3月1日メッセージ
小平牧生牧師
「健康なからだであるとは」
1コリント12章12~27節
手紙の宛先であるコリントは、ギリシア本土とペロポネソス半島とを結ぶ地峡に位置する商業都市であり、古くはギリシアの都市国家の一つとして栄えていました。紀元前146年にローマ軍によって徹底的に破壊されましたが、約100年後、ユリウス・カエサルによって再建され、ローマの植民市として復興を遂げ、再びかつての隆盛を回復しました。パウロの時代には、帝国屈指の国際的商業都市となっていました。コリントの特色は「歓楽」にあり、不品行な享楽都市として広く知られていました。市内の丘の上にあった女神アフロディーテの神殿には多くの女娼が仕えていたと伝えられ、町には退廃的な風潮が満ちていました。このような場所に建てられたコリント教会であっただけに、さまざまな問題が生じていたことは容易に想像できます。
コリント教会の設立は、パウロが第2回伝道旅行の際、アテネでの活動の後に単身コリントに入ったことに始まります。当時のコリントは比較的新しい復興都市であり、ローマ人をはじめ、ギリシア人、フェニキア人、パレスチナやエジプトからの移住者も多く住む、多民族都市でした。パウロはここに1年半滞在して伝道し、その結果、コリント教会が誕生したのです。パウロには、テモテやシラスのほか、アクラとプリスキラという有力な同労者がいました。教会員の多くは異邦人であり、社会的地位の低い労働者や小市民が中心で、中には奴隷もいましたが、一定の教養を持つ人々も少なくありませんでした。パウロのコリント滞在中にも、彼の伝道に対するユダヤ人の妨害がありました。さらに、パウロがコリントを去った後、エペソに約3年間滞在していた時期にも、彼は自ら設立した諸教会のことを案じ続けていました。とりわけコリント教会は、複雑で深刻な問題を数多く抱えていたため、パウロは牧会的指導を与えなければならない事情にあったのです。
コリントの教会には、キリストを信じていながら不品行に陥る者がいたほか、派閥争い、偶像に献げた肉を巡る葛藤、聖餐の乱れなど、多岐にわたる深刻な問題が存在していました。教会はこれらの混乱に対処するため、パウロに指導を求める質問状を送ります。その問いに応じて、パウロが滞在先のエペソで記したのが、この手紙です。特に今朝の聖書箇所(12章)は、「御霊の賜物」についての教えです。本来、賜物とは神から無償で与えられた恵みの贈り物であり、「全体の益」のために用いられるべきものでした。しかし当時のコリント教会では、多様な賜物が与えられていたにもかかわらず、華やかに見える賜物を持つ者が、そうでない者を見下すという霊的な優劣意識が蔓延していました。神の恵みであるはずの賜物が、自己誇示の道具となり、教会の分裂を助長する火種となっていたのです。そこでパウロは、教会を「キリストのからだ」、教会員一人ひとりをその体を構成する「各部位(手・足・目など)」にたとえて説明します。
健康なからだの特徴は、多くの部位がありながら、それぞれが全体のために固有の役割を果たしている点にあります。一つでも欠ければ、からだ全体の働きに影響が及びます。聖書は、教会を「キリストのからだ」と教えています。その教会にも、多種多様な「御霊の賜物」が与えられ、それに応じたさまざまな務めや役割が備えられています。ここで「賜物」と訳されている語は、ギリシア語で「カリスマ」といい、「恵みによって与えられた賜物」を意味します。つまりそれは、人間の努力や功績によって獲得した能力ではなく、神の恵みによって無償で与えられたものです。12章の冒頭に記されているように(12:4)、賜物にはさまざまな種類がありますが、それらをお与えになるのは同一の御霊です。また、奉仕にはいろいろな種類があり、働きにも違いがありますが、主は同じ主であり、神は同じ神です(12:5–6)。さらに11節では、「同じ御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのに分け与えてくださる」と語られています。これらのことは、賜物の多様性の背後に、三位一体の神の一致と主権があることを示しています。賜物は人間が誇るための根拠ではなく、神の恵みの現れなのです。しかもその賜物は、個人の名誉や栄光のために与えられたのではありません。賜物は「御霊の現れ」であり、教会全体の益、すなわち「キリストのからだ」全体を建て上げるために授けられているのです。したがって、私たちが持っているいかなる能力や働きも、すべて神から託された「預かりもの」にほかなりません。それは自分を誇るための道具ではなく、神の栄光を現し、互いに仕え合うために用いられるものです。
① 私たちが多様であることが、肯定的に受けとめられている
