9月28日メッセージ
小平牧生牧師
「兄弟だからこそ」
(キリストの弟子の生き方③)
マタイの福音書5章21~26節
今朝の御言葉の直前、マタイによる福音書5章17節にはこう記されています。
“わたしが律法や預言者を廃棄するために来たと思ってはなりません。廃棄するのではなく、成就するために来たのです”5:17
この言葉は、旧約聖書における「律法」(モーセ五書)や「預言者」(預言書など)を通して示されてきた神の御心と契約が、イエス・キリストの生涯と教え、さらに十字架の死と復活によって完全に成就されたことを意味します。イエスは、それらを無効にするどころか、その本質的な意味を明らかにし、神がもともと意図された愛の精神へと立ち返らせるために来られたのです。律法と預言者の究極の目的は、イエス・キリストにおいて成し遂げられました。ですから、イエスは単に律法の新しい解釈を唱える者でも、既存の教えを広める告知者でもありません。彼は、旧約聖書が指し示してきた救い主として、差し迫る神の国の到来(神の支配)を告知し、それを実現するために来られたのです。
今朝の聖書箇所、マタイによる福音書第5章21節から48節には、「あなたがたも聞いているとおり(昔の人に言われていた)……。しかし、わたしはあなたがたに言う」という形式(対照句)が6回繰り返されています。これは、イエスが従来の律法の解釈とご自身の教えを対比させることで、律法の本質的な意味を明らかにしているものです。この6つの対照句は、「律法を廃棄するためではなく、成就するために来た」(マタイ5:17)というイエスの宣言を具体的に示しています。ここでイエスが強調しているのは、律法の表面的な遵守(外面的な行い)ではなく、心の奥深くにまで及ぶ律法の「精神」、すなわち神の御心こそが大切であるということです。
1.人を殺してはならない(5:21–26)
2.淫してはならない(5:27–30)
3.妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ(5:31–32)
4.偽りの誓いを立ててはならない。(5:33–37)
5.目には目で、歯には歯で(5:38–42)
6.自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め(5:43–48)
イエスの教えにおいて、人間関係は「敵」「隣人」「兄弟」という三つの類型で示されています。それぞれは固有の関係性を表し、その関係に応じた愛の実践が求められます。確かに、私たちの周囲には多様な人間関係が存在します。そのため、「隣人を愛する」という言葉の適用範囲は一様ではありません。イエスが教えられた「敵を愛すること」「隣人となること」「兄弟と仲直りすること」は、それぞれ異なる愛のかたちを示しており、必ずしも同義ではありません。たとえば「敵を愛すること」とは、自分を迫害し憎む者に対してさえ、神の無償の愛をもって接するという、きわめて高い倫理的要請です。一方で「隣人となること」は、「善きサマリア人」のたとえが示すように、血縁や出自、宗教的背景を越えて、助けを必要とするすべての人に愛を実践することを意味します。イエスは、「誰が自分の隣人か」と問う受け身の姿勢ではなく、「誰に対して隣人となるのか」という能動的な愛の実践を、私たちに求めておられるのです。
今朝の御言葉は、「山上の説教」から、私たちに深く厳粛な真理を突きつけています。イエスは、古代の律法である十戒の「殺してはならない」という戒めを引用し、その本質をさらに掘り下げられました。すなわち、単に殺人という外的な行為を禁じるだけでなく、その根源にある内面的な「怒り」さえも、神の前では罪であると教えておられるのです。兄弟に対して怒りを抱く者は神の裁きを受け、「ばか者」と罵る者は最高法院で裁かれ、「愚か者」と呼ぶ者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれる、とイエスは、言葉によって兄弟を傷つけることが、殺人に匹敵する罪であると指摘されています。今朝は、この御言葉を通して、イエスが教えられる「真の義」とは何かを、深く心に刻みたいと思います。
① 「兄弟」を愛することから始まる
イエスがここで語られている文脈では、兄弟に向かって「ばか者」「愚か者」と言う者は、最高議会に引き渡され、さらに裁かれるとされています。イエスが問題としておられるのは、「遠くにいる誰か」ではなく、「身近な存在」に対する怒りや侮辱です。思い返せば、最近あなたが腹を立てた相手も、身近な人ではなかったでしょうか。まさにイエスはそこに焦点を当てておられるのです。十戒にある「殺してはならない」という戒めは、単に人を殺してはならないという禁止にとどまりません。それは、神が私たちに与えてくださった隣人、すなわち共に生きるように備えられた存在を尊び、愛することを意味しています。兄弟を愛することは、その最も身近な実践なのです。自分を愛するように隣人を愛するなら、兄弟に対してはなおさらそうであるべきです。互いに愛し合い、共に生きる者とされたからこそ、「殺してはならない」という戒めが与えられているのです。私たちの問題の多くは、家族や兄弟に対する怒りや憎しみです。キリスト者にとっても、しばしば内面的に深刻なのは、知らない他人は赦せても、同じ教会の近しい存在を赦せないということです。なぜなら、そこに自分勝手な律法や規範意識が働くからです。そこから生じる怒りは、相手を殺すのです。実際に肉体の命を奪うことはなくても、その人を「ばか者」「愚か者」として、自分の世界から排除してしまうのです。身近な存在を愛することは、実に難しいことなのです。
