「試みを受けられるイエス」

5月5日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「試みを受けられるイエス」
(イエス・キリストの生涯③)
マタイによる福音書4章1~11節

 イエスはバプテスマを受け、すぐに水から上がると、天が開いて神の御霊が鳩のように降りてきました。すると、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天からの声が聞こえました。詩篇2篇7節には、メシアである神の子に関する預言の詩がありますが、「わたしの子」という表現は、神とメシアの特別な関係を示しており、「神の子」とは、ユダヤ人にとってメシアを指す称号でした。イエスの公的な生涯は、この神の喜びの声から始まったのです。

 今朝の聖書箇所は、主イエスが荒野で悪魔の試みに直面している場面です。悪魔は、バプテスマの際にイエスが聞かれた「これはわたしの愛する子」という天の声に挑戦するかのように、「あなたが神の子なら…だろう」という誘惑を繰り返しました。私たちも同様に、「クリスチャンであれば…だろう」といった惑わしの声を聞くことがあるかもしれません。それは、私たちがキリストに結びつく者とされたからこそ、悪魔の誘惑がキリスト者としてのアイデンティティを揺るがそうとするのです。

 「悪魔」(ヘブル語:サタン、ギリシア語:ディアボロス-敵対者、中傷する者、訴える者)は、私たちを罪に誘惑し、罪責感を植え付け、神の与える救いに疑問を投げかけ、神と私たちの関係を破壊しようとします。しかし、イエス・キリストも、私たちと同様に、人間としての弱さや試練を経験されました。それゆえ、キリストは神としてではなく、人としても私たちの弱さを理解し、共感することができるのです。

 悪魔のイエスに対する試みを通して、三つのことに焦点を当てて考えます。

① 神のことばよりも、必要なものが満たされることを…

 悪魔がイエスに、「神の子ならこれらの石をパンになるように命じなさい。」と言いました。イエスは、このとき、荒野で四十日間の断食の後だったので、悪魔は空腹のタイミングを見計らって、狡猾に近づいてきました。

 イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と申命記の御言葉を引用して答えました。もちろん、イエスは、五つのパンと二匹の魚で群衆の空腹を満たすという奇蹟のわざを行ったこともありましたし、食卓を囲んでの交わりの場面はしばしば登場しますので、決して食べることを否定してるわけではありません。

 群衆の空腹を満たした後にイエスが言われたとおり、このパンで空腹を満たしたとしてもまた空腹になるだろうし、水で喉を潤してもまた渇くことでしょう。すなわち、物質的な、あるいは肉体的な必要を満たしても、それは永遠のものではなく、限りあるものです。「私が永遠の命のパンである」と言われたとおり、大切なのは、霊的な飢えや欲求を満たすことであり、イエスが私たちの罪の赦しと永遠の救いをもたらす存在であり、永遠の命の源であるということです。しかし、悪魔は、神の御言葉よりも、物質的な、肉体的な欲求を優先させようと試みたのでした。

“すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」” 3-

“人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。” マタイ16:26

② 神への信頼よりも、目に見える結果が与えられることを…

 次の悪魔の試みは、イエスを聖なる神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」というものです。すなわち、見えない神を信頼できるのかということです。この場面では、悪魔は詩篇91篇11-12節の御言葉を巧みに用いて、イエスが「神の子」であるならば、神がイエスを守るであろうから、神殿の頂から身を投げてみるようにと唆しました。

 ここでの悪魔の試みは、イエスが神への絶対的な信頼と従順さを「神の子」の力で示すことができるかどうかでした。イエスはこの場面でも、申命記の「あなたの神である主を試みてはならない」という御言葉を引用して、悪魔の試みや挑発に乗らず、悪魔の誘惑にも屈しませんでした。

 悪魔は巧妙な言葉で、目に見えない神の存在を疑わせようとします。私たちは、目に見えるものが真実であるという価値観に囚われ、その価値観に基づいて生きています。神は目に見えるものも目に見えないものも創造されました。私たちは、神の被造物である全てのものを見て、神の存在を信じるように創造されています。

 イエス・キリストは、目に見えるかたちで受肉してこの地上に来臨し、やがて目に見えるかたちで再臨されると聖書には記されています。ただ、私たちには普段、神の御姿を目にすることはできません。しかし、目に見えるか見えないかに関わらず、神は実在しているのです。

