3月15日メッセージ
小平牧生牧師
「今日の糧を与えてください」
マタイの福音書6章9~15節
私たちが今、「主の祈り」を共に学んでいますのは、今年、教会全体で祈りにおいて成長するという目標を掲げているからです。「祈り」というのは、私たちに神から与えられた、とても自然な営みであると思います。しかし、「祈り」は、いわゆる宗教的な行為ではありません。上手な言葉で祈るとか、長く祈るとか、もちろんそのようなことが気になるかもしれません。しかし、「祈り」とは本来、そういうものではないのです。むしろ、神を信じる者として、神を父と呼ぶ者として与えられた、大きな恵みなのです。
さまざまな宗教や民族信仰の中で、私たちは祈りというものに触れながら育ってきました。そこでは、ひれ伏したり、拝んだり、言葉を唱えたり、時には苦行を伴う行為を繰り返したりすることがあります。しかし、そのような「祈り」と、私たちの祈りとは本質的に異なるものです。キリスト者にとっての祈りとは、イエス・キリストの救いにあずかった者に与えられた特権であります。本来、神によって造られた私たちは、罪によって神から断絶していました。しかし、イエス・キリストの十字架によって、神との交わりが回復されたのです。その神に向かって、賛美し、感謝し、御言葉に耳を傾け、そして神に応答していく。そのような営みのすべてが祈りであります。そういう意味で、私たちにとっての「祈り」とは、単に祈るという行為以上に、祈りをささげる対象である神を知ることが何より大切なのです。
私たちは、いつでもどこでも自由に祈ることができます。祈りの言葉に、決まった定型句があるわけではありません。例えば、私たちは神を「天のお父様」と呼ぶことがあります。これは神の子とされた者としての親愛の情を表すものであり、必ず冒頭に付けなければならないという規則ではありません。大切なのは形式ではなく、愛する者同士が呼びかけ合うような、神との人格的な関係なのです。また、祈りの結びに「主イエス・キリストの御名(みな)によって」と添えることがあります。これも、自分の力や資格で祈るのではないことを認める告白です。キリストの十字架による贖(あがな)いによって神との関係が回復し、直接語りかけることが許されたという感謝を込めて、私たちはその名を呼びます。ですから、この言葉がなければ祈りが届かない、という性質のものではありません。「アーメン」という締めくくりについても同様です。聖書が「必ず最後に言いなさい」と命じているわけではなく、実際、この「主の祈り」自体もアーメンでは結ばれていません。「まことに」「真実に」という意味を持つこの言葉は、元々ユダヤ教の会堂で、説教や祈りへの同意を表すために人々が唱和した慣習を引き継いだものです。それがキリスト教の礼拝においても、祈りを共にする大切な告白として定着していきました。
祈りにおける成長というのは、決してそのような定型句をきちんと守るということではなく、祈る対象である神との関係における成長を意味しています。ですから、何よりも、まず祈ることによって、私たちの祈りは成長していくのです。神と私との関係ですから、神と私との関係の中で祈ることによって、祈りが成長していくのです。これ以外に、祈りが成長する道はないのだと思います。ですから、まずはぜひこの「主の祈り」を祈っていただきたいと思うのです。祈ってほしいと言われても、それではどう祈ってよいのか分からない、という思いもあるかもしれません。しかし、だからこそイエスが「こう祈りなさい」と示してくださったとおりに祈ればよいのです。ローマ人への手紙には、私たちはどのように祈ればよいのか分からないけれども、御霊ご自身が私たちのために取りなしてくださるのだと励まされています。私たちには祈る力がありません。しかし、私たちが父なる神に祈ることができるのは、イエスの名によって祈ることが許されており、また聖霊なる神が私たちを取りなし、力づけてくださっているからです。そのことに信頼して、実際に祈ることを通して、祈りにおいて成長していきたいと思うのです。
それでは、主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えられた「主の祈り」に、改めて目を向けたいと思います。「主の祈り」の前半は、「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ……」と、神が神として崇められ、その統治が成されることを切望する祈りでした。ここからは、その祈りから途切れることなく、私たちの日常的な必要を求める切実な願いへと続きます。その筆頭に置かれているのが、私たちの生存に不可欠な「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」という祈りです。
ここで少し考えてみてください。イエスは同じ「山上の説教」の中で、こうも語られました。
“空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父は、これらを養ってくださるのです”マタイ6:26
