11月2日メッセージ
小平牧生牧師
「明日を心配しない」
(キリストの弟子の生き方⑤)
マタイの福音書6章25~34節
私たちは、誰でも将来を心配します。「心配」とは、不安や恐れといった情緒的な反応を含むものです。人は自然に胸がざわつき、不安を覚えます。これは感情的な側面です。しかし、「心配」は単なる感情ではありません。「~になったらどうしよう」と未来を思い巡らすように、思考的な側面も含まれています。つまり、「心配」とは、人間の自然な感情と思考が結びついた状態であり、決して特別なことではないのです。ところが、イエス・キリストはこの「心配(思い煩い)」について、根本的な問いかけをされています。
心配の中には、適切な準備を促す健全なものもあります。しかし、イエスが戒められたのは、信仰を脅かし、人生を蝕む「病的な心配」です。この思い煩いが増すと不安が深まり、私たちは明日への希望を失うだけでなく、今日という日を平安と喜びのうちに生きることができなくなります。私たちから心配の材料がすべてなくなることはないかもしれません。けれども、イエス・キリストは、この心配の連鎖を断ち切る決定的な解決策を示してくださいました。使徒ペテロの手紙にも、「あなたがたの思い煩いをすべて神にゆだねなさい。神があなたがたを心配しておられるからです」(ペテロの手紙第一5章7節)とあります。この手紙の受け手は、迫害や試練の中にあるキリスト者たちでした。彼らは日常的に深刻な「心配(思い煩い)」を抱えていたのです。そのような状況の中で、ペテロは「思い煩いをすべて神にゆだねなさい」と語ります。その根拠は、神ご自身が私たちを愛し、気にかけておられるからです。
では、私たちの「心配」はどうでしょうか。私たちの心配の中には、愛するがゆえに自然に生じるものもあるでしょう。しかし一方で、聖書が問いかけているのは、他人や神を信頼できないことから生まれる、不必要な「思い煩い」ではないでしょうか。私たちはしばしば、心配しなくてもよいことに必要以上に心を煩わせ、逆に本当に心配すべきことには無頓着になってしまうことがあります。
聖書には、この「思い煩い」について深く考えさせられる、マルタとマリアという姉妹の物語が登場します。イエス・キリストがベタニアにあるマルタの家を訪れたとき、姉のマルタは、客をもてなすために、いろいろな準備でせわしく立ち働いていました。彼女は確かに、気が利き、よく働く人でした。しかし、その奉仕の中で、彼女の心は落ち着かず、思い悩み、次第に心を乱していきました。一方、妹のマリアは、マルタのように働くことよりも、主の足もとに座り、その語る言葉に聞き入っていました。マリアは、イエスから直接教えを受ける弟子としての立場を選んだのです。もてなしの重圧と、マリアが手伝わないことへの苛立ちから、マルタはついにイエスに訴えます。「主よ、わたしの妹は、わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。これに対して、イエスはこう言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と。イエスは、マルタのもてなし自体を否定されたわけではありません。しかし、「多くのことに思い悩み、心を乱している」その状態こそが問題であると指摘されたのです。ここで使われている「思い煩い」という言葉は、今朝の御言葉にも繰り返し出てくる「心配」と同じ原語(ギリシア語)に由来しています。この言葉は「心が分裂している状態」を意味し、一つのことを心配するうちに、次々と別のことが気になり、今なすべきことに集中できなくなる心の乱れを表しています。その中でイエスは、「必要なことはただ一つだけである」と語られました。これは、「一つのことだけをすればよい」という意味ではなく、この文脈においてイエスが強調された「ただ一つのこと」とは、イエスの言葉に耳を傾け、神との関係を第一にすることなのです。マルタは奉仕という善い行いに心を奪われるあまり、イエスご自身の教えを聞くという最も大切なことを見失い、心を煩わせてしまいました。
今朝は、マタイによる福音書6章の御言葉を通して、私たちにとって「本当に必要なこと」とは何か、また、どのような状況にあっても平安を保ち、あらゆる問題に対処できる秘訣について、共に考えてまいりましょう。
① 私は何が心配なのだろう
私たちは、どのようなことを心配しているのでしょうか。具体的な「心配」の内容は、年代や世代によって異なるかもしれません。内閣府が発表している「世界青年意識調査」というものがあります。第8回の調査では、日本、韓国、アメリカ、スウェーデン、ドイツの5カ国で実施され、それぞれ18歳~24歳の男女約1,000人から回答を得ています。日本における若者の悩みや心配ごととしては、「お金のこと」(34.9%)が最も多く、次いで「就職のこと」(33.4%)、「仕事のこと」(31.7%)、「健康のこと」(21.1%)、「勉強のこと」(19.2%)となっています。一方で、60歳以上の高齢者の場合は、別の内閣府の調査によると、「健康のこと」(77.8%)が最も多く、以下「自分や配偶者の将来のこと」(52%)、「今後の生活のこと」、「子どもの将来のこと」、「社会のこと」、「相続」、「お墓」の順となっています。イエス・キリストは、「明日のことまで思い煩うな」と言われました。しかし、これらの調査結果を見てみると、私たちの多くの心配や悩みは、健康や仕事をはじめ、「明日のいのち」や「将来の生活」に関わることばかりであることに気づかされます。
