「待ち望みつつ生きる」

4月14日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「待ち望みつつ生きる」
(私たちに与えられた救いと聖化⑪)
聖書:ローマ人への手紙 8章18~30節

 「私たちに与えられた救いと聖化」のテーマで学んできましたが、今回が最終回です。

 私たちは、創造主である神によって「神のかたち」として造られましたが、アダムとエバの神への不従順により原罪が生じました。この原罪により、すべての人間は罪の影響を受ける存在となり、神との本来の関係が損なわれてしまいました。そこで、神は人間を罪から救うために、御子イエス・キリストを贖罪の犠牲として遣わし、キリストの十字架での死と復活によって、私たちの罪は贖われ、神との関係が回復されたのです。

 今朝の聖書箇所は、ローマ人への手紙8章です。ローマ人への手紙は、使徒パウロによって書かれた13の書簡の一つであり、全16章から構成されています。

 1章から8章までは「信仰による義認と救いの教え」、9章から11章までは「イスラエルの救いと異邦人の救い」、12章から15章までは「生活における信仰の実践と適用」について記されています。特に8章は、「信仰による救い」についての核心部分と言える箇所でしょう。

 信仰によって義とされた私たちは、罪に定められた状態から解放され、さらに、信仰によって救われた私たちの内に聖霊が宿り、永遠のいのちに至る希望を持つことができると宣言されています。この聖霊の宿りは、私たちが神の子とされた証であり、どんな試練や困難の中にあったとしても、神と共に圧倒的な勝利を得ることができるという確信を与えてくれます。

 しかし、この8章には「うめき」という言葉がところどころに登場します。
 被造物のうめき(22節)、私たちのうめき(23節)、聖霊なる神のうめき(26節)です。

 新約聖書に登場する古代ギリシア語で「時」を表す言葉には、「クロノス」(χρόvος)と「カイロス」(καιρός)という二つの概念があります。「クロノス」は、時刻や量的な時間を指し、一定の進行を持つ時間を表します。一方、「カイロス」は、特別な意味を持つ大切な瞬間や決定的な時を指します。このように、「カイロス」は単なる時間の経過ではなく、神の定められた特別な時を生きていることを意味します。私たちは神の計画の中で、特別な瞬間に立っていると言えるのです。そして、そのような特別な時だからこそ、神を始めとして、私たちや被造物のすべてはうめいていると、パウロは述べているのです。

 今朝はこの「うめき」について考えてみましょう。 

① 私たちは、からだが完全に贖われることを

 私たちは、神の子とされました。このことは、神の恵みと栄光を受け継ぐ共同相続人として認められたことを意味します。私たちがその恵みと栄光を受け継いでいるならば、神の悲しみや苦しみも受け継ぐことを示しています。そのことは、「神の子」とされた証であり、その「うめき」の姿が、私たちが「神の子」であることを象徴しているのです。

 しかし、この「うめき」は、いつか正真正銘の「神の子」とされる時を待っている姿です。それは、私たちのからだが完全に贖われ、キリストと同じ「朽ちない栄光のからだ」に変えられる瞬間です。この瞬間こそが、私たちが本当の「神の子」とされる実体なのです。

 私たちの罪は、イエス・キリストの十字架の死と復活という代価が支払われ、すでに贖われていますが、やがて栄光のからだに変容され完成される時が来るのです。

 私たちは、その希望の時をうめきながら待ち望んでいるのです。

“それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。”23-24

“死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。”1コリント15:42-

“キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。” ピリピ3:21

② 被造物は、神の栄光の自由が与えられる時を

 すべての被造物も、神の救いの御業を切実な思いでうめきながら待ち望んでいます。神は、その計画に従って自然界や被造物を生き生きとしたものに創造されました。しかし、本来の目的から外れたことによって、満ち足りているはずのものが虚無に服しており、滅びの束縛の中に存在しています。

 しかし、やがてイエス・キリストが再臨するときに、私たちが「神の子」とされると同時に、被造物もその滅びの束縛から解放され、新しい秩序(新天新地)に回復するときが来るのです。被造物は、神の再創造の栄光の輝きと自由の中に生きることができるのであり、その時をうめきながら待ち望んでいるのです。

“被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。…被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。” 19-22

“なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。” コロサイ 1:19-20

③ 聖霊は、私たちのためにとりなしつつ

 神は私たちの「うめき」を知り、気づいておられます。そして、私たちの「うめき」をただ聞くだけではなく、とりなし、また自らも共にうめいておられます。神は感情を表されないお方ではなく、悲しみや喜びをお持ちです。神は、私たちが不平や不満を言うことを悲しんでおられます。聖霊なる神は私たちの内に宿り、私たちがどのような状態にあるかを、喜びや悲しみをもって感情を表されています。そして、時にはうめいておられます。

 なぜ、聖霊なる神はうめいてくださるのでしょうか。それは、私たちが弱いからです。私たちは、弱いので、やがて来るべきときをうめきながら耐え忍んで待ち望んでいますが、救われていながら、まだ不完全な肉体を持ち、自分の中に様々な欲望や罪が内在しているのでそれに負けてしまうことがあります。しかし、そのような時にも、聖霊なる神は私たちをうめきながら祈り、助けてくださいます。私たちがこの地上において生きることはまさに「うめき」なのですが、そのような中にあっても、神もわたしたちと共にうめいてくださっているのです。

 私たちは、何をどう祈ったらよいのかも分からない頼りない者ですが、聖霊なる神は私たちの弱さを理解し、弱い私たちに助けと励ましを与えてくださり、また私たちのために祈ってくださいます。聖霊は、やがて私たちが完全な「神の子」とされ、栄光のからだに変えられる時をうめきながら待ち望んでおられるのです。
私たちは、あらかじめ神の選びと召しの計画の中にあり、信仰により義と認められました。そして、さらなる栄光の時をうめきながら待ち望んでいるのです。なんと大きな神の愛の中で、私たちの救いの計画が導かれていることでしょうか。

“同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。”26

 このシリーズのまとめとして、「私たちに与えられた救い」に関して、3つのことを申し上げます。

(1) 目の前の事象だけで考えてはいけません。
   現状が困難であるというだけで判断してはいけないということです。
(2) 内面的なことだけとして考えてはいけません。
   神の国がイエス・キリストによって実現されることを待ち望み、現実を生きることです。
(3) あの世だけのことで考えるものではありません。
   救われた者として今を生きることが大切です。それが聖化という歩みです。

Author: Paulsletter