7月6日メッセージ
小平牧生牧師
「残された時をどのように」
ペテロの手紙第一 4章1~6節
今年に入ってから、『ペテロの手紙第一』を順を追って学んできました。途中、受難週から復活祭にかけての期間には、「キリストの十字架と復活」に焦点を当てたメッセージが語られました。引き続き、『ペテロの手紙第一』を通してペテロの教えを深く掘り下げていきます。
聖書の同じ箇所を二度、三度と繰り返し読むうちに、心に留まる言葉や気になる表現に出会うことがあります。今朝の聖書箇所で言えば、3節の最後にある「それは過ぎ去った時で、もう十分です」という言葉が、特に心に残りました。その前の2節には、「地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになる」とあります。つまり、イエス・キリストを知らなかった時代の古い生き方、すなわち、人間の欲望に支配された生き方は、もう十分に過ごしてきたのだから、これからは新しい生き方へと進むべきだ、ということが強調されているのです。この箇所でペテロは、自己中心的な欲望に従う生き方の一例として「偶像礼拝」を挙げています。しかしここで言う「偶像礼拝」とは、単に神の像を拝むという行為にとどまりません。むしろ、真の神よりも信頼したり、愛したり、恐れたりしてしまうすべてのものが「偶像」となり得るのです。
先日、友人である牧師と食事を共にした際、「自分にとって偶像になり得るものは何か」という話題になりました。友人は、「牧師にとっては、教会そのものが偶像になる可能性がある」と語っていました。神に生涯を捧げようという決意から牧師になったのは、もちろん神への愛と献身がその動機です。しかし、牧会の働きを続けるうちに、いつしかその働き自体が目的となり、神ご自身よりも重んじられてしまう危険がある、というのです。もちろん牧会という働き自体は決して悪いものではなく、むしろ尊く、意義深いものです。だからこそ、人はそのために命を懸けて生きてしまうことがあり、それが知らず知らずのうちに「偶像」となり得るのです。十戒には、「わたしのほかに、あなたにはほかの神があってはならない」という戒めがあります。創造主なる唯一の神がおられるにもかかわらず、それ以上に信頼を寄せ、愛し、人生を委ねてしまう対象が生まれてくることは、私たちすべてにとって現実的な危険なのです。しかしペテロは、そのようなものに、これ以上「時間」を費やす必要はないと強く語っています。であるならば、私たちは自分の欲望のためではなく、地上に残された時をいかに生きるべきか、それこそが、今朝のテーマなのです。
① イエス・キリストを模範として生きる
ペテロは、4章1節・2節で、イエス・キリストは「肉において苦しみを受けられた」お方であると記しています。つまり、受肉されたキリストが、十字架において現実の肉体的な苦しみを経験されたことを示しています。そしてペテロは、私たちも同じ覚悟をもって生きるべきだと語っているのです。このことは、以前に学んだ2章21節にも記されているとおり、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」のです。
私たちは時として、イエス・キリストが十字架の苦しみを経験されたとしても、「それは特別な存在だから耐えられたのだ」「神の子なのだから、私たちとは違う」と考えてしまいがちです。しかし、そのように考えている限り、キリストの十字架の苦しみは、私たちの現実からかけ離れた、無縁なものとなってしまいます。イエス・キリストの苦しみとは、まさに受肉した肉体において、私たちが十字架につけられたなら経験するであろう、同じ痛みや苦しみを身をもって味わわれたものです。そればかりか、神の子でありながら、神から見捨てられるという霊的な苦しみさえも経験されました。ペテロは、キリストの弟子として十字架の死を目の当たりにし、復活の主に出会った者として、その苦しみの現実を深く理解していました。対して私たちは、どこかでキリストの苦しみを軽く見てしまい、それを単なる精神的なもの、象徴的なものとして捉えてしまうことがあります。しかし、ペテロが「キリストは肉において苦しみを受けられた」とはっきり記しているように、イエス・キリストは罪を犯されることはなかったけれども、私たちと同じ生身の人間として、現実の苦しみを経験されたのです。
では、なぜイエス・キリストは、肉体において苦しみを受けなければならなかったのでしょうか。言い換えれば、イエス・キリストの十字架は、私たちにどのような救いをもたらしたのでしょうか。それは、私たちの罪を赦し、清め、神のものとするためです。これを「贖い」と言いますが、もともと罪の奴隷であった私たちを、神のものとして買い戻すために、神の子イエス・キリストの命が代価として支払われたのです。そしてその目的は、神が私たちを創造されたときの「神のかたち」へと回復することにあるのです。ですから、ペテロがここで語っているように、苦しみを受けられたイエス・キリストを模範とする者は、「神のかたち」に回復されていく過程の中で、キリストの似姿として造り上げられていくのです。私たちがキリスト者として経験する苦しみは、罪の報いとして与えられるものではありません。むしろ、苦しみの中にあっても、罪との関わりを断ち、神に聖別された者として歩むように導かれているのです。それは、私たちがイエス・キリストを知り、もはや人間の欲望によってではなく、神のみこころに従って生きる者とされているからです。
“キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武 装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。それは、あな たがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようにな るためです。” 1-2
“キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を 残された。” 2:21
② もはや人間の欲望に支配されるのではない