神は私たちの必要をすべてご存じであり、養ってくださるお方なのだから、思い煩う必要はないと教えられています。それならば、なぜ一方で「今日の糧のために祈りなさい」と言われるのでしょうか。イエスは「黙って待っていれば勝手に与えられる」とは言われませんでした。むしろ「日ごとの糧を」と、神に対して具体的に求めるよう命じられたのです。全知全能の神は、私たちが求める前から、何が必要かをご存じです。それなのになぜ、あえて「祈り」という形を求められるのでしょうか。もちろん、この祈りに応えられて、実際に日々の糧(食べ物や生活の必要)は与えられます。しかし、祈りは単なる物資調達の手段ではありません。そこには、目に見えるパン以上に大切な、神との霊的な交わりが含まれているのです。私は、この聖書箇所を深く読み進める中で、この祈りが私たちにもたらす「恵み」には、少なくとも三つのポイントがあると考えました。これこそが、今朝皆さんと分かち合いたい中心的なメッセージであり、私たちの教会が共に目指したい姿でもあります。
① 信仰と生活がひとつになるため
この祈りは、私たちに「信仰と生活が一つになること」をもたらすものだと思います。私たちは、いわゆる霊的なことと、食べ物に代表されるような肉体的なこととを切り離して考えてしまうことが多いのではないでしょうか。特に日本の文化は、儒教の影響を受けてきました。そのため、信仰が内面的で精神的なものになりやすく、信仰が心の持ち方だけで終わってしまう傾向があるように思います。それは私個人のことだけではなく、教会の働きにおいても同じことが言えるのではないでしょうか。例えば、このように礼拝において賛美や祈りをささげることは霊的なこととして重要視されます。しかし一方で、教会堂を掃除することや、愛餐などの食事のこと、また教会の財政のことなどは、霊的なこととは反対のところに位置づけられてしまうことがしばしばあります。けれども、「主の祈り」はそのように考えていません。「御国が来ますように」という祈りと、「日ごとの糧をきょうもお与えください」という祈りとを区別していないのです。むしろ、それらを切り離すのではなく、一体のものとして捉えているのです。
たとえが適切かどうか分かりませんが、「最後の晩餐」の場面を思い起こしたいと思います。それは主イエス・キリストが十字架にかかられる前夜のことです。主は弟子たちと食卓を囲み、共に食事をされました。その席で、イエスはパンを取り、裂いて弟子たちに与え、また杯を取って回し、「わたしを覚えるために、このようにしなさい」と言われました。この出来事から、教会では「聖餐(せいさん)」という聖なる礼典が守られるようになりました。しかし、ここで見落としてはならないのは、当時弟子たちに配られたパンとぶどう酒は、彼らがその場で共に食していた「日常の食事」そのものであったという点です。つまり、それは特別に用意された非日常の供え物ではありませんでした。イエスは、食卓にあるありふれた食べ物を用いて、「共に食べ、共に飲むたびに、わたしを思い出しなさい」と仰ったのです。
イエスが示されたことの核心は、パンの種類や儀式の形式そのものに重きを置くことではありません。むしろ、日常の営みである「飲食」を通して、主とのつながりを再確認することにありました。ですから、聖餐は私たちの生活から切り離された「特別な儀式」として完結するものではないのです。もちろん、後の教会は秩序をもってこれを行うために聖餐の形を整えてきましたが、その原点はあくまで食卓の交わりにあります。私たちが心に留めるべきは、「霊的なこと」と「日常的なこと」を切り離さないということです。私たちは往々にして、主を覚えることを、日常とは別次元の「宗教的な行い」だと考えてしまいがちです。しかし聖餐は、日々の食事という最も人間的な営みの中にこそ、主が共におられることを示しています。共に集まり、飲み食いをする。その日常の風景の中で主を仰ぎ見ることの大切さを、私たちは忘れてはならないのです。
“御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。” 9-
パウロは、コリント人への手紙第一10章31節で、次のように語っています。すなわち、私たちがどれほど洗練された祈りの言葉を並べようと、あるいはどれほど厳かな儀式を執り行おうと、それだけで神の栄光が現れるわけではありません。神の栄光は、そうした特別な瞬間にだけ現れるものではないのです。むしろ、日々の「食べること」「飲むこと」といった、ごく当たり前の生活の営みを通して神の栄光を現すことこそ、私たちに求められている真の礼拝なのです。神が深い関心を寄せておられるのは、私たちの「祈りの言葉の立派さ」ではなく、「日々の食卓のあり方」であると言っても過言ではありません。祈りの中で「日ごとの糧」を求めることは、単なる物質的欲求ではなく、私たちの生存のすべてが神の恵みによって支えられていることを認める、謙遜な告白です。そして、聖餐の原点が日常の食卓にあったように、私たちの日々の一つひとつの瞬間が、主との交わりの場となり得るのです。ですから私たちは、日常生活と霊的な営みとを切り離す必要はありません。今日、目の前にある食事に感謝し、隣人と分かち合い、主の慈しみを味わいながらいただく。そのような食卓の風景こそが、神の栄光を映し出す鏡となるのです。
“こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現 すためにしなさい。” 1コリント10:31
② 永遠と今日がひとつになるため
