7月20日メッセージ
小平牧生牧師
「キリスト者としての生き方」
ペテロの手紙第一 4章12~19節
ペテロの手紙を読んでいると、「苦しみ」や「試練」について繰り返し語られていることに気づきます。それは、この手紙の受け取り手であった当時の教会が、信仰ゆえの迫害や不当な扱いといった厳しい状況に置かれていたからです。私たちは時に、「神さまを信じれば苦しみがなくなる」と無意識のうちに期待してしまうことがあります。しかし、ペテロはむしろ、キリスト者としての苦しみを「祝福」として受け止めるように勧めています。キリストを信じるということは、苦しみが完全になくなることではなく、その苦しみに新たな意味と目的が与えられるということなのです。ペテロは、「キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい」と語り、それがキリストと共に栄光にあずかる道であると教えています。つまり、苦しみは信仰の成熟へと導く過程であり、神のご計画の中にあるものです。さらに神は、そうした苦しみのただ中にある私たちの重荷を担い、支えてくださると約束しておられます。そして、試練に耐えるための力と慰めをも与えてくださいます。この世に生きる限り、私たちはさまざまな苦しみに直面します。しかし、キリストにある者は、その中にあっても希望を持つことができます。なぜなら、神は真実な方であり、あらゆる苦しみを通して私たちを強め、信仰を堅く確立させ、揺るがない信仰へと導いてくださるからです。今朝は、この聖書箇所から、いつものようにいくつかのポイントに分けて、お話ししたいと思います。
① 私たちは苦しみがあり、そして喜びが約束されている
ペテロは、4章12節と13節において、私たちが試練に遭うとき、「なぜこんな思いがけない苦難が自分に起こるのか」と驚いてはならないと語っています。ある人にとっては、自分を犠牲にしてイエス・キリストに従い、忠実に仕えているにもかかわらず試練が訪れることに、戸惑いを覚えるかもしれません。また、別の人にとっては、苦しみからの解放を願ってイエス・キリストを信じているのに、それでもなお苦しみが続くことに、疑問を抱くことがあるでしょう。しかしペテロは、そのように思い悩むのではなく、むしろキリストの苦難にあずかることを喜びなさいと勧めています。なぜなら、それこそがキリストと共に栄光にあずかる者とされる道だからです。
私たちは、ペテロのこの言葉をどのように受け止めればよいのでしょうか。苦難や試練の中にあっても、前に向かって進もうとする人に共通しているのは、「その苦しみに意味がある」と信じることができる、という点です。たとえその意味をすぐに理解できなくても、「意味があるに違いない」と信じることができるかどうかが、一つの鍵となるのです。実際、私たちは喜ばしい出来事が起こったときに、「なぜこのような良いことが起こったのか」と深く考えることは少ないのではないでしょうか。なぜなら、喜びの中ではあえて理由を求める必要がないからです。しかし、考えなければ、その喜びも一時的なもので終わってしまいます。一方で、苦しみは私たちに考えることを促します。人生について、生き方について、あるいは自分自身について深く向き合わせるのです。
ペテロは、この箇所で「あなたがたの間で燃えさかる試練」という表現を用いています。文脈的には、イエス・キリストを信じる者たちが、その信仰ゆえに受ける外的な迫害や困難を指していると訳されています。しかし、「あなたがたの間で」という言葉のニュアンスから考えると、これは単なる外的な迫害や困難だけでなく、教会や信仰共同体の内部で生じる葛藤や困難、さらには、個々の信者が経験する信仰の揺らぎや葛藤といった、精神的・霊的な試練も含まれていると解釈することができるでしょう。ですから私たちは、そうした試練を通して、自らの考えや思いを深く巡らし、祈ることによって、人格的にも霊的にも成長していくことができるのです。実際、私自身の人生を振り返ってみても、本当の意味で「祈り」を学ぶことができたのは、まさに苦難や試練の中を通ったときでした。そのときには、学んでいるという意識や余裕はなく、二進も三進もいかない状況の中で、呻くような、言葉にならない祈りをささげていたかもしれません。それは、神に「委ねる」というよりも、もはや祈るしかないという切迫した状況の中での祈りでした。そして、それは喜びの中では決して経験できない、深く神に近づく祈りだったのです。
“愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけない ことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあ ずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためで す。” 12-13
パウロは、ローマ人への手紙5章3節〜5節で、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と語っています。この箇所で大切なのは、「私たちは知っている」という言葉です。私たちがそれを「知っている」からこそ、苦難さえも喜ぶことができるのです。ここで言う「知っている」とは、単なる頭での理解ではなく、実際に経験を通して得られた確信を指しています。どれほど理屈で理解しても、実際に苦難を経験しなければ、その苦難を「喜ぶ」ことはできません。パウロは、苦難の先に希望があると語っています。しかしそれは、苦難がないから希望があるのではなく、むしろ苦難から始まって希望へと至る、神の導きのプロセスなのです。苦難を経験したからこそ、希望を見出すことができる、それがパウロの語る真理です。
