「終わりの始まり」

3月17日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「終わりの始まり」
(私たちに与えられた救いと聖化⑩)
聖書:ピリピ人への手紙3章20~21節

 「終わり」という言葉を聞くと、最後やおしまい、果て、終焉という意味合いで使用され、前向きな意味合いで使われないことが一般的です。特に、「世の終わり」と言うと、この世界の破滅を連想してしまいます。しかし、聖書における「終わり」は全く逆の意味を持ちます。

 ギリシャ語で「τέλος」(テロス)と言いますが、目的やゴール、完成など普遍的な結末を意味する希望に満ちた言葉です。聖書における「世の終わり」は、新しい世界の始まりを意味します。

 新約聖書の中心的なメッセージは、その終わりが近づいたということであり、私たちはその終末の時代を生きているというものです。パウロは、「終わりの時代に生きていることを覚えなさい。」と述べ、また、ペテロも「万物は終わりが近づいています。」と述べています。これらの言葉は、単なる時間の終わりを意味するのではありません。

 聖書によれば、この世界は神の創造によって始まり、やがて完成の時を迎えると教えられています。その終わりは単に時間的な終焉ではなく、世界が滅びることでもなく、神の定めた目的が達成される時、すなわち「終わり」(テロス)なのです。初代のキリスト者たちは、その時が既に始まっていると述べました。なぜなら、イエス・キリストが来られ、十字架での死と復活を経験したからです。イエス・キリスト自身も公生涯の最初に、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(“The time is fulfilled, and the kingdom of God is at hand;repent and believe in the gospel.”)。言い換えれば、終わりの時は「もう手元に」、「すぐそこに来ている。」と語られたのです。このように、神の国を宣べ伝え、十字架で贖いの死を遂げ、そして三日目に復活されたのです。

 パウロはコリント教会への手紙で、「キリストは、眠っている者の初穂として死者の中からよみがえりました。」と述べました。ここでの「初穂」とは、収穫を始める際に最初に刈り取られる穂の束を指します。初穂があるということは、その後に豊富な収穫のあることを意味します。要するに、パウロはキリストの復活を初穂として、その後に多くの者が復活することを詳しく説明しているのです。これは、キリストが再び来臨されるときに、私たちも復活する保証なのです。
 
 聖書によれば、「世の終わり」とは、現在の世界の在り方が終わることを意味します。すべてが消滅するわけではなく、新しい天と新しい地への始まりです。この新しい秩序は永遠に続くものであり、破滅的で恐ろしいものではありません。むしろ、一切の悪が裁かれ、神の愛と義によって完全に満たされる聖なる世界で、永遠に神と共に過ごすことを意味します。

 この「救い」の完全な実現は、イエス・キリストが再び来られる時に訪れるでしょう。再臨の時が到来するまで、「救い」は完全には成就しないのです。このような視点から、「世の終わり」は私たちにとって希望の時であり、神の計画が完了する瞬間なのです。

①キリストの再臨

 復活し、天に昇ったイエス・キリストが、「終末の時」に再び来られるということは、聖書が繰り返し語っているところです。この事実は、初代教会の時代から現在に至るまで確信して信仰告白されてきました。それは、神の救いの計画において次に行われるべきこととして記されています。

“しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。”20

“すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”1テサロニケ4:16-

 これらの御言葉は、キリスト者の信仰における重要なテーマです。多少の解釈や考え方の違いはありますが、①イエス・キリストご自身が救い主として再び私たちのところへ来臨され、②その時、私たちが生きているか死んでいるかに関わらず、再臨のイエス・キリストと出会い、③その後に私たちは永遠にイエス・キリストから離されることはないということです。これが私たちキリスト者に与えられた神の約束であり、救いの三原則なのです。

 そして、その後の世界は、神の御心が実現されるのです。それは、神の愛と義と聖さがこの世界のすべてに及ぶということです。すべての悪が滅ぼされ、神の命が満ちる世界が実現するということです。神の性質が完全に反映され、私たちはその世界で生かされることになります。ですから、繰り返しますが、イエス・キリストの再臨は私たちの唯一の希望なのです。

