10月26日メッセージ
小平牧生牧師
「キリストが復活されたのはなぜか」
コリント人への手紙第一15章12~22節
四十九日とは、故人の魂が現世を離れ、来世での行き先が定まるまでの重要な期間、すなわち「中陰」の満了日にあたります。人が亡くなった直後、その魂はまだこの世にとどまり、荒々しく不安定な状態にあるとされ、この段階の魂を「荒魂(あらたま)」と見なす考え方があります。これは主に神道や民間信仰に由来するものであり、仏教の教義における正式な用語ではありませんが、死後間もない霊の状態を象徴的に表す言葉として用いられています。このように、現世への執着が強く、不安定な状態にある魂が迷わず安らかに旅立てるよう、遺族は日々供養を重ねます。故人の魂は四十九日間、七日ごとに審判を受け、生前の行いによって来世の行き先が定まると考えられており、四十九日法要はその最後の審判の日にあたります。ここで故人の魂が成仏し、御霊(みたま)として安らかに極楽浄土へ向かうための大切な節目となるのです。この四十九日を迎えることで、仮の位牌から本位牌へと故人の御霊を移し、弔いの一区切りを迎えます。故人はこの時点で、不安定な荒魂の状態から、供養によって安らかな御霊となり、仏の世界へ旅立つ準備が整うとされています。さらに、遺族や親族は故人の冥福を祈り、善行を積む「追善供養」を行います。この善行によって得られた功徳は故人に回向され、故人が生前に犯したかもしれない罪を軽減し、より良い世界(たとえば極楽浄土)へ生まれ変わる助けとなるのです。遺族が供養を行うことは、故人を偲ぶと同時に、自らの心を鎮める時間ともなります。故人との縁を通して仏の教えに触れる機会にもなり、想いを形にすることで遺族自身の精神的な慰めにもつながります。故人という存在は、生きている者がさらに善い行いを積むきっかけにもなるのです。つまり、四十九日までの供養と、その後に続く追善供養は、不安定な荒魂の状態にある故人の魂を、遺族の善行という功徳によって清め、やがて安らかな御霊として次の生へと旅立たせる助けとなります。そして同時に、それは遺族自身が心の安寧を得て、仏の道を歩むための大切な修行の機会ともなるのです。
一方で、キリスト教においては、このような世界観は存在しません。キリスト者にとって、永遠のいのちに関する必要なものすべては、イエス・キリストの十字架の死と復活によってすでに成就しているからです。信仰を持つ者の霊は、肉体的な死の瞬間に主(神)の御許に召されると信じられています。そのため、遺族は故人に対して何の心配もする必要がなく、故人の霊がさまようことを前提とした仏教的な法要や追善供養の必要もないのです。
キリスト教会がその歴史の中で、最も長く、そして広く信仰を告白してきたのが「使徒信条」です。
その中にある「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」という告白は、私たちの信仰の中心的な柱であり、信仰の骨格をなすものです。この信条の告白は、初代教会の使徒たちが生きていた時代にまでさかのぼり、イエス・キリストの復活という確固たる出来事に基づいています。新約聖書の多くの書簡は、復活されたイエス・キリストに実際に出会った人々の生きた証言を記録しています。特に使徒パウロは、自らの手紙の中で、キリストの復活こそが私たちの信仰の根幹であると強調しています。彼は、キリストが復活されたからこそ、私たちは罪の赦しを受け、からだの復活と永遠のいのちを約束されているのだと力強く語っています。
①最後に残るのは、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのち
私たちが、神から愛されているということは、ありのまま受け入れられていることも素晴らしいのですが、何よりも、神の愛とは、私たちの罪のために滅びることなく、永遠のいのちを持つため、イエス・キリストを身代わりとして与えてくださったということです。そして、この永遠のいのちというのは、からだのよみがえり(復活)と切り離すことはできません。