人間が最初に罪を犯したとき、アダムは自分の妻エバを「この女」と呼びました。また、兄カインは弟アベルに激しく怒り、ついには野に誘い出して殺しました。夫が妻を軽んじ、兄が弟を憎んだことから、神の前で裁きを受けるべき罪が生まれたのです。つまり、私たちの罪は遠い敵に対してではなく、身近な夫婦や兄弟との関係の中であらわされるのです。けれども、私たちは知っています。イエス・キリストは、神に敵対する私たちのためにご自分の命をささげてくださり、私たちを神の子と呼んでくださったのです。
“昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』 と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。”21-22
“友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。”箴言17:17
② 礼拝がまことの礼拝であるために
21~22節では、兄弟に対する怒りや「ばか者」「愚か者」といった罵倒が、神の裁きを受けるべき罪であると教えられています。続く23~24節では、その怒りの結果として生じた不和や対立に気づいたとき、私たちがどのように対処すべきか、具体的な方法と優先順位が示されています。すなわち、もし兄弟が自分に恨みを抱いていることを思い出したなら、相手の落ち度や自分の正しさを問いただすのではなく、まず自分から進んで仲直りしなさい、というのです。その結果がどうであれ、最初に自分から行動することが求められています。
このことを強調するために、「たとえ祭壇にささげ物を献げようとしているときであっても、いったんそれを祭壇の前に置き、まず兄弟と和解しなさい」と命じられています。つまり、最も重要な礼拝を一時中断してでも、兄弟との和解を優先すべきだということです。ここで注目すべきは、24節にある「あなたの兄弟」という表現です。善きサマリア人のたとえでは「隣人となること」が課題とされましたが、ここで求められているのは「兄弟となること」ではありません。私たちはすでに神によって兄弟とされているからです。だからこそ、その兄弟と和解し、共に生きることが強調されています。まことの礼拝が神にささげられるためには、まず兄弟との和解を優先することが求められているのです。
さらに、ヨハネが自身の手紙で繰り返し語っているように、私たちは兄弟を愛することが求められています。なぜなら、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって、罪の支配から解放され、永遠のいのちを得たことを知っているからです。私たちが兄弟を愛することは、「死からいのちへ移った」ことの確かな証拠です。無条件で神に愛され、赦されているからこそ、私たちも無条件で兄弟を愛し、赦すことができるのです。
“ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいるこ とを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と 仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。”23-24
“私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。 愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたが たが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありませ ん。”1ヨハネ3:14-
“私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言 いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者 に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。…” 1ヨハネ 4:19-21
③ 自分から愛し合う関係をつくる
25節には、「あなたを訴える人とは一緒に行く途中で、早く和解しなさい」と記されています。ここで言われている状況は、裁判の審理がまだ始まっておらず、当事者間で和解交渉が可能な段階の状況です。つまり、「早く和解しなさい」とは、与えられた機会を逃さず、今のうちに関係を修復しなさいという勧めです。裁判官によって判決が下され、それが執行されてしまえば、もはや交渉の余地はなくなり、投獄や債務の取り立てといった厳しい結果を避けられなくなるからです。ですから、もし兄弟が自分に恨みを抱いていることに気づいたなら、それは神が与えてくださった和解の機会です。その機会を逃さず、自ら進んでプライドを捨て、謙遜になり、必要であれば譲歩してでも仲直りをしなさい、ということなのです。
