「私たちのうちに始まった救い」

3月3日礼拝メッセージ 
小平牧生牧師
「私たちのうちに始まった救い」(私たちに与えられた救いと聖化⑧)
聖書:ヨハネの手紙第一3章1~3節

 復活したイエス・キリストに出会い、聖霊を受けて力を授かった弟子たちは、このイエス・キリストこそがメシア(救い主)であるということを、最初に五旬節の祭に参加するために各地からエルサレムに集まったユダヤ人たちに語りました。
 イエス・キリストが捕らえられた際、ペテロはイエスを三度も知らないと言ってその場を立ち去りました。しかし、聖霊降臨の五旬節の祭りにおいて、ペテロはあのユダヤ人たちの前で熱弁をふるい、三千人を救いへと導いたのです(使徒の働き2章)。

 イエスを十字架につけるように大声で要求し続けたのは、あのユダヤ人たちでした。しかし、そのユダヤ人たちがペテロの説教を聞き、自らがイエスを十字架につけたことを悔い改め、回心した結果、彼らもまた弟子たちの同労者として仲間に加わったのです。これが最初の教会の誕生でした。そしてその後、福音は広がり、イエス・キリストへの信仰による救いはユダヤ人だけでなく、異邦人たちにも広がっていきました。そしてそれはヨハネが黙示録において啓示された、やがて来るべき時の光景へと繋がるのです。

 「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、言語のうちから、数えきれないほどの大勢の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持ち、御座と小羊の前に立っていた。」(黙示録7章9節)

 ヨハネは、この光景において天の御座と小羊(キリスト)の前に立つ大勢の人々が礼拝する姿を見ています。これらの人々は、異なる国々、部族、民族、言語から来た者、すなわち、まさにイエス・キリストによる救いにあずかったユダヤ人と異邦人であり、全員が白い衣を身にまとっています。この白い衣は、聖書の中で清めと義の象徴とされています。あの五旬節の祭りのときに誕生した教会は、ヨハネが啓示によって示された光景を目指して日々歩んでいるのです。

 イエス・キリストによって与えられた『救い』(福音)は、次の三つの段階を経て深まっていきます。まず、私たちは生まれ変わり、罪が赦され、神と和解し、神の子として新しい生命を得ます。次に、内に住む罪のために苦しむ者がきよめられることです。信仰によって義とされても、内面には罪の性質が残っていますので、聖別され、罪の力から解放されなければならないからです。これにより、キリスト者は完成に向かって成長を続けますが、まだ完全な状態にはありません。最終的には、私たちは朽ちることのない栄光のからだに変えられるという約束があります。このことによって、主イエス・キリストの救いの計画が完全に成就します。言い換えれば、人はキリストによって新たに生まれ変わり(新生)、きよめられ(聖化)、そして復活のからだに変えられるのです(栄化)。そして、これらすべてを結びつけているのは、『神の子とされる』という恵みです。

この『神の子とされる』という姿を3つのポイントでお話いたします。

① 「神の子ども」とされ

 信仰によって義とされるという教えは、プロテスタントのキリスト信仰のなかでも重要な教理の一つと思われますが、「神の子とされる」ということの信仰生活の根幹とされる大切な教えです。それは、神が選び、贖い、義とされ、「神のかたち」として創造された私たちを、元の姿に回復させ、「神の子」として完成させたいと願っておられるからです。「罪が赦される」とか、「義と認められる」ということはもちろん素晴らしいことですが、それは裁判官が使う法廷用語のようなものです。神との関係においては、なんとなく距離感のあるイメージです。もちろんありがたいことには変わりありませんが、人格的な関係を感じにくい表現です。一方で、「子とされる」という言葉は、父と子の関係ですから、神との人格的な関係においては、肌のぬくもりを感じる言葉であると深く思うのです。

“私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。”1

 ヨハネの手紙第一3章1節において、父なる神は、私たちが「神の子」とされるために、どんなに愛してくださったか考えなさいと語っています。「罪が赦される」や「義と認められる」といった法律用語ではなく、父が子に命を与え、抱きしめるように、私たちのところまで降りてきて、「私の子である」と言ってくださっているのです。そして、「神の子」とされることは私たちの特権なのです。「アバ父」「お父ちゃん」と呼ぶことのできる、そのような関係にあるということなのです。父にとっての子は、かわりにいない存在であり、家族にとってはかけがえのない存在なのです。

“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。”ヨハネ1:12

② キリストと同じ「神のかたち」をめざして

 すでに「神の子」とされた私たちは、将来どのようになるのでしょうか。何を目指していくべきなのでしょうか。

“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。”2

 ヨハネはこの手紙において、キリスト者の未来について語っています。私たちはすでに「神の子」とされており、その特権を享受していますが、私たちの最終的な姿や実現される形はまだ明らかにされていません。しかし、将来、私たちは再臨のキリストと出会い、神の国が実現するときまで成長し続けて、キリスト者として完成に近づき、永遠の命を享受することが最終的なゴールなのです。

 私たちの救いは、地上において祝福されることではありません。地上において、「罪が赦され」「義と認められ」「神の子」としての新しい人生は始まっているのですが、完全な救いは、イエスキリストが再臨して、神の国が実現したときに完成されるのです。そして、神の「かたち」として完成するのです。ですから、今の私たちは、「神の子」とされていますが、完成形ではありません。救われて、永遠の生命を約束されていますが、この地上においては、弱さを経験し、失敗し、罪を犯すこともあるでしょう。なによりも、私たちはまだ肉体の死を経験し、土に帰ることでしょう。しかし、「神の子」とされた私たちは、死んでその霊は神の身元に召されますが、やがて、イエスキリストの再臨のときには、復活の栄光のからだが与えられることが約束されているのです。そして、新しい天と新しい地を神とともに治めていく者とされるのです。そして私たちはそのときを呼び望んでいるのです。

 パウロは、朽ちるものが朽ちないものを着るというイメージを用いて、死後の復活を説明しています。つまり、朽ちるものとは私たちの肉体や現世の姿を指し、それが朽ちないもの、つまり不滅の霊的な姿を得るときに、死者が朽ちないからだを着ると表現しています。ここでの「朽ちない」とは、永遠の生命、霊的な存在を意味します。これがキリストの姿の完成形なのです。

“御子(イエスキリスト)は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。”コロサイ1:15

③ キリストのように成長していく

“キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。”3

 「神の子」とされており、完成を約束されている私たちは、その約束を目指して、キリストのように聖別し続けます。ただし、注意して心に留めていただきたいのは、キリストのように聖別していく動機や目的は何かということです。私たちは救われるために聖別するのではなく、私たちが既に救われており、将来のゴールが約束されているからこそ、自らを聖別していくのです。私たちが「神の子」とされるために、「神の子」らしく生きるのではありません。むしろ、私たちが「神の子」とされるためには、これ以上何もする必要はありません。何かを付け加える必要があると考えることは、イエス・キリストの十字架では不十分だということになります。私たちは、イエス・キリストの十字架での死と復活によって、私たちに必要なことはすべて成し遂げられています。したがって、私たちが聖別しなければならないのは、神の恵みによって、「神の子」とされた特権を私たちが知っているからです。

 また、私たちには、キリストの身丈に達するまで成熟する目標があり、創造された「神のかたち」にしたがって、新しくされ続けるのであり、それがキリストに従って生きる者の姿なのです。

“私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。”エペソ4:13-

“あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。”コロサイ3:9-

Author: Paulsletter