「すべてにおよぶ救い」

3月10日礼拝メッセージ 
小平牧生牧師
「すべてにおよぶ救い」(私たちに与えられた救いと聖化⑨)
聖書:エペソ人への手紙2章11~22節

 イエス・キリストによる救いの真の意味について、このシリーズを通じてお伝えしています。この救いは、単に苦しみや悩みから救済するものではなく、病気が癒される、貧困や抑圧から解放される、あるいは死の不安や恐れを払拭するといったものでもありません。イエス・キリストの救いは、これらの問題の根源である「罪」からの救いを意味します。

 「罪」とは、神が本来創造した人間の姿から逸脱した状態であり、その結果、神と人との関係が歪み、また人と人との関係や被造世界全体にも歪みが生じ、さまざまな問題を引き起こしました。
 そのため、イエス・キリストはこの地上に遣わされ、私たちの罪を贖い、十字架においてその成し遂げられました。私たちは、イエス・キリストを救い主として信じることで、罪が赦され、義と認められ、新たな生を受け、神の子として認められるのです。

 私たちは新しく生まれ変わり、罪が赦され、神と和解し、神の子として新しい生命を授かりました。神の子であることは、誰にも奪われることのない特権です。そして、私たちは完成に向けて成長を続けていますが、まだ完全な状態には至っていません。最終的には、私たちは朽ちることのない栄光のからだに変えられるという約束があります。このことによって、主イエス・キリストの救いの計画が完全に実現されます。私たちは終末に向かって神の御心に従い、完成の時を待ち望んでいます。

 今朝は、イエス・キリストの救いが神と人との関係だけでなく、人間同士の関係や被造世界においても回復されることに焦点を当てて考えます。

①私たちの私たちのからだ、心、霊のすべての救い

 世界保健機関(WHO)憲章において、「健康」について、次のように定義されています。この定義は、人間の「健康」とは、これらの状態が完全に満たされており、人間の姿としてバランスのとれた状態を示しています。

「健康とは、完全な 肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。到達しうる最高基準の健康を享有することは、人種、宗教、政治的信念又は経済的若しくは社会的条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一つである」(定訳)

 イエス・キリストの救いの観点から考えると、人間は霊的な存在でありながらも、霊的な救いの重要性を強調するだけでなく、肉体的、精神的、社会的な救いの側面も含まれています。確かに霊的な救いの側面は重要ですが、それに焦点を当てるだけでなく、肉体的、精神的、そして社会的な立場から全人的な救いを求められていることを理解すべきです。聖書の教えは、霊魂の救済だけでなく、肉体や社会的側面も含まれているからです。人間は、単なる霊的存在ではなく、肉体と精神を兼ね備えたものとして創造されました。したがって、私たちの救いは霊魂だけでなく、復活のからだも与えられ、霊魂、肉体、精神のすべてが救われることを忘れてはなりません。それが「神のかたち」の回復と永遠のいのちの約束であり、神の救いの本質です。

 人間は「神のかたち」として、神との交わりの中で共に生きる存在として創造されました。そして、男性と女性の二つの性別が与えられ、互いに助け合い、人格を尊重し、価値を認め合う存在として創造されました。さらに、神は自らの性質を反映する存在として、すべての被造物を支配する特別な地位と責任を与えました。しかし、人間は神の前で罪を犯しました。それでも、憐み深い神はその大きな愛によって、私たちが背いた中においても、キリストと共に生きることを可能にしてくださったのです。

“神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」”創世記1:27- 

“あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。…” 2:1,4-

② 私たちの互いの愛の回復

 神に背いた結果、私たちは神との関係を失い、人間同士の関係も歪んでしまいました。イエス・キリストの十字架の救いは、一人ひとりを個別に救済するだけでなく、失われた関係や分断した世界を修復し、全人的な救いをもたらし、平和を実現するものです。

 パウロは、エペソの教会の人々に送った手紙の中で、「キリストが私たちの平和であり、異なる人々を一つに統一し、間にあった障壁を取り除き、キリストの犠牲によって敵意を取り除いてくださった。」と述べています。ここでいう「異なる人々」とは、ユダヤ人と異邦人の関係を指していますが、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、この二者の間の障壁が取り除かれ、ひとつの体として和解し、敵意を持っていた者が平和を実現することができました。この二者の関係は、民族間だけでなく、夫婦や個人間、国家間にも当てはまると考えられます。