②からだの復活

“キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだ を、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。” 21

“しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。…しか し、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリス トに属している人たちです。それから終わりが来ます。” 1コリント15:20-

 先に述べた通り、イエス・キリストの復活は私たちにも復活の約束を保証してくださるものです。それは、イエス・キリストの復活と十字架での贖いの完成を意味し、その後に続く私たちのからだのよみがえりを約束するものです。私たちの卑しいからだは、イエス・キリストの力によって栄光の輝くからだと同じに変えてくださるということです。この表現は、私たちの卑しいからだとイエス・キリストの栄光に輝くからだとの対比を示していますが、それは朽ちない、滅びることのない、限りのない、死ぬことのないからだに変容されることを意味します。

 そして、復活に関して付け加えるならば、私たちだけではなく、動物をはじめすべての被造物も、罪によって滅びの束縛から解放される時を待っています。神が最初に創造された良いもの、良好な関係、正しい在り方が、再び回復されることを待っているのです。その意味で、この「終わり」の時は、現在の世界との連続性があるのです。私たちは永遠のいのちを与えられ、永遠の秩序に移されますが、それは全く別の存在になるということではありません。しかし、一方で、罪によって堕落してしまった者は新しくされなければなりません。それはこれまでとは異なる非連続の部分があるのです。連続性は神の計画された救いの業が完成することであり、非連続性は罪の問題の根絶を意味します。これは過去の世界との関連を断つ必要があることを意味します。だからすべてのものが絶滅して終わるのではないのです。そして、最高の姿に変容された私たちは、神が創造する最高の新しい復活の世界を信じて待ち望むのです。

③悪と死への審判

 神の「救い」の計画を総合的に考えると、この世界の悪を支配している悪魔は滅ぼされなければなりません。悪魔という言葉は、ヘブライ語の「サタン」に由来し、「敵対者」または「告発者」という意味を持ちます。

 悪魔の起源については、聖書には明確な情報が限られていますが、悪魔は天地創造の前から存在したと考えられます。悪魔は神に仕える天使として登場していますが、その中でも最も高貴な存在の一人でした。しかし、悪魔は高慢になり、神に反逆しようとしたため、天使としての地位を喪失したとされています。つまり、悪魔は人間が神の前で罪を犯す前から存在したのです。
※詳細については、まもなく始まる成人分級「神のご計画全体を知ろう」で学ぶ予定です。

 神の「救い」の完成は、罪の問題が解決されるだけでなく、罪の問題の根源である悪魔とすべての悪の力がキリストによって滅ぼされることによって実現されるのです。さらには、死の問題も解決されることになります。死の問題は、永遠の勝利者である神によって完全に打ち砕かれ、もはや存在しなくなるのです。ですから、神の「救い」の計画は、単に個人の救済や聖化にとどまらず、この世界の回復を含めたすべての悪への完全な勝利を意味するものであり、これらすべての問題が解決されない限り、完全な「救い」とは言えないのです。そして、その「救い」の計画は今も進められているのです。

“それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。”1コリン15:24-

“また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、 これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。”黙示録20:11-

 まもなく、悪と罪の支配する時代は終焉を迎えます。そして、その時は近づいています。私たちは、神の愛と義の支配する時代が来ることを確信しています。なぜなら、すでに初穂としてイエス・キリストが復活されたことを知っているからです。ですから、私たちは目を覚まして、神の計画が成就しようとしている時を認識し、霊的な武具を身に着けて、信仰の実践に励み、その時を待ち望むのです。私たちは、愛に満ちた神と共に生きることを約束されています。

 イースターの時期が近づいていますが、イースターにおいて何を確認し、何を祝うのでしょうか。それは、死んでも終わりのない永遠の命を与えられていることであり、神の愛と義と聖さの支配する復活の恵みに与かっていることではないでしょうか。

“あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。”ローマ13-11-12

Author: Paulsletter