9月21日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちは地の塩なのですか?」
(キリストの弟子の生き方②)
マタイの福音書5章13~16節
以下のボックス内の記述は、筆者の補足部分です。
レビ記2章13節には、「穀物のささげ物(素祭)」に関する規定が記されています。このささげ物には必ず塩を加えるよう命じられており、その塩は「神の契約の塩」と呼ばれています。塩は食べ物の腐敗を防ぐ保存料であり、また味付けにも欠かせない要素です。聖書において塩は、その腐敗を防ぎ変質しない性質から、永遠性や不変性の象徴とされています。同じ表現は、民数記18章19節の「永遠の塩の契約」にも見られます。したがって、神にささげるものに塩を加えることは、塩が腐敗を防ぐように、神とその民との契約が純粋で不変であり、永遠に続くことを示しています。これはまた、神との関係が決して朽ちることのない、永続的なものであることを意味しています。
今朝のメッセージも、「山上の説教」に記されたイエスの有名な教えの一つです。イエスが弟子たちに「あなたがたは地の塩です」と語られたのは、塩が持つ腐敗を防ぐ性質に基づいています。つまり、キリスト者は世の道徳的・精神的な腐敗を防ぐ役割を担う存在である、ということです。さらに、塩が味付けに欠かせないものであるように、キリスト者は世に良い影響を与え、健全な価値をもたらす存在であると教えられています。ですから、塩が塩気を失えば役に立たなくなるように、信仰者もその本来の働きを失えば、キリスト者としての使命を果たせなくなってしまうのです。同じように、「あなたがたは世の光です」という言葉にも深い意味があります。光は暗闇を照らし、物事を明らかにします。信仰者は、神の真理と愛を、霊的な闇の中にいる人々に示す存在です。人々の生活や心を照らし、正しい道へと導く使命を与えられています。私たちは、イエスの光を映し出す者として生きるように召されているのです。
① 私たちは、地においては塩、世においては光です
「私たちは、地の塩、世の光です」というイエスの言葉は、単に「地上では塩のように、世の中では光のように生きなさい」という人生訓を語っているのではありません。ここで強調されているのは、キリスト者がイエス・キリストにあって、すでに塩であり、光であるということです。つまり、これは「何をするか(doing)」ではなく、「何者であるか(being)」について語られているのです。
先週は、「心の貧しい者は幸いです」という御言葉から、二種類の「幸い」について学びました。一つは、「happy」「happiness」で表される、偶然や運によってもたらされる一時的な幸いです。もう一つは、「Blessed」と訳される「幸い」です。「Blessed」は「血」を意味する blood に由来し、もともとは祭壇でいけにえの血を流して「聖別する」「神聖なものとする」という行為を表していました。そこから意味が発展し、「神にささげられた」「神に守られている」「神に祝福されている」というニュアンスを持つようになったのです。すなわち、ここで語られる「幸い」とは、神との関係に根ざし、神からの祝福を受けている状態を指しています。そして、この「幸い」こそが、イエス・キリストの十字架の贖いによって与えられた、真に本質的で根源的な幸いなのです。
私たちが人生においてどのような「幸い」を求めるかによって、真の意味での「幸い」が決まっていきます。偶然や運によってもたらされる一時的な「幸い」からは、「塩」や「光」としての意識は生まれません。むしろ、それらは「塩」や「光」とは正反対の方向へと導くものです。「塩」や「光」としての存在は、神からの祝福を受け取る者に与えられるものだからです。そして「塩」と「光」には共通した性質があります。それは、この世にあってもその影響を受けて変質することはなく、むしろこの世に影響を与えるということです。私たちの存在は、この世によって変えられてしまうものではなく、変わらない本質を保ちながら、この世を生かし、清め、祝福していくのです。したがって、私たちの信仰は「イエス・キリストを信じればこんな“happy”なことがある」という次元にとどまるのではありません。むしろ、イエス・キリストによって神から与えられた「Blessing」を、この世に現す存在となることこそ、私たちの使命なのです。
“あなたがたは地の塩です。…あなたがたは世の光です。” 13,14
“イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の 中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」” ヨハネ8:12
“「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、 闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄 光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照 らされて歩む。” イザヤ60:1-3
② 私たちは、この世界にあって、この世界を活かすために存在しています
私たちがこの地(世)にあって「塩」や「光」であるということは、この世界に生かされている存在であるということです。「この地」や「この世」という表現は特別に区別されているのではなく、いずれも私たちが生活している現実の世界を指しています。具体的には、「家庭」「職場」「地域」といった日常の場を意味します。13節にあるように、「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです」と語られています。私たちは、この世界にあって神の恵みにより生かされ、「塩」としての役割を果たさなければならないのです。ここで言う「塩気」とは、自分の持ち味を誇示したり、自己主張を強めたりすることではありません。それは他者を生かし、引き立てるためのものであり、強ければ良いというものでもないのです。「光」についても同様で、ただ明るさが強ければよいのではありません。私たちは、たとえ弱く小さな存在であっても、そこにいることによって「塩」と「光」としての働きを果たすことができます。そのためには、常に自分自身が神の恵みの中にとどまっていなければならないのです。
私たちの生きている世界は、道徳的に大きく腐敗しています。あらゆる場で不正が横行し、モラルも低下しています。かつて偽りは自分を守るために用いられていましたが、今や積極的に相手を攻撃し、傷つけるために使われることさえあります。もちろん、この世界が本来受けるべき祝福を失っているのは、人間が創造主なる神から離れた結果であることを、私たちは知っています。しかし、その中で私たちに求められているのは、この世界にあって「塩」となり「光」となり続けることです。それは、必ずしも特別なことを成し遂げることではありません。むしろ、「地の塩」「世の光」として神から遣わされていることを忘れないことこそ、大切なのです。それは、私たちが上から一方的に働きかけるのではなく、共に生かされ、共に腐敗から守られ、共に希望の光を見ることができるように、祈り合いながら歩む存在であるということです。
“もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立 たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。” 13
“あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そう すれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。” コロサイ4:6
③ 私たちの人生の目的は、そのようにして神の栄光を表すことです
山の上の町が遠くからでも見えるように、信仰者の存在は隠されるものではなく、この世にイエス・キリストの栄光をあらわす証となります。では、「地の塩」の塩気や「世の光」の光源はどこから来るのでしょうか。14節には、「あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」と記されています。つまり、私たちの行いを通して神があがめられることが目的なのです。これは、塩の塩気や光の光源が私たち自身から生み出されるのではなく、神から与えられるものであることを示しています。私たちは、信仰者だからといって、自らの力で社会を変えなければならないわけではありません。むしろ、そのようなことを成し遂げようとすれば、この世の力に押し戻されてしまうでしょう。なぜなら、真の光はイエス・キリストご自身であり、私たちは光を生み出す力を持っていないからです。イエス・キリストなしに光り輝くことはできません。私たちは、イエス・キリストの光が輝かされ、御名が崇められるために遣わされています。たとえ私たちが小さく弱い存在であったとしても、この世界に生かされている意味と役割を持つ大切な存在であることを忘れてはなりません。どこにいようとも、イエス・キリストにつながることによって、私たちは弟子としての務めを果たしていくことができるのです。
“山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたり はしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。こ のように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを 見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。” 14-
“飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、 あなたの暗闇は真昼のようになる。” イザヤ58:10
Author: Paulsletter
