教会の葬儀について

 近年、葬儀に対する意識が変わってきていると言われます。その原因としては、家族のあり方の変化、葬儀の経費の不明瞭さ、そして伝統的な葬儀への抵抗感などがあると言われています。この傾向は2020年からのコロナ禍によって加速し「家族葬」のあり方が注目されるようになりました。

 そのような中で、クリスチャンや教会は葬儀やお墓をどのように考えるのでしょうか。

 まず最初にお伝えしたいことは、葬儀をどのような宗教や方法で行うのかということは、亡くなられた方の永遠を決めるものではないということです。葬儀は亡くなった方を天国に導くために行うものではありません。聖書によれば、人は生かされている間にイエスキリストを救い主と信じることによって永遠の生命を得ることができるのであって、死を迎えた時にその人の霊は神のもとに召されます。ですから故人に対する死後の慰霊や追善供養は必要がありません。その意味で「死への備え」と「葬儀の備え」は異なるものです。しかし葬儀をどのように行うかは、私たちが「死をどのように考えるか」、そして「生をどのように考えるか」を表すことにもなります。私たちは、葬儀を通しても、人生の尊さと死の向こうにある希望を分かち合うことができればと願います。

<葬儀の意味と目的>
 葬儀は何のために行うのでしょうか。
 第一は、生涯を歩み終えられた方を偲び、その人生を感謝しつつ、私たちに生命と人生を与えられた神に礼拝をささげることです。
 第二は、召された方を敬い、そのからだを葬ることです。故人の霊は神のもとにあることを覚えつつ、神から与えられてその役割を終えた肉体を丁寧に葬ります。
 第三は、愛する人を失った家族や関係者が地上の別れを悲しみ、同時に永遠の生命の希望と慰めを受けて、次の歩みへと向かう励ましを得る時とすることです。
 第四は、家族や関係者がともに集うことによって、人生における出会いを感謝しつつ、互いの愛と家族の交わりを確認し、その絆を育む時とすることです。
 そして第五は、葬儀に集った一人一人が、自分自身の人生にも終わりがあることを思い、永遠に向かう備えと与えられている人生の務めを確認することです。
 そのように、華美な葬儀は必要ありませんが、葬儀を通してでなければできないことがあることも事実です。

<その時のために>
 私たちが生まれる時を神様が定めておられたように、私たちが召される時についても、神様がその時を定めておられます。私たちには、その時に向かって準備できることと、準備できないことがあります。しかし私たちがどのような状況におかれたとしても、イエスキリストがともにいてくださることを信じることができる私たちは幸いです。

○自分のために
 何よりも大事なことは、自分の信仰と葬儀への希望を普段からよく伝えておくということです。できるなら、書き表しておくことが良いと思います。私たちクリスチャンにとっては、葬儀は私たち自身のためではなく、むしろご家族に平安と慰めを与えるものでなります。そのためにはお一人でお住まいの方やご家族がクリスチャンではない方は、教会での葬儀を行いたいということをはっきりと伝えておかれることがよいと思います。また、牧師に対しては、ご自分の愛唱の賛美歌や聖書の言葉、またご自分の信仰の証などを託していただけると、それをふまえた葬儀を行うことができます。

○ご家族のために
 ご本人がクリスチャンであるかどうかに関わらず、私たちの人生は神によって生かされており、すべての人の生と死は同じように尊いものです。教会ではクリスチャンではない方の葬儀も同じように行います。ご家族の方々のご理解も必要ではありますが、遠慮なく牧師にご相談ください。
 また私たちの教会には、住吉霊園に「教会墓地」があります。これは教会員だけではなく、ご家族の方々のためにも用いられるものです。私たちクリスチャンは祖先礼拝をしませんが、先祖を尊敬し大切にします。教会は牧師や人々の世代が変わっても、神の家族として春秋の墓前礼拝を行い、私たちの先祖や家族を大切に敬い、ともにお墓を守ります。

<終わりに>
 私たちの人生には理解や説明ができないことがあります。家族や親しい人の自死もその一つです。神から与えられた生命を自らの意思で閉ざすことは私たちのあるべき姿ではなく、また家族にとっても受け入れがたいものです。しかし、私たちはその方のすべてを、その方の隣人となり得なかった私たちの弱さと罪を含めて神に憐れみを求め、神の愛を信じてすべてを神の御手に委ねます。そのような思いをもって、私たちの教会では自死された方の葬儀をも行って来たことも最後に記しておきたいと思います。

 ニューコミュニティ・パンフレットから