 悪魔は、神が目に見えなければ存在しないだろうと、この世の誤った価値観を巧みに用いて、私たちを惑わそうとします。確かに、石をパンにすることも、危険に投じた身を守ることも「神の子」にとっては容易かもしれません。しかし、「神の子」の力を示すことが、神であることの実在を証明することではないのです。悪魔は、神への信頼よりも、目に見える結果がすべてであると試してくるのです。

“こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」” 6-

“愛は…すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。” 1コリント13:4-

③ 神への礼拝よりも、人々の称賛を得られることを…

 三つ目の悪魔の試みは、イエスを高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて、「もしひれ伏して私(悪魔)を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」というものでした。この悪魔の試みに対しても、申命記の「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。」という御言葉を用いて対抗するのです。ここでの誘惑は、自分を拝むならば、すべての国々とその栄光を与えると約束するものです。すなわち、自分を拝むことの引き換えに、世俗的な権力や富を提供するというものです。

 悪魔の試みは、神を畏れ礼拝するのか、世俗的な価値観である権力や富の選択を迫るというものであり、私たち人間にとっては最も切り込んだ内容の試みです。悪魔は、私たちの関心と弱みを知っているのです。権力や富そのものが悪いものではありません。ヨハネの黙示録でも、「屠られた子羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と記されています。しかし、善悪の木の実を食べたアダムとエバの記事に象徴されるように、本来、「神のかたち」として、神の基準で生きるように創造されていたにも関わらず、自分を神の立場に置き、神が持つべき権力と富も自分のものにしたいと考えるようになったのです。

 悪魔は、私たちが権力や富のためには、神でないものでも容易に拝むことを知っています。神は、創造されたすべての被造物を管理するように私たちに委ねられました。権力も富もある程度神から与えられているかもしれません。なぜなら、それらは神に栄光を帰すためのものであり、神を礼拝するためのものだからです。しかし、権力や富は私たちを神から引き離す諸刃の剣となり得るのです。そして、知っておくべきことは、この世の権力や富は永遠ではなく、無限でもなく、すべてが限りあるものであり、いずれは過ぎ去り、消えていくものなのです。地上で与えられたものにすぎず、これを誇っても何の価値もないのです。

“悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” 8-

 私たちがイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって、神から受け継ぐ資産は、地上の富や権力とは違って、朽ちることもなく、汚れることもなく、消え去ることのないものであり、神の御国での永遠の財産となるのです。私たちが神を礼拝する真の価値はここにあるのです。

“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。” 1ペテロ1:3-

 最後に、これらの三つの悪魔の試みを踏まえて、私たちはどのように悪魔の試みに打ち勝てばよいのかについて考察します。

 イエスの公生涯の始まりは、神の御霊が鳩のように降りてきたことであり、その御霊に導かれて荒野に上られました。しかし、気をつけなければならないのは、私たちも悪魔の試みを受けるために荒野に上る必要はないということです。神は、私たちを悪魔の試みを受けさせるために荒野に導くことはありません。私たちは弱く、罪ある者であり、決して悪魔の試みに打ち勝つことはできません。ですから、私たちにとって最善なのは悪魔に近づかないことです。悪魔の試みや誘惑に打ち勝つ秘訣は、悪魔に打ち勝つ力を得ることではなく、悪魔から距離を置くことです。悪魔は巧みな言葉を用いて狡猾に近づいてきます。その悪魔の手口に騙されないことが重要です。私自身も普段から注意していることは、まずは自分の弱さを認めることであり、自分の弱点が何であるかを知ることです。そして、弱い自分を隠さずに、共に祈り、励まし、支え合うことのできる交わりの中に自分を置くことが大切です(※筆者の補足:例えば、キリスト者のコミュニティや小さなエクレシア、アッパー・ルームなどで、自分の経験した試みや誘惑を分かち合い、祈り合うことが大切です。)。

 どんな状況におかれていても、私たちは試みや誘惑から守られるのです。それは、イエス・キリストも私たちが経験するすべての試みや誘惑を経験されたからです。イエス・キリストはすべてをご存じです。私たちは、悪魔の試みや誘惑に打ち勝つ力を求める必要はありません。その力は神にあります。自分の正しさが周りに明らかになるよう求める必要もありません。神がそれを明らかにしてくださるからです。また、権力や富を手に入れる必要もありません。なぜなら、永遠の資産が私たちに与えられ、天に蓄えられているからです。

Author: Paulsletter

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