「洗礼を受けられるイエス」

4月28日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「洗礼を受けられるイエス」
(イエス・キリストの生涯②)
マタイの福音書3章13~17節

 イエス・キリストの公的な生涯は、洗礼者ヨハネから受けたバプテスマ(洗礼)によって始まりました。この洗礼は、単なる儀式ではなく、イエスの使命の始まりを告げる重要な出来事であり、その後のイエスの歩みと深く結びついています。しかし、洗礼は通常、罪を認めて神に立ち返る人々が受けるものです。そこで、罪を知らないイエスがなぜ洗礼を受けたのか、その深い意味を考えてみましょう。

① 罪のないイエス・キリストが洗礼を受けられた

 バプテスマのヨハネの父、ザカリヤはアビヤの組の祭司であり、母のエリサベツも祭司アロンの家系に属していました。年老いた二人の間に生まれた子がバプテスマのヨハネであり、エリサベツとイエスの母マリアは親族関係にあったとされています。ユダヤ社会では血統を重んじ、ザカリヤの子としてヨハネには期待が寄せられていたことでしょう。

 しかし、ヨハネの使命は神殿で祭司として神に仕えるのではなく、キリストの到来を予告し、荒野で悔い改めの呼びかけの「声」を発することだったのです。ヨハネの「声」は神の御言葉を伝えるためのものであり、その声はやがて消え去っても「御言葉」は永遠に残ります。

“そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。…” 3:1-2

 人々はヨハネの声に導かれ、エルサレムやユダヤ全土、ヨルダン川周辺から彼のもとに集まり、ヨハネからバプテスマを受けました。そんなヨハネのもとにイエス・キリストは洗礼を受けるためにやって来られたのです。

“そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」” 13-14

 ヨハネの使命は、人々をキリストに導き、罪を悔い改めさせ、神に立ち返るよう呼びかけることでした。ヨハネは、洗礼を授けるためにヨルダン川で待つ人々の列にイエスが並んでいたことに驚きました。ヨハネは自分がメシアの到来を準備するために遣わされている存在であり、やがて自分よりも優れた者が来られて、その方のくつのひもを解く値打ちもないと自覚していたほどでした。実際、洗礼は罪を悔い改めるための証として授けるものであり、罪のない方が洗礼を受ける必要性はないとヨハネは考えたことでしょう。

 しかし、イエスは、ヨハネの言葉を聞いた後、ヨハネから洗礼を受けることの重要性を示します。イエスの言葉によれば、神の義を実現するために洗礼を受ける意味があると述べますが、詳細は次の2つのポイントで言及します。

② 人としてなし得る正しさを満たされた

“しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。”  15

 イエスは「すべての正しいことを成し遂げる」ために洗礼を受けるのだと説明しました。
 イエス自らが洗礼を受けることは、神の計画に基づき、神の義を成し遂げるためにふさわしい行為であるということです。すなわち、「洗礼」という人としてなし得る行為は、神の義の観点から見て適切に満たされた行為であり、罪のないイエスは、人間としての神に対する従順さや義を求める姿勢をその模範として示されたのです。

 私たちは自らの義ではなく、イエス・キリストのように、神の義を求めて生きていくべきなのです。神の義は、私たちの行いや努力によるものではなく、信仰によって与えられるものです。私たちがイエスを信じることで、神の義に満たされ、永遠のいのちを受けることができます。

 イエスは、人として来られただけでなく、私たち一人ひとりの罪を背負ってくださいました。つまり、イエスは、罪のない神が自らの立場を捨て、私たちと同じ罪を担われたのです。この奇跡的な愛と犠牲は、私たちに神の真実の義を示すものであり、私たちに対する救いと生き方の基盤となっています。ですから、イエス・キリストにとっての「洗礼」は完全な人となられることであり、完全な人とは、神の義を満たす姿なのです。

③ 神でありながら罪人の立場に立たれた

 イエス・キリストは神であり、罪のない方です。罪とは、悪い行為をすること以上に、神に背くことや不従順であり、神と人との関係が本来あるべき姿からずれてしまった状態を指します。イエスは神であるため、罪を犯したことがない方ですが、そのような方が私たちの罪の刑罰を受けるために遣わされたのです。

 パウロは、コリント人への第二の手紙5章21節において、次のように述べています。

“神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。” 2コリント5:21

 イエス・キリストの使命は、私たちの罪を負って、十字架上で死ぬことでした。そのために、神は罪のないイエス・キリストを罪とみなされたのです。罪ある者を罪とみなすことは理解できますが、罪のない者を罪とみなすことは通常納得できないことです。
 しかし、罪のないイエスが罪とみなされ、人として「洗礼」を受けたのは、どういうことでしょうか。それは、私たち罪ある者が神の前で、罪のない者として認められ、義とされるためなのです。

 私たちは、他者との相対的な関係や比較に基づいて、「あの人が悪い」とか、「私は悪くない」とか、「自分も悪いがあの人はもっと悪い」といった考え方で生活しています。このような相対的な関係では、人間や国家間の争いが常に起こりやすいものです。
 しかし、罪のない神が私たちのために罪とみなされ、その結果、私たちが罪から赦され義と認められたという事実を知ると、他者との比較や争いの意味が薄れてきます。したがって、私たちが神との関係を回復し、再構築することで、人間関係も再構築されるのです。神は私たちに対して「お前が悪い」と言われるような存在ではありません。確かに、罪や不義を憎む存在ではありますが、義なる神が罪を負って、私たちを義として受け入れてくださったのです。

 イエス・キリストの救いの恩恵を受けるためには、どのようにすればよいでしょうか。それは、イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じることです。その前提として、私たちが神の前で罪深い存在であることを認めることがあります。しかし、神が私たちの罪を強引に認めさせようとしているのではなく、私たちを愛し、大切にしておられることを示しています。

 私たちは、神に捉えられ、しっかりと守られているにもかかわらず、それだけでは不安なので、自分自身もがむしゃらにしがみつこうとし、そして、このしがみついている力を信仰と誤解しています。私たちがしがみつく力には限界があります。信仰とは、如何に神に委ねることができるかであり、自分のむだな力を抜いて、ただ、神の力を信じることなのです。

 キリストを受け入れ、その名を信じた人々は、神の子としての特権が与えられと聖書は約束しているのです。  

“イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」” 16-17

 Author: Paulsletter