イエスが言われたとおり、確かに、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(27節)とあるように、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができないことは、そのとおりなのですが、私たちは、そのことをわかっていたとしても、自分の明日のことや生活のことが心配になってしまうのです。なぜ、自分の将来のことがそんなに心配になるのでしょうか。それは、一つには、自分の人生が自分のものであり、自分のことは自分で守らなければならないという意識があるからだと思います。自分のいのちやからだのことを心配するのは、結局のところ、「自分しかない」のだという思いが根底にあるのです。しかし、聖書のこのところ(マタイ 6章25-34節)を読むと、イエスが仰っているのは、私たちのいのちを誰よりも心配しているのは、私たち自身ではなく、創造主なる天の父である神であり、神こそが私たちに今日も、明日のいのちを与えてくださっているのであり、これらに必要なものすべてを備えてくださっていることを知るべきなのです。
私たちは、「自分のいのちは自分のもの」「自分の人生は自分のもの」と思い違いをしてしまうことがあります。そのため、自分自身がその所有者として、すべてを心配しなければならないと考えてしまうのです。しかし、心に刻みたいのは、私たちのいのちや人生の真の所有者は私たちではなく、神ご自身であるということです。私たちは、それらを神から預かっているにすぎず、所有者ではなく管理者なのです。自分のいのちも、時も、持ちものも、すべては神にゆだねられているに過ぎません。このことを確信するとき、日々の「煩わしさ」や「困難」も、その一日だけで十分であると受け止めることができるのです。つまり、私たちは自分の力で生きているのではなく、神にゆだねられたいのちと人生を、生かされているのです。神がこの時代に、この国に、このような者として最善に生かしてくださっており、神の力によって、今日という一日を乗り越えることができるのです。
“ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。” 6:25
② 満ち足りていることを学ぼう
私たちが明日を心配するのは、「自分のいのちは自分のもの」「自分の人生は自分のもの」と思い違いをしているからです。もし、私たちが何かを所有し、何かを達成することを目標や目的とするなら、同時にそれを失うかもしれないという心配や不安から逃れることはできません。イエスはここで「空の鳥」や「野の花」を引き合いに出され、最終的な養いの源は神であるという信頼を教えられました。パウロも、ピリピの教会に宛てた手紙の中で、自分のこれまでの経験を記しています(ピリピ4章11-12節)。パウロはここで「学んだ」と語り、富んでいることも貧しいことも、満ち足りることも飢えることも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていると述べています。つまり、彼の心の状態は、豊かであるとか貧しいとか、足りているとか足りていないとかに左右されません。彼の心の平安は、外的な環境に揺さぶられることはないと、これまでの経験を通して学んだのです。ですから、もし私たちの人生の目的が「富むこと」や「満ち足りていること」にあるなら、貧しいことや満たされていないことは心配の原因となるでしょう。豊かに満たされていることが目的である限り、そうでない状況は不安の種となってしまいます。私たちも、神の恵みの中で生かされています。貧しい環境や病の中に置かれることは自分で選べないかもしれません。しかし、どのような状況にあっても、それに満足することを学ぼうとするかどうかは、自分で選び、決めることができるのです。
“空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。…今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。…” 6:26-
イチローが大リーグで最高安打記録を達成したとき、インタビュアーが「あなたの次の目標は何ですか」と尋ねました。この質問に対し、イチローはすかさず「次のもう一本のヒットを打つことです」と答えました。インタビュアーは「次の目標」と聞いたとき、「4割バッターになる」「さらに多くの記録を打ち立てる」といった具体的な数字や称号を期待していました。しかしイチローは、記録や数字よりも目の前のプレーに焦点を置いた答えを返したのです。「次のもう一本のヒットを打つことです」という答えには、イチローの哲学が表れていました。打率や記録はあくまで結果であり、結果は自分で完全にコントロールできるものではありません。だからこそ、イチローは「次の一本」という目の前の行動に集中することで、結果は自然についてくると考えたのです。もし「次の目標は4割バッターになること」と考えると、心理的に非常に大きなプレッシャーがかかります。1試合ごとのヒット数ではなく、シーズン全体の打率を気にしてしまうからです。実際、シーズン後半に最高打率を守るため、残りの試合を欠場する選手もいます。打率を維持するためには、次の打席でヒットを打つことが必要であり、打席に立つこと自体を恐れてしまうのです。このように、イチローの優れている点は、目標の立て方にあるとインタビュアーは語っていました。
私たちが「何かを所有すること」や「何かを達成すること」を人生の究極の目標とするならば、同時に、それを失うかもしれないという不安が生じます。しかし、自分の人生の成長そのものを目標とするならば、失敗を恐れず、あらゆる境遇において、さまざまな経験を通して挑戦し続けることができるのです。パウロが自分の人生に満足することができたのは、人生の目標を自分ではコントロールできないものではなく、自分で選び取ることのできるものに置いたからです。私自身のことを考えると、思いのほか長い間、教団の理事長を務めてきました。来年の3月で任期が満了しますが、その後どうなるかはわかりません。週報にも「理事長になってからは、荒野に追いやられるような思いを味わっています」と書きましたが、それだけではなく、他者に理解されないことや、心ない批判を受けることもありました。