私たちがイエス・キリストを信じるということは、さまざまな言葉で表現することができますが、何よりも大切なのは、イエス・キリストと出会ったときに、自分の存在を自分以上に大切にしてくださる方がいると知った、という体験です。神を知らなかったとき、私たちは自分を大切にしてくれる存在を見出せず、むしろ自分を軽んじたり、馬鹿にしたり、誰からも評価されないと感じたりしていたかもしれません。時には、自分自身ですら自分を評価できず、自己否定の中でもがいていたのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストを知ったとき、私たちは、自分の存在をかけがえのない価値あるものとして見てくださる方、すなわち創造主であり贖い主であるお方がいることを知ったのです。キリストは、私たちのために十字架の苦しみを負ってくださいました。私たちはこれまで、漠然と「イエス・キリストは人類のために十字架にかかられた」と理解していたかもしれません。しかし実際には、私たち一人ひとりのために、十字架の苦しみを受けてくださったのです。このことを知ったとき、私たちは初めて自分の人生の価値を見いだすことができるのです。そして、自分の人生の尊さに気づいたとき、生き方が変わり、日々の過ごし方にも変化が生まれます。
では、なぜ神を知らない異邦人のように、自己中心の欲望に支配された生活から離れることができないのでしょうか。それは、イエス・キリストがその肉体をもって苦しみを受けられたほどに私たちを愛しておられるということを、本当の意味で理解していないからです。だからこそ、ペテロは、キリストが苦しみを受けられたことを知った者は、古い生き方を捨て、新しい生き方へと歩み出すべきであると強く語っているのです。ここで挙げられている「好色、肉欲、酩酊、宴楽、酒宴、偶像礼拝」などは、自分の欲望に支配されて生きる生き方の一例にすぎません。欲望を満たそうとして生きるとき、満たされなければ、絶望感、劣等感、苛立ち、怒り、虚無感といったものが心に募り、本当の満足や平安、喜びは得られないのです。むしろ、私たちはそのような欲望に支配されるのではなく、神の御心に従って生きる者とされるべきなのです。
神の御心に従って生きる者とされることは、決して特別な人に限定されたことではありません。ペテロがかつて語ったように、奴隷であっても自由人であっても、妻であっても夫であっても、すべての人が神の召しに応えて生きるよう招かれているのです。重要なのは、自分がどのような立場や境遇にあるかではなく、イエス・キリストが模範として示されたその足跡に従って生きることです。たとえ、自分の人生が失敗ばかりで、何一つ誇れるものがないと感じていたとしても、地上に残された時を神の御心に従って生きることが、どれほど感謝に満ち、素晴らしいことであるかを、私たちは知ることができます。この感謝と希望は、イエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされたものです。キリストの犠牲によって私たちの罪は赦され、肉体の死の向こう側に、永遠の平安と希望が約束されているのです。
“あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒 ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。” 3
“兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機 会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。…肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな 行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねた み、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじ め言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。” ガラテヤ 5:13、19-
③ 霊において神によって生きる者として
6節の最後には、「彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生かされる」とあります。私たちは、自分の欲望のために生きたとしても、神の御心を求めて生きたとしても、やがて肉体の死を迎えることになります。それは誰もが例外なく経験する事実です。同じ死を迎えるのなら、「欲望のままに生きてもよいのではないか」と思うかもしれません。けれども、たとえ肉体の死を迎えたとしても、私たちは霊において永遠に生かされるのです。そのために、イエス・キリストは十字架の死と復活を経験されました。私たちは、この恵みを決して忘れてはなりません。私たちが「幸せな人生を生きる」とは、神が備えてくださった人生を歩むことであり、その価値は自分の努力で証明されるものでも、人と比べて測られるものでもありません。ペテロは、私たちを造ってくださった創造主なる神の御心に従って生きることこそが、真に価値ある人生であると、言葉を尽くして語っているのです。
『ペテロの手紙』は、ローマ帝国による迫害の中で、家族や友人が命の危険にさらされ、あるいは実際に命を奪われるような状況にあったキリスト者たちに宛てて書かれたものです。しかしこの手紙は、単に苦難を耐え忍ぶための慰めにとどまらず、そのような苦しみの中にあっても、「それ以上の神の祝福と人生の幸いがある」と力強く語っています。このメッセージは、当時のキリスト者たちに向けられたものであると同時に、今を生きる私たち一人ひとりにも与えられた、神からの大切な励ましでもあります。たとえ肉体的な苦しみに直面していたとしても、神の恵みは尽きることがなく、その中でこそ、神の力と慰めを深く体験することができるのです。
“このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉に おいては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。” 6
“キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わり になられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを 神に導くためでした。” 3:18
Author: Paulsletter