このプロセスにおいて、特に重要なのが最初の段階、「苦難が忍耐を生み出す」という部分です。私たちはしばしば、苦難に直面したときに、それを「我慢」してやり過ごそうとしてしまいがちです。しかし、「我慢」と「忍耐」は似ているようで、意味するところが根本的に異なります。「我慢」とは、どうすることもできずに状況を受け入れ、あきらめて耐えることです。それに対して、「忍耐」とは、あきらめではなく、希望に向かって前進する姿勢なのです。ここでの違いを生むのは、私たちが神の御言葉を信じているかどうか、という点にあります。御言葉に信頼するならば、私たちは「我慢」ではなく「忍耐」を選び、あきらめではなく希望に目を向けることができます。聖書を読むと、「苦難」と「希望」が結びついて語られる場面が多くあります。しかし人間的な経験においては、「苦難」はしばしば「あきらめ」へとつながってしまうのです。それでは、前に進むことはできません。御言葉に基づかなければ、苦難をただ「我慢」で終わらせ、ついにはあきらめに至ってしまいます。しかし、パウロが語るように、私たちには確かに苦難がありますが、その苦難の向こうには、神によって備えられた希望があるのです。
“それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品 性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望 に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に 注がれているからです。” ローマ5:3-5
② キリスト者としての苦しみがある
ここでペテロは、苦難について、私たちとイエス・キリストとの関係において語っています。私たちは、「キリストの苦難にあずかればあずかるほど」(13節)、「キリストの名のためにののしられるなら」(14節)喜ぶべきであり、「キリスト者として苦しみを受けるのなら、かえって神をあがめなさい」(16節)と記されています。苦難にはさまざまな種類がありますが、15節では、信仰のゆえではなく、自らの罪や不適切な行動の結果として苦しむことについて言及されています。ペテロは、そうした苦しみは神に喜ばれるものではなく、そのような苦しみを受けるようなことがあってはならないと語っているのです。つまり、私たちはキリスト者として苦難を経験することがありますが、その苦難がキリストの栄光に帰するものであるならば、喜びをもって受け止め、歩んでいくべきなのです。イエス・キリストを信じ、従っていくということは、必ずしも苦難がなくなることを意味しません。むしろ、当時の状況にも見られるように、イエス・キリストを信じることによって迫害に遭うこともあるのです。それでも、キリスト者たちはその苦難の中にあって、なおその先にある希望に目を向け、前に進んでいったのです。ですから、16節にあるように、「キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはなく、むしろそのことのゆえに神をあがめなさい」と、ペテロは私たちに教えているのです。
キリストにある苦しみがあるということは、私たちがイエス・キリストにある者とされたことの証です。それは、私たちがイエス・キリストの弟子とされたことを実感するということでもあります。イエス・キリストと人々との関係には、主に二つの種類がありました。一つは「群衆」としての関係です。群衆はイエスを追いかけ、よい話を聞き、奇跡を見て感動しましたが、やがて飽きてしまい、イエスに従い続けることはありませんでした。ましてや、イエスのために苦難を受けることなど決してしなかったのです。もう一つは、「弟子」としての関係です。弟子たちは、イエスの「自分を捨てて私について来なさい」という召しに応えて、従いました。だからこそ彼らは、群衆では経験しないような失敗や、自分の弱さと向き合う体験、そして苦難を経験することになったのです。しかし、彼らはそれを、イエスの弟子とされた者の特権であると受け止め、従い続けました。私たちが望んでいるイエス・キリストとの関係は、群衆としてのものでしょうか、それとも弟子としてのものでしょうか。私たちもまた、イエス・キリストの弟子として招かれ、神の子とされ、その特権を与えられているのです。ですから、苦難とともに喜びをも担う者とされていると、パウロもペテロも繰り返し語っているのです。私たちは、そのことをしっかりと自覚する必要があります。もちろん、イエス・キリストは、私たちに無理やり服従を求めているわけではありません。それは、キリストの栄光が現れるときにともに喜ぶためであり、聖霊によって神の愛が私たちの内に注がれているからこそ、従うことができるのです。
“もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の 御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。…しかし、キリスト者として苦しみを受 けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。”14,16
かつて、教団の存続に関わる重大な出来事に直面し、私はその対応において重要な務めを担うことになりました。私は誠実に、誠心誠意その務めに向き合っていたのですが、問題への対処の過程で、理由は分かりませんが、まさに悪意としか思えない扱いを、教団の先輩牧師から受けることがありました。何かの誤解や行き違いであったと信じたいのですが、私の努力や成果は正当に評価されることなく、完全に否定され、その結果、私はその立場を解任されることになったのです。そのとき私は、深い悲しみと虚しさ、そしてやりきれない思いに包まれました。そんな中で与えられたのが、マタイによる福音書5章11節・12節の御言葉でした。これは、イエス・キリストが「山上の説教」で弟子たちと群衆に語られた「幸い」についての教えです。まさに私はそのとき、事実ではないことで非難され、不当な扱いを受け、悪口を浴びせられていたのです。しかし、イエス・キリストはこう語られました。
「人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。」