牧師が不足している今日、「なぜ自分の教会に牧師を派遣してもらえないのか」といった無理な要望を受けたこともあります。なぜそこまで言われなければならないのかと、心が痛む経験も少なくありませんでした。理事長という役職に就かなければ経験しなかったであろう批判も多く受けてきました。しかし、これまでを振り返ると、私にはそうした言動をコントロールする力も、孤独を避ける力もありませんでした。けれども、私に与えられていたのは、その中から学ぶ力、そして満ち足りることを経験する恵みでした。起こる出来事を変えることはできなくても、それをどのように受け止めるかは自分次第であることを学んだのです。人は、自分に起こることを選ぶことはできませんが、それに対する心の態度は選ぶことができます。他人の言動がどのようなものであっても、最終的に自分の心のあり方を決めるのは自分自身です。傷つくことも、落胆することも、最終的には自分の選択なのです。どのような状況にあっても満足して生きる秘訣は、主を仰ぎ、喜びと平安をもって生きることを、イエス・キリストにあって学ぶことにあります。それこそが、私たちが自ら選び取ることのできる生き方なのです。
“乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。” ピリピ4:11-
私が所属してる成年の「アッパールーム」で共有している言葉があります。アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの祈りの言葉です。変えることのできないことに落胆したり、心配したりするのではなく、変えることのできること、すなわち、神を信頼し、イエス・キリストにあって満ち足りる道を選び取っていくことこそが大切です。そして、そのように生き方を変えていくことは、誰もができる選択なのです。
“神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。”
-ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉-
③ 天の父である神に信頼しよう
中学校のときの同窓会に行くと、「神を信じることで何か良いことはあるのか」とよく尋ねられます。多くの人は、神を信じるということがどういうことなのかを誤解しているようです。何か特別に宗教的な人になることとか、あるいは一つの道に凝り固まった人のように見られることもあります。しかし、神を信じるということは、そうしたことではありません。神を信じるということは、自分がどれほど価値ある存在であるかを知ることなのです。神を信じなければ、人は自分の価値を他人との比較によってしか測ることができません。そこには劣等感が生まれ、また優越感である場合には、それを失うことへの恐れや不安が常につきまとうのです。けれども、私たちの創造主である神を信じるとき、私たちは無条件に、自分の価値を確認することができます。イエスは「あなたがたはそれ(空の鳥)よりもずっと価値のあるものではありませんか」(マタイ6章26節)と言われました。これは、人間と鳥の価値を比較するための言葉ではなく、人間が神のかたちに造られ、神に愛されている存在であることを示しているのです。ですから、神は私たちを決して放置しておられるのではありません。神は私たちにいのちを与え、食べるものや着るもの、生きるために必要なすべてを備えてくださいます。神は私たちの心の思いや願いをご存じであり、私たち自身が理解している以上に、私たちの必要を満たしてくださるのです。
私たちは、この神を「天のお父様」と毎日祈ることができます。私たちが心配や思い煩いの中にいるのは、実は自分がどれだけ価値のある存在であるかに揺らいでいるからです。神は、私たちを愛して、その独り子をお与えになりました。皆さんは、何のために自分のいのちを捧げることができるでしょうか。神は、私たちのためにイエス・キリストのいのちを捧げてくださいました。イエス・キリストを十字架につけられるほどに、私たちは尊い存在なのです。ですから、神を信頼するということは、もっとも大切なものを大切にするということです。「まず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてそれに加えて与えられます」(マタイ6章33節)とあります。神を第一にし最優先にするとき、必要な物質的なものはすべて備えられるのです。すなわち、神に繋がり、神の国と神の義を最優先に求める生き方では、神を第二や第三に置くことはできません。神に繋がることで平安が与えられることを知っている人は、神を第一にします。そのうえで、その日に与えられている労苦はその日のうちにやり遂げ、与えられた恵みと課題に集中します。そして、明日のことまで心配する必要はありません。明日のことまで心配しないとは、何もしないで寝転がることではありません。明日の苦労は明日、神が導いてくださるのです。その日の労苦はその日で十分であり、神の支配と配慮を信じて、その日の労苦を全うすることの大切さを示しているのです。
私たちには、労苦のない日はありません。私たちには、その日になすべき労苦が備えられており、その課題を成し遂げたという達成感がなければ、心の満たされなさや思い煩いにつながってしまいます。しかし、今日の労苦を成し遂げた達成感を持つ人には、明日への希望が生まれます。一日の終わりに、その日の務めを成し遂げられたことを神に感謝するとき、私たちは明日もまた今日と同じように神の恵みの中を歩むことができるという信頼と平安を与えられるのです。新しい一週間が始まります。明日を心配することなく、神を信頼して歩んでいきたいと思います。
“しかし、あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。” 6:32
“ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ…」”6:9
Author: Paulsletter