私たちは一人ひとりが多様であり、その個性が肯定されているということは、単に「なんとなく認められている」という消極的な話ではありません。私たちは、神によって意図的にデザインされた「神の作品」であり、その違いこそが神の知恵の現れとして、積極的に肯定されているのです。今朝の聖書箇所でパウロが用いている「からだ」という表現は、多くの部分(器官)から構成されながら、その一つひとつが有機的に結びついている状態を指しています。パウロは、目に見える人間の体と、目に見えない霊的な実体である教会を重ね合わせ、教会を「キリストのからだ」と呼びました。
人間の体は、目・耳・手・足といった、形態も機能もまったく異なる部分から成り立っています。それぞれが生命維持に不可欠な役割を担っており、そこには無意味なものも、無駄なものも一つとしてありません。パウロは、教会もこれと同じであると語ります。多くの人々によって構成される教会は、一人ひとりが異なる背景・賜物・性格を持って集められており、その「違い」があってこそ、「キリストのからだ」として健全に機能するのです。確かに、体は単一の器官ではなく、多くの器官から成っています。それぞれが異なる働きを果たすからこそ、全体として素晴らしいのです。しかしパウロがここで強調しているのは、「違いがあるのは良いことだ」という多様性の称賛そのものではありません。むしろ、「一つひとつの器官が異なる働きを担わなければならない」という必然性です。もし全員が「目」であれば、体は歩くことも聞くこともできず、生命体として成り立たなくなってしまうからです。
「違いを維持しつつ一つになる」ということは、言葉にすれば容易ですが、実際にはきわめて困難な課題です。近年の社会状況を見ても、それが自然に実現するものではないことは明らかでしょう。人は、肉の性質のままに振る舞うなら、自分と異なる人を尊重するよりも、むしろ自分と似た価値観や背景を持つ、いわゆる「同質的な集団」の中に安住しようとします。社会に余裕がある時代には、異質な存在にもある程度寛容でいられるかもしれません。しかし、ひとたび不安や困難が増すと、人々は「同じ属性」で固まり、中心を作り、そこから外れる「異なる人々」を排除しようとする傾向を強めます。同質性の高い集団は意見が一致しやすく、物事も効率的に進むように見えるため、その傾向はいっそう強まります。しかし、聖書が示す教会の姿は、そのような「画一化」とは根本的に異なります。キリストのからだにおける一致とは、個性を消して「同じになること」ではありません。それは、一人ひとりに与えられた異なる賜物、すなわち、情熱や経験、能力などの多様性が、キリストという頭(かしら)に結び合わされることです。しかも、それは人間的な努力や利害の一致によって保たれるものではありません。多様な賜物がキリストにあって結びつけられ、互いの欠けを補い合うとき、そこに「多様性の中の一致」が生まれます。自分の働きが他者を生かし、他者の働きが自分を支える、そのような有機的な結びつきの中でこそ、教会は真に健やかな交わりとなります。この姿こそ、パウロが語る「キリストのからだ」の姿であり、健康な教会のしるしなのです。
私たちの教会には、さまざまに異なる人々が共にいるでしょうか。それ以上に、異なる人たちが安心して過ごせる教会になっているでしょうか。牧師である私は、とりわけそのことを自らに問いかけます。私とは考え方の違う人、好みの異なる人こそ、教会には必要だとパウロは語っています。同じ考え方の人だけを集める必要はありません。むしろ、私の苦手なことを得意とし、私の好きなことを好まない人がいてこそよいのです。教会は、そのような多様な人々の集まりであるべきです。問題は、そのように考え方や価値観の異なる人を、知らず知らずのうちに排除し、居づらくしてはいないかということです。自分と異なる人が「ここに居場所がある」と感じるだけでなく、「自分は歓迎されている」と心から思えるような交わりを、私たちは意識して築いているでしょうか。違う者同士が互いに愛し合い、結び合わされて一つのからだとなる、そのとき教会は教会となります。その姿を大切にするならば、私たちは時に意識的に動き、歩み寄り、関係を築く努力を求められるかもしれません。しかし、その営みの中でこそ、教会は少しずつ建て上げられていくのです。そのことを覚えつつ、共に取り組んでいきたいと願います。
“ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。” 12
“実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。” 14
“しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。” 20
“あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。” 28
② 私たちの弱く見える部分が、価値ある部分とされている