しかし、私たちは経験的に、仲直りを先延ばしにしたくなる傾向があります。さらには、「和解は神の働きであって、自分が無理に動くべきではないのでは」と考えてしまうことさえあります。けれどもイエスは、たとえ礼拝の最中であっても、それを中断してでも兄弟と和解するよう命じられているのです。私自身も、このことを深く感じながら、今回の礼拝メッセージの準備をしていました。心の中には、いまだ赦せない現実の問題が残っており、それに向き合う中で深く傷ついています。和解すべき相手がいるのに、なかなか踏み出せない。そのとき、「今は礼拝をしている場合ではないのではないか。一時中断すべきか」と思い悩むこともあります。もちろん現実には、その「兄弟」との和解を、私自身が積極的に行わなければなりません。しかし、愛するがゆえに和解を求めるからこそ、そのタイミングや方法を慎重に見極め、大切にしたいのです。聖書に記されている通り、一方的に自分の正しさを押しつける形で和解を試みることは、かえって問題を複雑にし、律法的な行為となってしまう恐れがあります。それは、自分の義を満足させるためだけの行動になってしまうのです。
イエスが、礼拝を中断してでも「行って仲直りしなさい」と言われるのは、私たちが神を愛することと、兄弟を愛することが切り離せない関係にあるからです。神を愛し、隣人を愛する二つの大いなる戒めは、二つの大きな柱のように互いに支え合い、切り離すことはできません。つまり、私たちが神を礼拝することと、兄弟を愛することは別々のことではなく、同じ真理の表れなのです。ヨハネも、「目に見えている兄弟を愛さない者が、目に見えない神を愛することはできません」(1ヨハネ4:20)と記しています。隣人を愛することこそが、神への真の愛の試金石であるのです。
私たちは兄弟と争いをしながらも祭壇にいけにえを捧げることはできるかもしれません。兄弟に腹立たしい思いを抱きながらでも、神への賛美のうたを感情をこめてささげることもできるでしょう。ここでいう祭壇にささげものを献げる行為は、当時の人々が行っていた外形的な律法の行い(儀式)を象徴しています。イエスが求めたのは、その外形的な行いそのものではなく、その儀式の真の意味、すなわち、内面的な義です。したがって、イエスは、神への献身を示す最高の行為(いけにえを捧げること)が、隣人との不和によってその価値を完全に失うと示しているのです。礼拝とは、単なる儀式や感情ではなく、「仲直りをする」という行動によって証明される、愛の行為なのです。真の神の律法の本質とは、神を愛し、隣人を愛し、兄弟と仲直りするという「心の義」であり、この義なき礼拝は、神にとっては無価値です。それゆえ、イエスは私たちに、愛と和解の精神がともなわない形式的な礼拝は、一度中断してでも、まず真実の愛を実践し、その後に真の心をもって神に近づくよう命じられたのです。
私たちは不完全で弱い存在ですが、敵とでも平和を築き、争っている兄弟がいるなら仲直りに努めるべきです。これは単なる道徳的義務ではなく、神の子としての本質から生まれる行動です。私たちが敵や争っている兄弟と和解する力は、自分自身からではなく、イエス・キリストからもたらされます。自分の力だけでは、怒りや憎しみを捨てることは困難です。しかし、キリストによって新しい命を与えられた私たちは、聖霊の力によって平和をつくる者となることができます。イエス・キリストは、私たちのために十字架でご自身の命を捨ててくださいました。この犠牲によって、私たちは罪を赦され、神との平和を得ることができたのです。ですから、兄弟との争いを抱えたままの礼拝は、イエス・キリストが実現してくださった和解の恵みをないがしろにすることになります。イエスが「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」と命じられたのは、人との和解が神との和解の真実性を証明するからです。キリストは、私たちのために命を捨てるという究極の行為を通して、神の愛を示してくださいました。この無条件の愛は、単なる感情ではなく、行動を伴う自己犠牲的な愛です。ですから、私たちもキリストが示してくださったように、兄弟のために命を捨てる、すなわち自己の権利やプライドを捨てて尽くす、という行為を通して、神が私たちを愛してくださった真理を兄弟への行動として表すことができます。このようにして、私たちは自分から愛し合う関係をつくるのです。この愛の実践こそ、私たちがキリストの弟子であることの証なのです。
“あなたを訴える人とは一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあ なたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることにな ります。” 25
“平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。” 5:9
“キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私た ちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。” 1ヨハネ 3:16
Author: Paulsletter