これは、「永遠のいのち」と「今日のいのち」と言い換えることができます。キリスト者の人生を生かしているのは、この永遠のいのちと今日のいのちです。私たちは、この二つの視点を併せ持つことが大切なのだと思います。今日のいのちだけに関心を持ち、永遠のいのちに無関心であることは愚かなことです。しかしまた、永遠のいのちだけに関心を向けて、今日のいのちを軽んじることも、神の御心にかなうことではありません。永遠のいのちも、今日のこの肉体のいのちも、どちらも神が私たちに与えてくださっているものだからです。
ここで、「私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください」という祈りについて考えたいと思います。この言葉には、別訳として「必要な糧」「明日のための糧」と注記されていることがあります。なぜこのような注記があるのかと言えば、「今日のご飯」という単純な意味だけではないからです。そこには、「今日のために十分な糧」、すなわち、今日の私を生かすために必要な糧という意味が込められているのです。それ以上でも、それ以下でもありません。つまり、ここで語られているのは、単に食べ物のような物質的なものを与えてくださる神への信頼というだけではありません。むしろ、今日という一日、そして明日という一日を生かしてくださる神の助けに対する信頼なのです。この「日ごとの糧」という言葉は、ユダヤ人であった弟子たちにとって、かつてのイスラエルの民の出来事を思い起こさせるものでした。出エジプト記16章12節以降には、イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野を旅していたときのことが記されています。神は夕方には鶉を、朝にはマナをお与えになりました。その日、その時に必要なものを、神が与えてくださったのです。モーセは、人々に対して、今日与えられた食物を明日のために取っておいてはならないと命じました。もっとも、取っておきたいと思うのが人間の心理です。しかし神は、朝ごとに、夕ごとに、必要なものを与えてくださいました。それは、神がその日に必要なものを十分に与えてくださる方であることを知るためであり、また、人々が毎日のその瞬間に、神から与えられた食物によって生かされていることを経験するためでした。言い換えるなら、彼らは単に生きるための食物を求める民ではなく、自分たちを生かしてくださる神を求める民となるように命じられたのです。
現代の日本社会に生きる私たちにとって、この祈りは大きなチャレンジであると言えるかもしれません。では、私たちはこの祈りをどのような思いで捧げるべきなのでしょうか。飽食の時代、そして「欲しいものはいつでも手に入る」ことが当たり前になった社会において、私たちはこの祈りの真意を見失いがちです。しかし、この祈りは単に「食べ物がないから、飢えをしのぐために与えてください」という物理的な欠乏を埋めるためだけのものではありません。もしそうであるなら、満ち足りている者にとって、この祈りは無用のものになってしまうでしょう。けれども「主の祈り」は、時代や社会状況を問わず、すべての者が絶えず祈るべきものとして与えられています。つまり、「日ごとの糧」を求める祈りは、食物があふれる社会においても、窮乏の中にある社会においても、変わらぬ重みを持っているのです。この祈りを通して私たちが告白するのは、「今日、私を生かしてくださるのは、自分の蓄えではなく、神ご自身である」という真理です。それは、自分にとって「それ以上でも、それ以下でもない、十分な糧」を求める祈りでもあります。私たちはこの祈りを通して、単に自分の生活がより豊かに、より贅沢になることを願うのではありません。むしろ、今日を生きるために必要なものを、過不足なく、最善の時に与えてくださる神の誠実さを知るために祈るのです。「余分に蓄えて安心したい」という執着から解放され、「今日を神に委ねて生きる」という平安をいただくこと。これこそが、飽食の時代に生きる私たちが「日ごとの糧」を祈る中で、何より切実に必要としている「霊的な糧」ではないでしょうか。
“私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。” 11
“主はモーセに告げられた。「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」…モーセは彼らに言った。「だれも、それを 朝まで残しておいてはならない。」しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝 までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。” 出エジプト16:12-
③ 自分と人々がひとつになるため