コリント教会に深刻な派閥争いと混乱が生じていたことは、すでに述べたとおりです。特に12章前半で扱われる「御霊の賜物」を巡る問題は、教会の一致を損なう大きな要因となっていました。「賜物」とはギリシア語で「カリスマ」と呼ばれ、神が一方的な恵みとして与える霊的な贈り物です。これは、人間が努力や訓練によって獲得する「才能」や「技術」とは異なり、キリスト者が神と教会に仕えるために聖霊によって授けられる特別な働きを指します。本来、賜物には多様な種類がありますが、それらは「キリストのからだ」という一つの体を構成する不可欠な部分であり、そこに優劣は存在しません。しかしコリントの信徒たちの間では、異言や預言といった目に見えて華やかな賜物が過度に評価され、地味に見える奉仕が軽んじられるという「差別意識」が生まれていました。神の恵みのしるしであるはずの賜物が、いつの間にか自己誇示の手段となり、教会内に深刻な分断と対立をもたらす火種へと変わってしまったのです。
そのような状況を背景に、パウロはまず、「キリストのからだ」を構成する一人ひとりに与えられている「賜物」は、それぞれ異なる多様なものであり、それらが集められて一つのからだを形づくっているのだと語ります。ですから、他の人と自分を比べたり、与えられた賜物を優劣で比較したりすることには、まったく意味がないのです。さらにパウロは、単に「それぞれが異なっている」と述べるにとどまりません。からだの中でほかよりも弱く見える部分であっても、それは決して軽んじられるべきではなく、むしろ「なくてはならない存在」であると語っています。
コリント人への手紙第一 12章23節後半には、「からだの中でほかよりも弱いと見える部分」とあります。この「弱いと見える部分」と同様の意味を示す箇所が、ほかにもいくつか記されています。
・弱いと見える部分(22節)
・見栄えがほかより劣っている部分(23節)
・見苦しい部分(23節)
・劣ったところ(24節)
いずれの箇所も、その意味するところは、「弱い」「見た目が劣っている」「価値が低いと見なされている」ということです。つまり、そのように評価されがちな部分が、「からだ」の中には存在するということです。人間的な価値観からすれば、それらは「意味がない」「役に立たない」といった否定的なイメージで受け取られがちです。しかし、パウロがここで語っているのは、「キリストのからだ」である教会についてです。教会においては、弱く、見た目が劣り、価値がないと思われている部分こそが、かえってなくてはならない存在であると語られています。そのような部分を含めてこそ、教会は教会なのです。からだとは、良いと見なされる部分も、そうでないと見なされる部分も、すべてが組み合わされて一つを形づくるものです。24節の「組み合わせる」という言葉には、「混ぜ合わせる」「調和させる」という意味があります。神は、強いと思われる部分も、弱いと思われる部分もともに結び合わせ、からだを造り上げられました。ですから、からだの中で「これは弱い」「これは強い」「これは価値がある」「これは価値がない」と切り分けて評価することは、本来できないのです。「キリストのからだ」とは、部分ごとに優劣を判断する対象ではありません。そのどの部分が欠けても、からだは成り立ちません。弱いからといって切り離すこともできず、見た目が劣るからといって排除することもできません。そのすべてを含めてこそ、「キリストのからだ」なのです。
パウロはこのことについて、21節で次のように説明しています。目が手に向かって「私はあなたを必要としない」と言うことはできませんし、頭が足に向かって「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。つまり、自分が目であるか手であるかという問題ではないのです。たとえ頭であったとしても、足であったとしても、その部分だけで「からだ」として存在することはできません。私たちは、ともすれば、強い部分が弱い部分を支えているのだと考えてしまいます。世界の国際環境を見ても、そのように見えることがあるでしょう。しかし、本当に強い部分が弱い部分を一方的に支えているのでしょうか。決してそうではありません。強い部分と弱い部分という区分そのものが絶対的なものではなく、ある部分が存在しなければ、他の部分もまた存在し得ないのです。つまり、「あの人がいなければ、私も存在しない」。それが教会なのです。
からだの健康とは、からだの各部分それぞれの状態だけを指すのではありません。元気な部分が集まれば、自然に元気な「からだ」になる、というわけではないのです。たとえ私たち一人ひとりがどんなに元気で、力に満ちていたとしても、教会全体が病んでいることはあり得ます。反対に、私たちがどんなに弱く、見栄えがせず、取るに足りない存在に思えたとしても、「からだ全体」が健やかであるということがあるのです。それこそが「からだ」なのだと、パウロは語っているのです。