この御言葉に出会ったとき、私は問われているように感じました。「あなたの行っていた務めは、本当にイエス・キリストのためであったのか、それとも自分のためだったのか」と。そして、もしそれがキリストのためになされたことであるならば、「大いに喜びなさい」と語る御言葉によって、私は心を守られ、支えられたのです。私たちは、キリスト者として生きる中で、「なぜ自分がこのような耐え難い経験をしなければならないのか」と感じることがあるかもしれません。しかし、キリストにある者として、私たちが受けなければならない苦難があることを、知らなければならないのです。そして、私たちはその苦難をただ嘆くのではなく、そこに神の御心があり、やがてキリストの栄光が現されることに目を向けて生きるようにと、召されているのです。
“わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、 あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいの ですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。”マタイ5:11-
③ 苦しみの中で神の真実を経験する
19節には、「真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい」と記されています。ここで言う「創造者」とは、神ご自身のことです。神はすべての被造物を創造され、それをご覧になって「良し」とされました。つまり、私たちの存在理由は神にあるのです。神は私たちをお造りになり、最終的には私たちを完成へと導こうとしておられます。神は、私たちが母の胎にいる時からすでに私たちを選び、完成された姿を思い描いておられます。そして、今私たちが置かれている状況をすべてご存じのうえで、完成に向かって導いておられるのです。神は、私たちが経験する苦しみや困難をご存じないお方ではありません。すべてを知っておられ、その中で私たちが倒れることがあったとしても、決して見捨てることなく、私たちを強め、支え、導いてくださるのです。私たちが自分自身を神にゆだねるとき、神がいかに真実なお方であるかを体験的に知ることができるのです。もし私たちの人生に「祝福の秘訣」があるとすれば、それは、苦しみや困難の数を減らすことではなく、自分をゆだねることのできる神の真実を経験することにあります。苦しみや困難を無くそうとする時、そこには私たちの焦りや限界がつきまといます。しかし、そのような中にあってこそ、私たちは真実なる神をより深く経験する機会を得ていくのです。
パウロがローマ人への手紙5章で語っているように、神の愛が私たちの心に注がれているがゆえに、希望は決して失望に終わることがありません。また、ダビデが告白しているように、「神はわれらの避け所、また力。苦難のとき、必ずそこにある助け」なのです。ダビデもまた、人生の中で多くの苦難や脅威に直面したからこそ、このような信仰の言葉を口にすることができたのです。私たちも、苦難に遭遇したときにこそ、神が真実な助け手であり、力強い支えであることを実際に経験するのです。
最後に、大学時代に社会学の授業で教わった内容を紹介して締めくくりたいと思います。
アメリカの社会学者・神学者であり、ボストン大学名誉教授でもあるピーター・L・バーガー(Peter L. Berger)の著書『天使の噂:現代社会と超常現象の再発見』(A Rumor of Angels: Modern Society and the Rediscovery of the Supernatural, 1969年)には、「お母さんは神を信じなければならないの?」(”Mommy, must I believe in God?”)という章があります。この章においてバーガーは、この問いが単なる子どもの素朴な疑問にとどまらず、近代社会に生きるすべての人々に向けられた根本的な問いであると述べています。すなわち、「神を信じるべきかどうか」という問題は、今日の私たちにとってもなお切実なテーマであり、神の存在をどう語り、どう信じるかという課題に直面しているのです。この章の中でバーガーは、次のような場面を紹介しています。―お母さんが子どもたちを寝かしつけた後、夜中に子どもたちが不安から泣き出すことがあります。そのとき、お母さんは「私がそばにいるから大丈夫よ」と言って安心させようとします。しかし、よく考えてみてください。「私がそばにいるから大丈夫よ」と言うお母さん自身が、本当に子どもを安心させられるほど確かな存在でしょうか? お母さん自身もまた、「私がそばにいるから大丈夫」と言ってくださる存在―すなわち、神の存在を信じる必要があるのではないでしょうか。だからこそ、あなたは子どもたちにこう言わなければならないのです。「あなたの人生には、いつも神が共におられるから大丈夫よ」と。
私たちの信仰は、単なる気休めや、前向きな気持ちだけではありません。「大丈夫よ」という言葉も、ただの励ましで終わってはならないのです。「そばにいるから大丈夫」と言ったとしても、私たち自身が弱く不完全な存在であることを自覚しなければなりません。だからこそ本当に大切なのは、「神が共にいてくださるから大丈夫」と伝えることなのです。そのために、私たちはまず神の真実を経験し、それを深く知る必要があります。そして、その神の真実を知っているからこそ、確信を持って「神が共におられる」と言うことができるのです。その神のもとでこそ、私たちが経験する苦しみや困難は、やがて希望へと変えられていくのです。
“ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自 分のたましいをゆだねなさい。4:19
“あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あな たがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と ともに脱出の道も備えていてくださいます。”1コリント10:13
Author: Paulsletter
