「弟子を招くイエス」

5月12日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「弟子を招くイエス」
(イエス・キリストの生涯④)
マタイによる福音書4章18~22節

 イエス・キリストが宣教を開始したとき、ナザレからカペナウムへと移り住み、そこをガリラヤ伝道の拠点としました。カペナウムはガリラヤ湖畔の町で、当時のガリラヤ湖は非常に重要な漁場であり、周辺の地域は古くから漁業が盛んでした。

 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いていたとき、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレは湖で網を打っていました。イエスは彼らに言われました。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、二人は網を捨ててイエスに従いました。さらに、イエスは、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが舟の中で網を繕っているのを見て、ふたりを呼びました。彼らもまた、イエスに従いました。

 イエスが宣教を開始する際に最初に取り組んだのは、弟子たちを選ぶことでした。
 「わたしについて来なさい。」ということは、弟子たちが、単にイエスの教えや言葉だけでなく、彼自身に従うことを意味します。すなわち、弟子たちがイエスの人格、性質、そして、神の子としてのイエス・キリストそのものに対して、完全な信頼と従順を示すことであり、イエスを見て学び、イエスの生き方に従おうとすることなのです。そして、彼らは自ら志願したわけではなく、条件に合致する多くの有能な者の中から選ばれたわけでもありませんでした。むしろ、イエスはごく少数の者たちに声をかけ、弟子として召されたのです。

 今朝は、イエスが弟子たちを選んだ原理について見ていきましょう。

① イエス・キリストの関心は、「人」にあった

 イエス・キリストは、生涯において、教典となる書物を著すことも、社会運動や組織づくりを通じて世界を変えることもありませんでした。弟子たちは、恩師がそのような偉業を成し遂げることを期待していたのかもしれません。しかし、イエスが残したのは、「人」(弟子たち)だけでした。

 イエス・キリストの地上における公生涯は、わずか三年間という短いものでした。その目的は、救い主として十字架にかけられ、死んで三日目に復活し、四十日後に天に昇ることでした。その後のために、イエスが残したのは何だったのでしょうか。それは、この短い期間における弟子たちの訓練、つまり「人づくり」だったのです。

 イエスは常に弟子たちのそばに寄り添い、共に生活しました。もちろん、貧しい人々に施しを与え、病人を癒し、罪人を赦しました。また、権力者に対して正義を訴え、迫害された人々を擁護することもありました。しかし、イエスの公生涯の大半は、自らのすべてをさらけ出し、弟子たちのために捧げられたのです。この姿こそが、福音の本質を体現していると言えるでしょう。

 イエス・キリストの十字架による救いは、「神のかたち」として創造された私たちのためであり、イエス・キリストの関心は、神が最高傑作として創造された「人」に向けられています。つまり、イエスにとって「人」は、神の働きや福音宣教のための道具として召されたのではなく、神が愛する対象として召されているのです。もし能力を基準に選ぶのであれば、もっと優秀で役に立つ人々はたくさんいるでしょう。しかし、イエスは私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として愛し、救ってくださったのです。

 このことを理解できれば、私たちにとっての神の存在は、自分の問題を解決してくれる存在や、利益を与えてくれる存在ではなく、私たちが全身全霊で愛すべき存在であると認識できるようになります。主の弟子として訓練され、成長していくのは、イエス・キリストへの愛を深め、その愛を周囲の人々に伝えるためなのです。

“イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。” 19

② 彼らはふつうの人、しかし教えられやすい心を持っていた

 イエス・キリストは、どのような人々に目を向け、声をかけたのでしょうか。
 ペテロとアンデレは湖で網を打つ漁師であり、ヤコブとヨハネも舟の中で網を繕う漁師でした。他の弟子たちも、目立った才能を持つ人物ではありませんでした。人間性においても、粗削りで、思慮に欠け、感情的で、尊敬されるような人物ではなかったと言えるでしょう。また、彼らは、レビ人のように血統を受け継ぐ祭司や、専門的な教育を受けた律法学者でもなく、ごく平凡な労働者でした。しかし、彼らは無学で無教養だったにもかかわらず、素直で教えられやすい心(学ぶ心)を持っていました。イエスは、そのようなどこにでもいる普通の人々を弟子に選んだのです。

※筆者は、ここで言う弟子たちの「教えられやすい心」とは、どういう「心」なのか考えを巡らせてみました。それは、①好奇心と探求心、②柔軟性と受容性、③献身と熱意、④信頼と尊敬 のある心なのでしょうか。皆さんも考えてみてください。

“イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。” 18

 使徒の働き4章13節では、初代教会の時代に起きた出来事で、ペテロとヨハネがサンヘドリン1の前に立たされて尋問される場面が描写されています。

 ペテロとヨハネは、イエス・キリストに出会い、その教えを実践するために、多くの奇跡を行い、復活の希望を宣べ伝えていました。その結果、多くの人々がイエスを信じ、救われました。ユダヤ教の最高法院であるサンヘドリンは、彼らの活動を神の冒涜と捉え、ペテロとヨハネを尋問にかけます。教会の指導者として、彼らはイエスの名によって行った奇跡や教えについて証言を求められます。サドカイ派の指導者たちは、かつて漁師であったペテロとヨハネを、専門的な知識や教養のない者として軽視していました。しかし、ペテロとヨハネは祭司やサドカイ人たちを相手に堂々と論駁し、サンヘドリンの人々を驚かせます。

“彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。” 使徒4:13

 当時、無学とみなされていた人々によって、イエス・キリストの福音が全世界に伝えられました。このような人々によって伝えられた福音は、特別な人々のためではなく、すべての人々のためのものです。ここに福音の本質があり、その意味において、弟子たちはイエスが召し選んだ最もふさわしい人々と言えるでしょう。確かに、弟子たちは人間としての弱さや理解力の欠如を抱えていたかもしれません。しかし、彼らは素直な心でイエスの教えに耳を傾け、学び続けました。だからこそ、彼らはイエスの教えを理解し、実践することができたのです。

 イエスの教えを学び、その教えに基づいて生きることは、私たちにとっても大切なことです。しかし、私たちに必要なのは、知識や力ではありません。それらはすべて、神が持っており、必要に応じて与えてくださいます。私たちに必要なのは、そのような神の知識や力を学び、受け入れることができる素直な心を持つことです。重要なのは、私たち自身が完璧であることではなく、無学で普通の人々である私たちも、イエス・キリストによって召され、そのような学ぶ心を持っていることを認めてくださっていることです。この恵みに感謝し、イエスの足跡を歩み続けるよう努めましょう。

③ 教えではなく、イエス・キリストについていく

 イエスは、私たちが他者と比べて優れていないとしても、私たちの内に秘めた可能性を見出し、教えられやすい、学ぶ心を認めて召してくださいました。その三つめのポイントです。

 ガリラヤ湖畔でイエスに呼びかけられた弟子たちは、なぜ網を捨て、船や家族を残して、すぐにイエスに従ったのでしょうか。その理由は、彼らがイエス・キリストと直接出会い、声をかけられたからです。彼らは人々の噂を聞きつけて集まったわけでも、何かを学ぼうとしていたわけでもありません。イエスご自身との出会いによって、彼らは従うことを決意したのです。彼らは、イエス・キリストの宗教的な教えに従ったのではなく、生きている主イエス・キリストご自身に従ったのです。イエスは彼らに「わたしについて来なさい」と呼びかけられました。弟子たちは、その時点でイエス・キリストについて全てを理解していたわけではなく、全てを知った上で従ったわけでもありません。しかし、彼らはイエスの召しに心を動かされ、それに応じたのです。

 実際、彼らの歩みは決して順風満帆なものではありませんでした。失望や躓き、苦しみ、弱さを経験することもあったでしょう。しかし、イエスは、弟子たちを愛し、かけがえのない存在であることを常に示していました。弟子たちの失敗を厳しく叱責するだけでなく、弟子たちの悩みや苦しみを親身に聞き、温かい言葉で励ましました。そして、弟子たちを信じ、成長するように導いたのです。このような経験を通して、弟子たちはイエス・キリストの人格や品性をより深く知り、成長していくことができたのです。繰り返しになりますが、弟子たちは、単にイエスの教えや言葉だけでなく、彼自身に従ったのです。

“イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。” 19

 イエス・キリストは、今日も私たちに呼びかけておられます。私たちは、単なる噂や奇跡の傍観者ではなく、イエス・キリストの十字架の苦しみを理解し、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」 というその呼びかけと召命に応えようとしているのです。私たち一人ひとりが、イエスの言葉を信じているとしても、実際に生きているイエス・キリストと出会い、「私に従って来なさい。」という声に応答し、従うかどうかが問われるのです。つまり、神と私の間の関係が、「私はあなたを愛しています。」「私はあなたに従います。」と言える関係を構築しているかどうかが問われるのです。

“それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。…」” マタイ16:24 

 マタイ11章28節には次のようはイエスの御言葉が記されています。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 イエスは、私たちがどこにいても「私のもとに来なさい」と招いてくださいます。 この招きには、「私」と「あなた」という特別な関係が込められています。イエスは、「休ませてあげます。」という言葉を通して、単なる安息や癒しを与えるのではなく、ご自身そのものが安息であることを示されました。神の愛と恵みの中で、私たちは神の平安を経験することができます。神は私たちを、群衆の中の誰かではなく、「あなた」と「私」という親密な弟子としての関係に招いてくださっているのです。


注記:

  1. サンヘドリン(Sanhedrin, Supreme Council, Supreme Court,Jewish High Court)
    ローマ統治時代、エルサレムに存在したユダヤ人の最高自治機関。最高評議会、最高法院などと訳されることがあります。この機関は71人の構成員で構成されており、主に祭司やパリサイ派の律法学者などが含まれていました。サンヘドリンは律法の解釈を通じてユダヤ人の宗教生活全体を規定し、さらに宗教共同体の徴税と裁判を担当していました。ユダヤ法に基づくサンヘドリンの裁判が死刑の判決を下せたかどうかは議論がありますが、ローマから派遣された属州総督の同意があればそれが可能でした。イエス・キリストもこのようにして死刑の判決を下されました。サンヘドリンは紀元70年のエルサレム陥落後解体され、その機能の一部は地方に残されました。 ↩︎

Author: Paulsletter