「少年としてのイエス」

4月21日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「少年としてのイエス」
(イエス・キリストの生涯①)
聖書:ルカの福音書2章41~52節

 福音書は、イエス・キリストの生涯を詳細に記述しています。降誕から始まり、ヨハネから受けた洗礼を経て公生涯が開始し、最終的には彼の十字架での死と復活に至る出来事が描かれています。しかし、幼少期から公生涯に至るまでの約30年間についてはあまり触れられていません。聖書の目的は、私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れるために必要な情報を提供することです。ただし、ルカによる福音書では、イエスの少年時代についても触れられています。これは他の福音書には見られない特徴であり、そこから人生の基本的な原則を見出すことができます。

 今朝の聖書箇所では、12歳の少年イエスが両親と共にエルサレムの神殿を巡礼した出来事が記されています。エルサレム巡礼の帰り道、両親は、イエスが一行の中にいないことに気付き、集団の中を捜し回りましたが、見つけることができませんでした。そのため、エルサレムに引き返しました。すると、12歳のイエスは、神殿で教師たちと語り合い、聖書に関する知識の豊富さを示していました。

① アブラハムの子孫

 ユダヤの律法によれば、ユダヤの成人男子は年に三度エルサレムに巡礼することが求められていました(①過越の祭り、②七週の祭り、③仮庵の祭り)。しかし、ユダヤ人が離散して以降、ディアスポラのユダヤ人たちには年三回の巡礼を遵守することが物理的にも経済的にも困難となりました。そのため、特に過越しの祭りに参列することが習慣化されていたようです。

 13歳になると、バール・ミツバという成人式の儀式を経ることにより、神の前で成人した男子と見なされるようになり、神の律法に対する責任が生じます。イエスはこのときは12歳でしたが、まもなく成人を迎えるため、ヨセフとマリアに同行して祭りに参列したものと思われます。

“さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。” 42

 ヨセフとマリアがイエスを見つけるまでに3日間を費やした後、イエスをエルサレムの神殿で見つけました。神殿の中で、イエスは教師たちと一緒に座っており、 話を聞いたり、質問したりしていました。当時は、質問と応答により教え授けることがユダヤ式の教授法のようでした。人々は、イエスの聖書に関する知識の豊富さに驚いていました。

“そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。” 46-47

 ヨセフとマリアは、イエスをエルサレム巡礼に同行させていることもそうですが、律法の教えに忠実に従って生きていたようです。マリアは受胎告知の際に御使いから告げられたことを忠実に実行し、生まれた子を「イエス」と名付け、八日後に割礼を施し、神殿にて幼子を神に捧げています。これら一連の出来事を振り返ると、両親はイエスが生まれたときだけではなく、その後も、アブラハムの子孫として、律法に基づいた儀式や、神の子として相応しい教育を施していたものと推測されます。

 神がアブラハムに約束された祝福の契約は、イエス・キリストによって成就されるものであり、また、神がダビデに約束された神の国もイエス・キリストによってもたらされるのです。そして、そのアブラハムの子孫、ダビデの子孫であるイエス・キリストの系譜がマタイによる福音書の1章の冒頭に記されているのです。

“アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、…エッサイがダビデ王を生んだ。…ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。” マタイ1:1-

② 神の子としての意識 

 少年イエスは、自分がどのような存在であり、なぜこの地上に遣わされたのかを十分に自覚していました。この場面では、両親が神殿で教師たちの中央に座っているイエスの姿を3日後に発見するところが描写されています。するとイエスは両親に向かって、謝罪するどころか、父なる神の家である神殿にいることが当然であるかのように答えたのです。イエスが登場して最初に発した言葉は、この台詞だったのです。イエスは、父なる神との関係が神の子として特別なものであり、イエスが救い主として遣わされていることを示唆しています。このとき、イエスは自分に課された使命について意識されていたのです。

“すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」” 49

 ルカによる福音書では、真の家族について別の箇所でも言及されています(8章19節-21節・14章26節-27節)。イエスは、御言葉を聞き、神に従うことの重要性を教え、神との関係が優先されるべきであることを示唆しています。

“さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」” 8:19-

“「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。…” 14:26-

 注目すべき点は、ヨセフとマリアの態度です。両親はイエスを見て驚き(48節)、イエスの話されたことばの意味が理解できなかった(50節)と記されています。特筆すべきは、マリアがこれらのことを心に留めていたことです(51節)。同様のことが、2章19節でも記されています。羊飼いが救い主の誕生を告げ知らせに来た際、マリアは心に納め、思い巡らしたとあります。

