「御霊によって導かれる教会をめざして」

6月30日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「御霊によって導かれる教会をめざして」
(2024 年創立記念礼拝)
ガラテヤ人への手紙5章13~26節

 ガラテヤ地方は、現在のトルコ中部に位置する古代の地名です。この地域がどの範囲を指すのかについては様々な説があり、主に「南ガラテヤ説」と「北ガラテヤ説」が有力です。どの説を採用するかによって、ガラテヤ人への手紙の執筆時期や場所が変わるため、特にエルサレム会議の前後であったかどうかが影響されます。いずれにしても、この手紙が書かれた背景には、ガラテヤの諸教会が抱えていた問題を対処する必要があったのです。

 パウロがガラテヤで伝道した後、ユダヤ主義者の偽教師がガラテヤの諸教会に入り込みました。彼らは、パウロがイエス・キリストから選ばれた12人の弟子(原弟子)ではないことを理由に、パウロの使徒としての権威を否定し、彼が宣べ伝えた「信仰のみによって義とされる(救われる)」という福音の教理を否定しました。さらに、モーセの律法を守ることが救いの必須条件であると教えていました。ガラテヤの諸教会では、ユダヤ主義者の曲解した教えに惑わされ、対立し、争っていました。この状況を危惧したパウロは、信者たちを純粋な信仰に呼び戻すために、この手紙を書いたのです。

 ガラテヤ人への手紙5章の冒頭において、パウロは、イエス・キリストの十字架の死と復活が、罪と律法の奴隷状態からの解放をもたらすものであると力説しています。罪と律法からの解放によって得られた自由とは、罪の支配下での放縦な生き方ではなく、愛をもって互いに仕えることだと説いています。なぜなら、すべての律法が「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」というこの一句に尽きるからでからです。
 
 パウロはこの手紙の中で、「御霊(聖霊)によって歩みなさい」と語っていますが、「聖霊によって歩む」とは具体的にどのようなことでしょうか。今朝は、「聖霊によって歩む」ことの意味と、それを私たちの教会にどのように適用していくかについて考えてみたいと思います。

① イエスキリストを信じて生きるとは、聖霊によって生きることです。

 キリスト者は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪と律法の奴隷状態から解放され、聖霊によって新しい命を与えられました。しかし、私たちは生まれながらにして持っている古い肉の性質(罪の性質)は依然として残っており、常に罪の誘惑にさらされています。そのような中で、パウロは、聖霊によって「歩みなさい」「導かれなさい」「生きなさい」と語っています。

 パウロの語る「聖霊に満たされる」とは、特別な賜物や力を与えられるだけではなく、私たちの人生のすべてにおいて、聖霊なる神が導きを与えているということです。「聖霊に満たされる」ことが、罪に打ち勝ち、神の栄光に満ちた生き方をするために不可欠であると教えています。これは、特別な啓示を求めたり、聖霊の存在を無視したりするような極端な姿勢ではなく、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって、これまで罪に支配されていた古い性質をキリストとともに十字架につけたことを意味します。

 イエス・キリストを信じる者は、神の聖霊が宿ることで、聖霊の導きを受けながら生きることができます。これが、キリスト者として歩むべき姿なのです。その結果、罪や律法の支配から解放され、肉の欲望にも打ち勝つことができるようになります。

“キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。”24-

“この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。” ローマ 5:5

② 自分の古い「肉」を喜ばせるのではなく、聖霊が喜ばれるように歩みます

 私たちは、イエス・キリストを信じることによって、古い肉の性質(罪の性質)に支配された生活に終止符を打ち、キリストの復活の命に生かされる者とされました。しかしながら、私たちの中には、自分の律法があり、この律法が自分の肉(罪の性質)と結びついています。私たちは、自分の内にある律法が満たされると喜び、否定されると怒りを覚えます。ですから、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、神の聖霊によって導かれて生きるなら、罪の欲望を満足させることはありません。なぜならば、罪の性質と神の聖霊は相反するものであり、共存することはできないからです。そのためには、まず自分の内に支配している律法があることを認めることが大切です。そして、聖霊の導きに従うときに、律法の支配から解放されるのです。

 パウロ自身も、かつては熱心なユダヤ教徒として律法の専門家であり、律法を遵守することで生きていましたが、その中で苦しんできたことを告白しています。そんなパウロもイエス・キリストと出逢い、回心して聖霊に導かれて生きるとき、律法の呪縛から解放されたのです。

 19節には、肉の行いについてのリストが示されています。しかし、繰り返しになりますが、私たちは神の聖霊に導かれて生きるときに、肉の行いを十字架につけることができました。ですから、自分の古い「肉」を喜ばせるのではなく、神の聖霊が喜ばれるように生きることができるのです。

“私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。”16

③ 聖霊によって導かれて生きるなら、「実」を結びます

 パウロは、聖霊によって導かれて新しく生きるときに、霊的な特別な「実」を結ぶことができると示しています。すなわち、私たちの内に与えられたキリストの復活の命が、私たちの外側にも見えるかたちで現れていくということです。「実」というのは、私たちを生かしている命が結実するものであって、どんなに肥えた土地や栄養分が満たされていても、命がなければ結実しないのです。その命はどこから来るのでしょうか。それは、神の聖霊が私たちの思いや行動を導き、私たちだけでなく、私たちのいる場所、家庭、地域、教会、そしてその交わりの中で聖霊の「実」を結ぶことができるのです。

 聖霊の「実」とは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などと列挙されていますが、この「実」とは肉の行いとは違って単数形で表現されています。聖霊の「実」が単数形で表現されているのは、これらの九つの特性が個別に存在するのではなく、聖霊の働きが実を結ぶときにはこれらの特性が全て統合された形で現れるということを意味しており、「実」は一つなのです。たとえば、「愛の実はあるが、自制の実はない」といったことではないのです。聖霊の「実」は、私たちの意志や努力に関係なく、私たちの内にある命によって結実してくださるのです。私たちがすべきことは、聖霊に導かれて生きることです。聖霊なる神を崇めながら、聖霊を意識して歩んでいくべきです。聖霊なる人格的な神に対して自覚的に崇めることが、私たちに聖霊の導きを求める生き方を育て、それを共に築いていく仲間が必要です。それが私たちキリスト者に与えられた交わりなのです。

“しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。” 22-

“うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。” 26

Author: Paulsletter