るために遣わされました。これが聖書の説いている「救い」の意味です。救われた私たちも、パウロがコリント教会の人々に語ったように、栄光から栄光へと変容し、主と同じかたちに完成されていくのです。
① 「ひとりである」大切さ
“また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、
ふさわしい助け手を造ろう。」”2:18-
“一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。”1コリント12:26-27
創世記の1章と2章では、人間の創造について異なる視点が採用されており、いくつかの相違点が見られます。1章では、この世界の秩序を中心に、その中で人間もその一部として創造されたと記述されています。一方、2章では、人間の創造が中心になり、より具体的に描写されています。
1章では、神は人間を自らの「かたち」として創造し、男と女とに人間を創造したと記述されています。2章では、神は土地のちりから最初に男を創造し、その後、「人がひとりでいるのは良くない」という理由から、その男に助け手として女を創造しました。つまり、1章では男と女の関係性や属性を語る前に、まず神の「かたち」として人間が創造されていることが強調されています。
このことは、信仰の在り方について考える際の重要な視点となります。人間は、神を愛することを命じられたように、まず一人で神の前に立たなければなりません。そして、自己の意思で神の前で信仰を告白するのです。
マタイによる福音書では、「祈るときは、自分の奥まった部屋に入り、隠れたところで祈りなさい。」(6:6)とありますが、公然と見られるような場所や方法ではなく、一人で静まって、神と対話するように祈ることが大切であると教えています。祈りとは、単に祈りの言葉を一方通行に唱えるのではなく、双方のコミュニケーションの形で行うものだからです。
「ロンリネス(Loneliness)」と「ソリチュード(Solitude)」は、両者とも孤独に関連する概念ですが、自分の奥まった部屋に入ることは、他者とのコミュニケーションのない孤立感という「ロンリネス」のニュアンスではなく、自発的に静けさを選択する「ソリチュード」に似ているかもしれません。神の「かたち」に造られたということは、神との対話を通じて祈ることが可能であるということです。
② 「ひとりではない」生き方
“また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」”2:18-
“一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。”1コリント12:26-27
神は男にふさわしい助け手として女を創造しました。神はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣を創造しましたが、その中に相応しい助け手は見つかりませんでした。ここでの「助け手」とは、「神は私の助け」と詩篇70篇にあるように、もともと神を主体として用いられた言葉です。顔と顔を向かい合わせにし、助け手がいなければ自分の存在はあり得ないということです。しかも、他の被造物では助け手にはなり得ないが、神の「かたち」として創造された者だけが助け手になり得る存在なのでした。
教会は、イエス・キリストを信じる者の共同体です。自分が弱い存在だからこそ訪れる場所ではなく、教会はそもそも相互に助け手となるための交わりの場所です。私たちはお互いに助けを必要とし、助け手として仕え合う存在なのです。
③ 愛し、助け手であるために
“神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。…しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。”2:19-
私たちは、神の「かたち」として、愛する存在であり、助け手となる存在として創造され、成長していくのです。そのために、私たちは積極的に愛し、助け手としての役割を果たしていくことが求められています。愛されることや助けられることを求めることも必要ですが、同時にこの世界を治める責務が私たちに委ねられていることを意識し、積極的な行動を通じてその職責を果たしていくべきです。私たちは、私たちに与えられた神の「かたち」を具体的に表現できるように願っています。
Author: Paulsletter