本日から受難週に入ります。受難週とは、イエス・キリストのエルサレム入城から復活の日の前日までの一週間を指します。新約聖書には、イエス・キリストがエルサレムに入城し、最後の晩餐を行い、裏切り、逮捕、裁判、そして最後の処刑(磔刑)などの出来事が記されており、特にヨハネによる福音書13章から17章にかけて、イエスが弟子たちと過ごされた『最後の晩餐』の出来事が描かれています。この箇所では、全21章の記事のうち5章にわたり記されていることから、その重要性と丁寧な描写がうかがえます。
“食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それからたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。” ヨハネ 13:4,5
最後の晩餐の場面では、イエスが弟子たちの足を洗う様子が描写されています。
当時の「パレスチナ」の道路は、全く舗装されておらず、埃っぽかったようです。乾季にはほこりまみれであり、雨季には泥だらけの道となりました。一般の人々はサンダルを履いており、足元が汚れるのは当然のことでした。そのため、家の戸口には水瓶が用意され、通常は召使いが水差しと手ぬぐいを持って控えており、客が入ってくると彼らの足を洗うのが習わしでした。おそらくこの場面では召使いがいなかったでしょう。
本来ならば、主であるイエス・キリストではなく、弟子のひとりがこの仕事をするべきでしたが、「この中で、いちばん偉いのはだれか」と競い合うほどにうぬぼれた弟子たちは誰一人として自分から率先して足を洗う者はいませんでした。
それでは、なぜイエスは弟子たちの足を率先して洗われたのでしょうか。イエス・キリストの洗足の行為は私たちに何を示し、何を教えているのでしょうか。一緒に考えてみましょう。
①彼らを最後まで愛された
ヨハネの福音書において、1章から12章までの記述では、「いのち」が50回、「光」が32回登場し、これらの言葉が強調されています。一方、13章から17章まででは、「愛」が31回登場し、物語の鍵を握る重要なテーマとなっています。
“さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。” ヨハネ 13:1
イエス・キリストは、十字架の死が迫る中で、最後の時をどのように過ごしたのでしょうか。「彼らを最後まで愛された」とありますが、この言葉にはその全てが集約されていると思います。もちろん、これまでもイエスは弟子たちを愛してこられましたが、最後まで徹底的に愛されたことが改めて感じられます。
この箇所はさまざまな翻訳が行われています。興味深いので紹介させていただきます。※ただし、スライドで紹介された内容とは若干異なります。
- その愛を残るところなく示された。(新改訳第3版)
- この上なく愛し抜かれた。(新共同訳)
- 彼らを最後まで愛し通された。(口語訳)
- 極まで之を愛し給へり。(大正改訳)
- 愛を余すところなく示されました。(JLB)
- He loved them unto the end.(KJV)
- He loved them to the end. (NIV)
- So he now loved them to the very end.(NIRV)
以上の通り、各翻訳者はイエス・キリストが最後に示した弟子たちへの愛の大きさをどのように表現しようとしているか、その熱意が感じられます。
イエス・キリストは、この世を去って父のみもとへ行くべき時が迫っていることを知りながら、弟子たちと過ごす大切な最後の瞬間に大きな愛を示しました。イエス・キリストがこれまで歩んできた道、そしてこれから向かう十字架の道も、最大限の愛の道であったと言えるでしょう。
②後で分かるようになる
主イエス・キリストが弟子たちの足を洗われた訳ですから、弟子たちは驚き戸惑ったことでしょう。ヨハネ福音書の13章6節では、ペテロの戸惑いの状況が描写されています。
“主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。”ヨハネ 13:6
“イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」”ヨハネ 13:7
ペテロは、イエスがペテロの足を洗おうとする行動が理解できません。そして、戸惑いを覚え、イエスが足を洗うことを強い口調で拒否します。
“ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」
イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」”ヨハネ 13:7,8
イエスは、ペテロに足を洗う行為の重要性を示そうとしていました。しかし、ペテロはなかなか理解できず、イエスの意図を理解しようとさえしませんでした。そこでイエスは、もしペテロが足を洗うことを拒否するなら、自分とペテロとの間に関係が成り立たないと諭しました。
イエスが弟子たちの足を洗う行為は、自らの役割と弟子たちとの関係性を象徴的に示すものでした。そして、その意味は、イエス・キリストの十字架の後で理解できるものだったのです。ここに、イエスが弟子たちの足を洗われた理由のポイントの二つ目があります。
食事のあと、夜のうちに、イエス・キリストは逮捕され、不当な裁判で審理され、あっという間に十字架刑に処せられます。イエスが弟子たちを「最後まで愛された」というその「最後」とは、十字架にかかって死なれることを意味します。