“それどころか、からだの中でほかよりも弱いと見える部分が、むしろなくてはならないのです。私たちはからだの中で価値がないと思える部分に、価値があると考えます。格好が悪いと思えるものが、よい姿を持っているのです。よい姿をもっているものには必要はありませんが、神は劣ったところに価値を与えて、からだを一つに組み合わされました。”22-25、私訳
“キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。” エペソ4:16
③ 私たちの痛みや苦しみが、全体で共有されている
コリント人への手紙第一12章26節の御言葉から教えられたことをお話しして、メッセージを終えたいと思います。私はこれまでの人生を一度「タイムライン」として整理し、時間軸に沿って出来事を書き出してみたことがあります。すると、およそ十年ごとに大きな転機、あるいは「危機」とも言える出来事が訪れていることに気づかされました。献身、結婚、震災、さまざまな試練、重責、そして健康との向き合い、それぞれの節目に、葛藤や痛みが伴っていました。しかし不思議なことに、そのどの時期にも、神は必ず必要な出会いや支え、励ましを備えていてくださいました。その経験の一つが、阪神・淡路大震災です。振り返ってみると、この出来事を通して多くのことを学ばされましたが、その後の私の人生に大きな影響を与えたのは、まさにこの26節の御言葉でした。
震災の後も、東日本大震災や熊本地震など、大きな災害が各地で起こりました。ちょうどその頃、私は教団や日本福音同盟の理事長という責任ある立場に置かれ、被災地の方々と深く交わる機会が多く与えられました。その中で、繰り返し受けた質問があります。「震災を経験して、あなたはどう変わりましたか。」「復興支援の働きを通して、教会の宣教にどのように生かすことができましたか。」確かに、困難に負けてはならないという思いもありました。ピンチをチャンスに変えたい、マイナスをプラスに変えたいという願いもありました。あの試練が決して無意味ではなかったと言いたい思いもありました。そして牧師として、被災地で人々を支える働きに取り組んできたことも事実です。しかし、その歩みの中で、私の心に一つの問いが生まれ続けていました。「私は“支える側”に立っていると思っているが、それだけで本当に大切なことを見ているのだろうか。」最初は無我夢中で支援するしかありませんでした。それは教会の責任であり、教会の本質でもあるからです。けれども、やがて気づかされたのです。支えていると思っていた自分が、実は支えられていたということに。仕えていると思っていたその歩みの中で、実は仕えられていたということに。そして最後に知らされたのは、私たちは一方的に支える者でも、支えられる者でもない、互いに支え合う存在であるということでした。この真理に目を開かせてくれたのが、まさにこの26節の御言葉だったのです。
いくつもの災害の現場で、緊急支援の段階に携わらせていただいたことがあります。しかし、自分を「支援する側」に置き、その使命感や善意の意識があまりにも強かったばかりに、かえって人との関係を壊してしまった経験もしてきました。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのですという26節の御言葉にあるように、決して、一方だけが支え、一方だけが支えられるのではありません。ともに尊び、ともに喜ぶのです。それは震災支援の場面だけでなく、日常の教会生活においても同じだと気づかされました。牧師として、人を支え、導き、教え、世話をする立場にあると考えてきました。しかし実際には、その務めの中でこそ、私自身が教えられ、支えられ、励まされ、導かれている存在であり、さらに祈られている存在であることを知らされました。それは牧師だけに限らず、教会の執事や役員も同じです。「自分が支え、仕えている」という一方向の意識だけでは、その務めを本当に担うことはできません。私たちは、仕えている以上に仕えられ、支えている以上に支えられているのです。教会とは、互いに仕え合い、支え合う共同体です。それは、からだの各部分が互いに関わり合っている姿と同じです。教会は、何かを成し遂げるために一つになるのではありません。世代や時代を超えて、何かの目的を達成するために一致するのでもありません。そうではなく、私たちはすでに、イエス・キリストによって一つのからだとされているのです。この事実をしっかりと受け止め、自分がその一つのからだの一部分であることを自覚して歩むことが、私たちに求められているのです。
“一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。” 26-27
“喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。” ローマ12:15
Author: Paulsletter
