「復活のいのちに生かされて」

3月31日礼拝メッセージ 
小平牧生牧師
「復活のいのちに生かされて」
聖書:ヨハネの福音書20章19〜29節

 ヨハネ20章には、イエス・キリストの復活後の出来事が描写されています。

 最初に登場するのは、マグダラのマリヤ、シモン・ペテロ、そしてイエスが愛されたもう一人の弟子です。マリヤは墓の異変に気付き、ペテロたちに報告しに行きました。ペテロは墓の中にイエスの体に巻かれていた亜麻布だけが残されているのを見て、イエスの復活を信じました。しかし、マリヤはイエスと出会っても、白い衣をまとった姿であるにもかかわらず、それがイエスだと気付きませんでした。

 その日の夕方、復活したイエスは、弟子たちが集まっていた部屋に現れました。戸は閉ざされていましたが、イエスは中に入り、平安をもたらす言葉を述べました。弟子たちはイエスの示した手や脇腹を見て喜びました。一方、その場にいなかったトマスは、「私は、イエスの手の釘の跡を見、私の指を釘の跡に差し入れ、また私の手をその脇に差し込んでみなければ、決して信じない」と豪語しました。

 八日後に、イエスと出会ったトマスは、イエスの体に直接触れることで、復活を信じることができたのです。

 彼ら全員は、復活したイエスを「聞いて」「見て」「触れて」信じることができました。しかし、私たちはそのような状況に立ち会うことはできません。それでも、見ないで信じる信仰に導かれています。

① 恐れを超えて

 ヨハネは、復活の場面において、弟子たちが恐れていたことを繰り返し描写しています。弟子たちは、イエス・キリストがユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくださる救い主と期待し、信じていました。しかし、イエスは救い主どころか、ローマ兵に捕らえられ十字架刑に処せられて、亡骸は墓に埋葬され、石で封印されてしまいました。

 弟子たちのキリストへの期待と信仰は萎えてしまいました。彼らは、自分たちもイエスのように捕らえられるのではないか、この後どうなるのかという不安と心配を抱いていました。そして、それは復活した日の夕方も、さらに八日経った後も変わらなかったのです。そんな中、イエス・キリストは閉ざされた扉を超えて弟子たちの前に現れました。

 イエスは、その手と脇腹を彼らに示し、『平安があなたがたにあるように』と、不安と恐れに満ちた弟子たちに声をかけました。すると、弟子たちは主を見て喜びました。

“その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」” 19

“八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。” 26

 私たちは、生活の心配や病気、死への恐れ、将来の不確かさなどに苦しめられていますが、そんな中でイエスは何もなかったかのように私たちの中に入り、私たちに近づいてくださいます。

 自分の力や経験によって、恐れは解放されるものではありません。神から授けられる平安によって取り除かれるのです。私たちのために死んで復活されたイエス・キリストは、『平安があなたがたにあるように』と今も私たちに語りかけてくださっているのです。

② 十字架によって罪が赦されて

 イエス・キリストは、十字架の傷跡を弟子たちに見せられました。もし、復活した事実だけを知らせるだけならば、傷跡を弟子たちに示す必要はなかったでしょう。ただ、姿を現すだけでよかったのです。しかし、イエスは、釘に打たれた手と、槍で刺された脇腹を示されたのです。そして、イエスの手と脇腹を見た弟子たちは、恐れから解放され、喜びに満たされました。

 大切なのは、十字架の死と復活の本当の意味を理解することです。それは、イエス・キリストが、私たちが受けるべき罪に対する刑罰を受けるために、十字架上で肉体的な苦痛を味わい、死なれ、復活されたことであり、そのことによって、私たちの罪の問題を解決してくださったことです。イエス・キリストが私たちの救い主であると信じることなのです。

“こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」” 20-21

 イエス・キリストが十字架にかかる約700年前、預言者イザヤは、イエス・キリスト(メシヤ)の受難と十字架の死が私たちの罪のために必要であり、同時にその犠牲によって私たちが救いを受けることができることを預言しました。そして、イエス・キリストへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは罪からの解放と霊的な癒しを得ることができたのです。これが、イエスが弟子たちに十字架の傷跡を示された理由です。

“しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。” イザヤ 53:5

③ 神のいのちに生かされて

 イエスは弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を受けるように言われました。聖霊とは、ヨハネによる福音書14章にもありますとおり、天からの助け手であり、その助け手は、永遠にとどまる御霊、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる「助け主または弁護者」として紹介されています。イエスは、弟子たちの前からいなくなることが分かっておられたので、自分の代わりに聖霊を遣わすと示唆されているのです。聖霊は、神の第三位格であり、イエス・キリストの死と復活を信じ、罪を赦される者の内に宿るものです。実際に、弟子たちは聖霊に満たされたと使徒の働き2章に記述されています。

“こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。…」”22 

“これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。…”14:25-

 創世記2章にもありますように、人はちりで形造られ、神のいのち息のが吹き込まれることによって生きる者となったと記されています。神の霊が私たちを「神のかたち」として、生きる者としてくださり、人としての尊さと使命を授け、輝く存在として生きるようにしてくださったのです。そして、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、「神のかたち」として造られた私たちに、永遠のいのちを与え、再創造してくださることを示唆されています。

“神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。”創世記2:7

 イエスの復活に懐疑的であったトマスも、復活のイエスを信じ、主の証人となり、パルティアなど東方に渡って宣教活動を行い、最終的にはインドで殉教しました。トマスだけでなく、弟子たちは一人ひとりが命を懸けて復活のイエスの証人となりました。私たちもイエス・キリストの復活の恵みを受け、聖霊の力を得て、キリストの証人となるのです。

Author: Paulsletter