聖書的な意味において「復活」と言うとき、それは「霊魂不滅」の思想とは明確に区別されなければなりません。霊魂不滅の思想は、徹頭徹尾ギリシア的なものであり、その根底には独自の世界観と人間観が存在しております。すなわち、人間が地上に生きている限り、霊魂は牢獄、すなわち霊魂と本質的に無関係な肉体(からだ)の中に閉じ込められているとされるのであり、いわゆる「霊肉二元論」です。この立場において、人間のからだは単なる外的衣服にすぎず、人間が真に自由に生きることを妨げるものとみなされます。したがって、死は霊魂をからだという牢獄から解放し、永遠の世界へと帰還させる出来事として理解されます。ゆえに、死は恐るべきものではなく、むしろ霊魂にとっての「偉大な友」とされるのです。ソクラテスが平安のうちに死を受け入れたのは、まさにこのような思想的背景に基づいていたと考えられます。このような世界観および人間観は、のちにグノーシス思想にも受け継がれていきます。グノーシス的宗教において「救い」とは、天からやってきた神的な救済者が、肉体という物質の中に閉じ込められている「神的な火花(魂の断片)」を集め、それらを天へと昇らせることを意味しています。ここにおいては、霊魂が肉体から解放されることこそが救済であり、「復活」という概念は問題とされません。
一方で、聖書の世界観・人間観・救済観は、このようなギリシア的・グノーシス的理解と根本的に対立しております。ユダヤ的思考において、人間は霊魂とからだを分離した存在ではなく、本質的に一体の存在として理解されます。「私の霊」や「私の魂」という表現が用いられる場合であっても、それは人間の全存在を指し示すものであり、肉体を離れた霊魂のみを意味するものではありません。もともと人間は、霊とからだが一体のものとして神によって創造されましたが、人間の罪によって死がもたらされたのであります。イエス・キリストによる救いとは、この罪の赦しを通して霊とからだが再び永遠に一つとされることであり、すなわち永遠のいのちと復活のからだとが与えられることを意味します。神が創造された人間が「生きている」ということは、霊とからだとが結びついている状態を指しており、私たちの死とは、肉体から霊が離れることにほかなりません。したがって、聖書的理解において「死」とは霊魂の解放ではなく、人間全体の死を意味いたします。そして、その死の現実において掲げられる希望は、霊魂の不滅ではなく「復活」であります。すなわち、全存在として死んだ者の全存在的な再生、すなわち神による新しい創造の御業こそが、聖書の語る真の「復活」なのです。この復活とは、朽ち果てるべき血肉のからだが朽ちない栄光のからだとしてよみがえり、霊とからだが再び一つとされ、本来の人間として完成されることを意味いたします。これこそが神の与える究極の救いであり、最終的に残るのは、罪の赦し、からだのよみがえり、そして永遠のいのちなのです。
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。” ヨハネ3:16
“キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。” ピリピ 3:20
②イエス・キリストが死から復活された事実を覚えて
コリント人への手紙第一15章の中心的なテーマは、「イエス・キリストの復活」です。そしてそれは、キリストを信じる者に与えられる永遠のいのちと、朽ちることのない栄光のからだへの希望を示しています。この御言葉を読むうえで重要なのは、この手紙の読者の多くが、復活されたイエス・キリストに実際に出会った経験を持つ人々であったという点です。したがって、パウロはイエス・キリストの復活を理論的に証明するためにこの手紙を書いたのではありません。それにもかかわらず、コリント教会の中には、キリストの復活を信じていながらも、「キリストの復活」と「自分たち自身のからだの復活」とを結びつけて理解できない人々がいました。その背景には、当時のギリシア的思想、特にグノーシス主義に見られる「霊肉二元論」の影響があったと考えられます。彼らにとって、肉体は罪の誘惑の源であり、霊を閉じ込める牢獄のような存在でした。そのため、救いとは霊が肉体から解放され、自由になることだと理解されていたのです。