 アダムとエバも、善悪の知識の木の実を食べることによって、神の命令に背いてしまいました。本来は神の言葉によって善悪が判断されていたのに対し、彼らは自己中心的な価値観で善悪を判断するようになり、その結果、敵意や争いが生じました。この性質はカインとアベルに受け継がれ、現在に至っています。しかし、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、このような敵意や争いの関係は取り除かれ、すべての関係において、互いに愛し合って生きることができるようになりました。

“実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。” 14-16

 キリスト者として、キリストに似た者となることは、キリストのように、愛、慈悲、正義、寛容などを実践することですが、その正義を誇示したり他者を支配しようとしたり、他者を裁くことではありません。キリストを中心に据え、神の持つ愛に満ち、神が私たちを愛してくださるように「互いに愛し合う」ことが重要です。この愛は、私たちがイエス・キリストによって救われたことの証であり、キリストの弟子としての目標です。そして、この愛の力はすべての関係に影響を与え、その完成を待ち望んでいます。

“わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。” ヨハネ13:34- 

③この世界を神のみこころに沿って治める

 私たちの目標は、「神のかたち」の完成形を目指して、神に仕えていくことです。神が最初に創造された世界は良いものでした。神がすべてのものを創造し、支配しており、すべてのものが神の目的のために働くようにされました。人間やすべての被造物は、神の計画の一部として存在し、神の御心に従って生きるように創造されたのです。
 しかし、私たちが神に対して犯した罪によって、その秩序は乱れてしまいました。私たちの土地は呪われ、労働の苦しみを味わい、死ぬべき者となりました。すべての被造物は虚無に服しており、今もなお苦しみの中にあり、うめき声を上げています。しかしやがて、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちは、神の栄光の自由の中に入れられます。それは聖書が語っている神の救いの完成の時であり、成就の時なのです。

 すでに救われた私たちは、キリストによる救いの希望を持ち、この地上にあって、まだ完成されていないその時間軸に生きていますが、神の栄光とすべてのものの完成のために働きながら、待ち望んで生きています。

 私たちは、信仰において自己中心的に考えがちです。自分や自分の家族が救われればそれでよい、自分が神の国に行くことしか考えていない。この世界は罪に荒れ果てたままでよい、そのような状態のままでさよならでは、神の国を持ち望んでいるとは言えないのです。私たちが、イエス・キリスト再臨を待ち望み、神の国に希望を置いているのは、この地上を治めるという神から与えられた責任を全うすることであり、放棄することではありません。

 確かにこの世界は様々な問題がありますが、それは罪の故なのです。すべての被造物や世界も神の作品なのです。その神が、呻いているようなすべてのものを愛し、回復しようとされているのです。私たちだけが救われて、神の国に行くことができればそれでいいというのは、私たちの救いとは言えないのです。

 救いの約束が与えられている者として、この世界にあって、神の御心に沿って生きることができるように、そして完成を待ち望みながら、与えられた場所で、神の義と愛が実現するように励んでいかなければなりません。

 次の記述は、イエスが自分と共に行動した弟子たちのための祈りです。イエスは、弟子たちが地上の悪から守られ、神によって聖別されるように祈っています。弟子たちが地上から完全に引き離されるように祈っているのではなく、むしろ、地上に留まりながらも、イエスが遣わされたように、私たちも用いられるよう祈っておられるのです。私たちは、天国に国籍を置いているものであり、地上のものに執着しないという意味で旅人です。しかし、この地上にあって、なすべき任務を忘れてはなりません。

“わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。”ヨハネ17:14-18

 「どうせこの世界は滅びるのだから」といった感覚で生きるのはキリスト者の生き方ではありません。この世界を治めるように委ねられていますが、どんなに傷んでいたとしても神が造られた世界なのです。そして、この世界を回復して完成させようとされています。すべてのものが過ぎ去っていくことを知っていますが、過ぎ去らないものがあるのです。神がすべての創造者であり、愛しておられることを忘れてはなりません。

 私たちは、この世界にあって、与えられた救いを喜びながら、神の愛と義が行われるように、平和が訪れるように、与えられた使命を果たしていかなければなりません。私たちの救いは、霊的な領域にとどまらず、肉体的、精神的、そして社会的な相互関係に及び、そして全人的に及んでいくのです。私たちは、完成のために来られるイエス・キリストを待ち望んでいるのです。

“夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。” ローマ13:12

Author: Paulsletter