以上のことは、同時に第三のポイントへと私たちを導きます。それは、「自分と人々が一つになるため」ということです。この祈りを祈るとき、私たちは一つになる経験をします。最初にも触れましたが、この祈りの前段で、イエスはこう教えられました。祈るときには、人々との交わりから離れて、自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい、と。ところが、その祈りの中では、「私の糧」ではなく、「私たちの糧」を与えてくださいと祈りなさいと言われるのです。十分に理解しているわけではありませんが、おそらく当時の社会は、個々人が経済的に完全に自立して生きるような社会ではなかったと思われます。もっとも、現代社会においても、ある意味では完全に自立して生きている人はいないのかもしれません。私たちはさまざまな面で互いに依存し合いながら生きているからです。私の家庭だけが豊かであればよいとか、私の国だけが豊かであればよいということは、本来あり得ないことです。私たちは互いに依存し合って生きているのです。これは食物のことだけではありません。私たちの国の課題でもあるエネルギーや安全保障についても同じことが言えるでしょう。聖書は、私たち一人ひとりをとても大切にしています。個人の尊厳を強調します。しかしそれは、現代で言われるいわゆる個人主義とは異なります。そもそも私たちは「神のかたち」として造られたとき、助け手を必要とする存在として造られたのです。助け手が必要であるということは、自分もまた誰かの助け手となるということでもあります。つまり、私たちは共に生きる存在として造られているのです。そして、その共に生きる姿がコミュニティ、すなわち共同体であり、その典型的な姿が教会なのです。私たちは一人ひとりが大切な存在として、神の前に立って祈ります。しかし、私の祈りは決して私だけの祈りにとどまるものではありません。助け手としての祈りもあれば、助けられている者としての祈りもあるでしょう。では、「私たちに日ごとの糧を与えてください」と祈って与えられたその糧を、自分だけのものとしてよいのでしょうか。もし「私の糧を与えてください」と祈ったのであれば、与えられたものを自分のものとして受け取るだけかもしれません。しかし私たちは、「私たちの糧を与えてください」と祈っているのです。そうであるならば、私たちに委ねられた糧は、自分だけのものではないはずです。私たちはそのことを、どのように受け止め、どのように祈っているでしょうか。
ある教父が次のようなことを書いていました。
「あなたの食器棚にあるパンは、飢えた人のものです。あなたのクローゼットに掛かっているコートは、それを必要としている人のものです。あなたのクローゼットで朽ち果てている靴は、靴を持たない人のものです。あなたが銀行に預けたお金は、貧しい人々のものです。助けられるはずなのに助けなかったすべての人に対して、あなたは過ちを犯しているのです。」聖バシレイオス
私たちが神から委ねられたものを、自分の将来の安心のためや、自分の楽しみのために自由に使おうとしてしまい込んでいるなら、神に対して「日ごとの糧を与えてください」と祈ることができるのでしょうか。そのような祈りは神のみ旨にかなった祈りではありませんし、決して本当の平安を与える祈りにはならないでしょう。私たちは、祈ったように行動しなければならないのだと思います。しかし、ある意味では、そのように行動することができない自分だからこそ、「そのようにしてください」と神に祈り求めるのです。私たちは、かつては豊かさを与えられるたびに、神の恵みを数えていたかもしれません。豊かであればあるほど、神の祝福を感じることができたのかもしれません。しかし、イエス・キリストが教えられた祈りは、神の国を待ち望み、神の御心がこの地でも行われるようにと祈りながら、「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈る祈りです。私たちは祈ることを通して、受けることの恵みを数える者から、与えることの恵みを数える者へと変えられていくのだと思います。祈りにおいて成長するということは、祈る言葉が成長することではなく、祈ったように行動することで成長していくのです。そして、この祈りを祈るとき、神は本当に必要なものを、必要なだけ、それ以上でもそれ以下でもなく与えてくださる。そして、それは私だけではなく、「私たち」に与えてくださるのだと信じる生き方へと導かれていくのです。私たちは毎日この祈りを祈りながら、このことが日ごとの糧だけでなく、委ねられている時間や財産、能力、機会にも当てはまることを覚えたいと思います。それらを自分だけのものとするのではなく、「私たちのもの」として神が委ねてくださっていることを、共に覚えたいのです。
私たちにとって一番大切なことは、「〜しなければならない」という義務感や、人から言われたから仕方なく行うこと、あるいは規則で決められているから従うということではありません。聖書が教えるのは、そのような律法に縛られた生き方からの解放です。むしろ、イエス・キリストが「わたしにとどまりなさい」と言われたように、私たち一人ひとりが祈りの中で神との親しい交わり、すなわち神との対話の中に生きることではないでしょうか。祈りを通して神の御心を自分の喜びとして受け入れ、自らの意志で「どのように生きていくのか」を選び取っていくことこそ、信仰の歩みです。私たちは、神から与えられたこの尊い「自由」を、単なる放縦のために用いるのではなく、「愛によって互いに仕え合う」ために、そして神の栄光のために用いたいと願います。このような自由な生き方が、キリストの十字架の恵みによって与えられていることを深く感謝しつつ、これからも絶えず祈り続けていきたいと思います。
“あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところ におられるあなたの父に祈りなさい。…「私たちの父よ。…私たちの日ごとの糧を、今日 もお与えください。」” 6-
Author: Paulsletter