このような世界観のもとでは、たとえイエス・キリストの復活という事実を信じていたとしても、「からだの復活」という概念を受け入れることは困難でした。こうした誤解を正し、キリストの復活と信徒自身の復活との密接な関係を明らかにするために、パウロはこの手紙を記したのです。パウロは、当時のコリント教会の一部に広まっていた「死者の復活はない」という教えに対して、キリスト教信仰の根幹に関わる論理的な帰結を突きつけます。すなわち、「もし死人の復活がないのなら、キリストもよみがえらなかったことになります」。さらに、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしいのです」と語ります。この論理は、復活の否定がキリスト教信仰そのものを無意味にしてしまうことを明確に示しています。キリストが復活していなければ、彼はただの殉教した指導者にすぎず、死の力に打ち勝つこともなかったことになります。したがって、私たちの宣教は根拠を失い、何よりも重大なのは、キリストの復活がなければ罪の贖いも完成していないということです。ゆえにパウロは、「あなたがたは、今もなお罪の中にあるのです」と強く訴えているのです。
翻って、現代のキリスト者の中にも、「死後、天国に行くのは霊だけであり、肉体は関係ない」と考える誤った理解が見られます。けれども、聖書が語っているのは、朽ちないからだの復活が与えられてこそ、救いは完成するということです。キリスト者は古くから、使徒信条において「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」と明確に告白してきました。したがって、霊的な救いだけを強調する考え方には、この「からだのよみがえり」という決定的要素が欠けているのです。確かに、私たちが今持っている朽ちるからだは弱く、しばしば罪の誘惑にさらされます。しかしそれは、まだ救いの完成に至っていないこの地上に生きているからにほかなりません。もともと神は、人間をその被造物の中で「極めて良い」ものとして創造されました。したがって、私たち自身も、そして私たちのからだも、神の栄光のために最終的に回復され、変容されるべき存在なのです。
“しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。” 15:20-22
③「からだのよみがえり」の時を待ち望んで生きよう
私が六十代後半を迎えるにあたり、身体に対する認識は著しく変化してまいりました。若き日には、体調や欲求をいかに制御するかが一つの課題でした。おおむね四十代までは、多少の無理をしても、十分な休息を取れば元の状態に回復することが可能でした。しかし五十代に入ると、責任の増加とともに、心身および霊的なバランスの乱れを自覚する機会が次第に増えていきました。疲れているにもかかわらず眠れないことが多くなり、若い頃にはあまり意識しなかった「リフレッシュ」の必要性を強く感じるようになったのです。さらに六十代になると、休息を取っても以前のように体調が回復せず、疲労や弱さを実感することが増えてきました。その結果、健康リスクを避けるために、より一層の注意を払うようになったのです。
パウロがコリント人への手紙第15章において、自らの身体を「朽ちる」「弱い」「血肉のからだ」と表現しているように、私自身も、自らの身体がまさにそのようなものであることを、よりリアルに認識するようになりました。また、その後に登場する「土の器」という表現にも、私の身体のイメージが重なることを感じるようになったのです。しかし同時に、だからこそ、私は、粘土で作られた壊れやすい「土の器」のような身体が、やがて朽ちない栄光の身体に変えられるという御言葉に、深く心を打たれるようになりました。身体の朽ちゆく実感があるからこそ、その「土の器」の中にイエス・キリストという宝が納められており、したがってキリストの力が際立って顕れることを、より深く理解するようになったのです。このように、きわめて弱く、脆く、次の瞬間には壊れてしまうかもしれない欠けの多い「土の器」に、イエス・キリストが宿っておられるという事実は、単なる弱さや脆さにとどまらず、希望を与えるものです。そして、やがて来る日には、この朽ちる身体が、朽ちない神の栄光の身体に変えられるために、イエス・キリストは復活されたのだと、私は確信しています。