 人生には、自分では理解できないことや意味の分からないことが起こります。そのとき、「あれはどういうことだったのか」「どういう意味だったのか」という答えが得られない場面もあります。そのような状況に直面した際に、どう受け止めるかが重要なポイントです。マリアが「心に留めた」という態度は、非常に積極的な受け止め方だと考えられます。自分の力では解決できない、答えの出ない大きな問題に直面したとき、以下の二つのことが言えます。

 一つは、「多義性」ということです。この概念は、目に見える事象には複数の原因や理由、または意味が同時に存在しているという考え方であり、一つだけの解釈ではないという意味です。しばしば私たちは、一つの事象には一つの原因や理由、あるいは意味しかない(一義性)と考えがちですが、実際には多くの場合、その事象には複数の要因が絡んでいることがあります。このような考え方を持つことは重要です。特に心の問題に関しては、一義的に捉えることができないことがあります。問題の原因や理由が複数ある場合もあり、そのように受け止める必要があります。私自身も、ある問題に直面した際に、答えを即座に求めるのではなく、じっくりと考え続けることの重要性を学びました。

 もう一つは、「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念です。ここでの「ネガティブ」とは、消極的という意味であり、「ケイパビリティ」とは能力を指します。専門的に説明すると、納得できる答えを即座に求めずに、不確実や不明瞭な状況においても対処できる能力を指します。簡単に言えば、容易に答えの出ない事態に耐える能力のことを指しています。人間の脳は理解を求める傾向があります。私たちは何かの原因や理由を迅速に求める傾向があります。これまで、人々は物事を理解するためにさまざまな努力をしてきました。法則を見つけ出そうとすることもその一環であり、物事をマニュアル化することも、理解を容易にするための手段です。しかし、そのようなアプローチでは、浅い理解にとどまることがあります。物事をより深く理解するためには、そのままの状態で観察し続けることが必要です。つまり、理解できないことを受け入れ、その状態に耐え抜くことが重要です。深い理解は、耐え抜く能力によってもたらされると言えます。

 特に、キリスト者は、正しい答えをすぐに求めてしまいます。その結果、人を裁き、排除してしまうことがあります。年齢を重ねると、経験や知識が蓄積されるので、さらにその傾向が強くなります。それこそ、物事を一義的に受け止め、すぐに白黒をつけようとするのです。わからないままにする能力が欠如しているのです。即座に答えを出すことが最善の方法ではなく、答えが出ない状況をそのまま受け入れ、心に留め、思い巡らすことが重要です。

 私たちには、直面する問題の意味や、答えがわからなくても、すべてのことを良き方向に導き、最善にしてくださる神が共におられるのであり、その神を信じていることを忘れてはならないのです。これこそが、キリスト者としての問題の受け止め方であり、生きる道なのです。

 その意味でも、マリアは、答えの出ない事態に耐える能力に長けていたと思われます。誰も経験したことのない答えのない問題を受け止め、自分には理解はできず、ただ驚くしかない状況であったとしても、すべてを心に納めて、思いを巡らしていく能力が私たちにも必要なのです。完全な愛であり、全能である神を信じていくということはそういうことなのです。納得できる答えが出ないために、我慢できずにすぐに状況を変えてほしいと祈るのではなく、私たちには理解できないことがあり、説明できないことがあることを受け入れ、神を信じ、その出来事を受け止めて、心に留めることができるのです。

③ 人としての成長

“イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。” 52

 この短い文の中で、イエスは身体的、精神的、霊的に成長したことを示唆しています。イエスは苦痛や悩みを免れませんでした。彼もまた、私たちと同じように、すべての苦痛や悩みを経験し、人としての道を歩み、成長しました。しかし、イエスが異なる点は、先に述べたように、自分が誰であるかという自己認識と生きる目的を明確に把握していたことです。つまり、自己のアイデンティティと人生の目的を明確に理解していたということです。

 私たちのアイデンティティと人生の目的も明確です。私たちは神に愛され、神の家族であり、神の栄光を示し、互いに愛し合うために生かされています。このアイデンティティと目的を確認しながら生きることが重要です。そして、このように生きるならば、身体的、精神的、霊的な状態を良好に保つことができます。

 神はすべての人を愛し、明確な目的を持っています。私たちは貴重な存在として造られています。私たちがどんなに失敗しようとも、罪の中にあろうとも、神の愛と目的は変わりません。この愛を経験し、お互いを支え合うために、教会が存在しています。その中で生かされているのです。世の中には理解できないことや意味のわからないこと、理不尽なことがたくさんありますが、その中で神への信仰の重要性を知ることができます。確かなことは、私たちは神に愛されており、お互いを愛する存在として生かされているということです。