イエスが逮捕されると、弟子たちは恐れのあまりイエスを見捨て、逃げてしまいました。ペテロも最後の晩餐の夜、イエスへの忠誠を誓いますが、結局、3度もイエスを知らないと言ってしまいました。しかし、イエスへの裏切りによって罪深いと感じていたペテロは、復活後のイエスとの再会を経験します。この出会いによって、ペテロは自らの罪を受け入れ、イエスからの赦しを得ることができたのです。ペテロはイエスの十字架に躓いて、大きな失敗をしてしまいましたが、その十字架は自分の罪のためのものであったことを理解できたのです。そして、最後の晩餐のとき、イエスがペテロの汚れた足を洗ったのは、ペテロの罪を洗い清めることを示すためだったのだと気付いたのです。
イエスは、それほどまでにペテロを愛し、足を洗ってくださったのです。同様の経験は、他の弟子たちにもありました。十字架の前で本当の愛の意味を理解できたペテロと同様に、ヨハネもイエス・キリストの十字架の犠牲によって愛がわかったと手紙の中で述べています。
“キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。”第一ヨハネ3:16
“This is how we know what love is: Jesus Christ laid down his life for us.”1John3:16
イエスは、十字架の時が近づいていることを知っていましたが、それだけではありませんでした。弟子たちの中には、銀貨30枚でイエスを祭司長たちに売り渡したイスカリオテのユダや、誰が一番偉いのかと不遜で自惚れた態度をとっていた弟子たちが一目散に逃げてしまうことも、イエスは知っていました。イエスの裁判では、誰一人として法廷で証言する者はいませんでした。また、ゴルゴダの丘を一緒に歩く者や、イエスの亡骸を受け取り埋葬したのも、これらの弟子たちではありませんでした。しかし、すべてのことをご存じであったにもかかわらず、イエスは一人も欠けることなく、愛をもって弟子たちの足を洗われました。
③互いに足を洗い合いなさい
イエス・キリストが弟子たちの足を洗われた理由の一つ目は、最後まで愛し通されたという愛を示すためであり、二つ目は、十字架の死と復活を通じて、私たち一人ひとりの罪が赦されることを示すためでした。そして三つ目は、次の御言葉に示されています。
“主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。” ヨハネ 13:14,15
イエスが弟子たちの足を洗われたのは、謙遜さと人に仕える姿勢を示し、弟子たちに模範を示すためでした。また、イエスはそれを通じて、互いに仕え合うことの大切さを教えました。イエスは十字架を通して個々の罪を贖い、洗い清める贖い主としての役割を果たしました。この行為は、イエスとペテロだけでなく、互いの関係にも言及しています。つまり、互いに仕え合い、赦し合い、愛し合うことを示しているのです。
一枚の版画を御覧ください。
「炊き出しの列に並ぶキリスト」という木版画があります(作:フリッツ・アイヘンバーグ)。この作品は、炊き出しの列に並ぶキリストの姿を描いています。炊き出しは、困窮した人々に無償で食料などを提供するボランティア活動です。通常、イエスはお腹を空かせた人々に料理を提供する側にいると考えられがちですが、この作品ではイエスが列に並び、食べ物を受け取る側として描かれています。
この版画を見て、神が共におられるとはどういうことなのか考えさせられました。イエス・キリストがどのような立場にご自分を置かれたのか、イエスの姿は、この世に受肉して生まれた神の子の姿であり、私たちと同じ立場に立って、貧困や苦難を経験し、謙虚な救い主として弟子たちの足を洗われた姿なのです。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、跪いて謙遜の姿勢を取られました。彼は私たちと共に呻き、涙を流してくださる立場におられるのです。
“キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。” ピリピ 2:6-8
“Christus Jesus, being in very nature God,did not consider equality with God something to be used to his own advantage;rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant,being made in human likeness.And being found in appearance as a man,he humbled himself by becoming obedient to death—even death on a cross! ” Philippians2:6-8
弟子たちの足を取り、しもべの立場として、足を洗われたイエスキリストの姿です。
“わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。
互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。”ヨハネ 13:34
“A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another.”John 13:34
イエス・キリストが十字架の受難を目の前にして、念を押すように弟子たちに語られた「新しい戒め」です。あなたがたも、十字架の死と復活の意味が分かったのなら、“わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”
Author: Paulsletter