私たちには、この地上における自己の存在と、肉体の死を経た後の自己の存在との間に、連続するものと連続しないものがあることを認識しています。パウロは、「愛」は絶えることのない連続するものであると述べています。しかしながら、多くのものは連続せず、いずれ滅びるものであり、ほとんどが永遠に存続するものではありません。このことから、私たちの希望は、連続しない一過性のものではなく、永遠に存続するものに置くべきであると思うのです。私たちは、朽ちる肉体をもってこの世に生きています。しかし、この肉体はあくまで地上に限定されたものであり、永遠に存続するものではありません。しかし、私たちは、イエス・キリストにあって、朽ちることのない永遠のいのちを与えられています。この永遠のいのちは絶えることなく連続するものであり、神との交わりの中で私たちを支え導くものです。たとえ肉体は滅びるとしても、永遠のいのちを受けた者は、主の御許に召された後に復活の永遠のからだに変容されます。ここにおいて、私たちはすでに永遠のための準備のプロセスを歩み始めていることが示されています。このため、死後の修行や供養は必要ないのです。
イエス・キリストを信じ、新しくされた私たちは、依然として朽ちる肉体を有しておりますが、すでに永遠のいのちをいただいて生きている存在なのです。そして、最終的には朽ちることのない永遠のからだに変容されるという救いの完成というゴールに向かって、この地上の人生を戦いながら歩んでいるのです。もちろん、この地上における生活においては、肉体の弱さや年齢の加齢、病気や障害などを伴うことがあります。しかし、私たちは滅びることのない永遠のからだに変えられるという希望を抱いて生きることができるのです。復活の信仰に生きるとは、単にイエス・キリストの復活を信じるだけでなく、私たち自身も復活の恵みに与ることを意味します。新約聖書は、キリストの復活をその初穂として示し、私たちの将来の変容と永遠のからだの実現を確信させます。したがって、私たちは地上の生命の有限性や朽ちる肉体の現実を認めつつも、永遠に続くいのちと復活の希望に生きるべきであり、この信仰こそがキリスト教的希望の核心であると言えるのです。
“聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。” 15:51-53
パウロは、私たち自身を「土の器」、すなわち極めて弱く、壊れやすい存在として表現しています。しかし、その脆い器の中には、計り知れない「宝」、すなわちイエス・キリストという神の力が宿っていると語ります。この神の力によって、私たちは四方八方から苦しめられても窮することなく、途方に暮れても行き詰まることはありません。ここには、人間の弱さの上に神の力が働くという、信仰生活の根本原理が明確に示されています。パウロが「私たちは、いつもイエスの死をこの身に帯びています」と語るのは、宣教の生涯に伴う苦難や犠牲が、キリストの十字架の苦しみを体現していることを示唆しています。その苦難の具体的な内容は、たとえば肉体の「とげ」のような個人的な試練である場合もあれば、福音宣教を妨げる外的な迫害である場合もあります。しかし、何より重要なのは、この「死を帯びる」ことの究極的な目的が、「イエスのいのちがこの身に現れるため」であるという点です。この真理は、復活のいのちが死を前提とするという、キリスト教信仰の論理的な帰結を示しています。パウロ自身も、日々キリストと共に死ぬというプロセスに身を置き、その結果として、キリストの復活の力が自身の弱さの中に力強く現れることを確信しているのです。
先に天に召された信仰の先達たちも、「からだのよみがえり」の時を待ち望みつつ、地上の生涯を全うし、主の御許に召されました。私たちもまた例外ではなく、やがて訪れる肉体的な死の向こうにある復活の時に目を向け、その希望の中に生きることが求められています。私たちはすでにキリストにあって永遠の生命を与えられています。この生命の確信を喜びとしながら、今与えられている務めを勇敢に果たし続けることが、私たちに課せられた責務です。キリストの死を身に帯びることによって、その復活のいのちをこの世界に顕現させるという、土の器に託された栄光ある使命を、私たちは進んで引き受けるべきであると確信しています。
“私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。” 2コリント4:7-
Author: Paulsletter
