「だから私たちは落胆しない」

2月25日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「だから私たちは落胆しない」
聖書:コリント人への手紙第2 4章7〜18節
(春のニューコミュニティディ)

 「私たちに与えられた救いと聖化」というテーマを学んできましたが、その中で、二つの誤った理解が存在することが示されました。

 一つの誤解は、「悔い改めのない救い」です。「悔い改め」とは、神に対する方向転換を意味します。神のかたちに創造された人間は、罪によってそのかたちから逸脱し、自己中心的な価値観で判断するようになりました。聖書では、これを「罪」と言っています。救いとは、この状態から本来あるべき姿へ回復することです。神はイスラエルの民を選び、イエス・キリストをこの世に送りました。イエスは受肉、誕生、十字架での死と復活を通して、歪んだ神と人との関係の仲保者となり、私たちの贖い主となりました。私たちが救われるためには、自己中心的な生き方を捨て、イエス・キリストを救い主と信じなければなりません。この方向転換こそが「悔い改め」です。救いのためには「悔い改め」が不可欠であり、悔い改めのない救いはあり得ません。

 もう一つの誤解は、イエス・キリストによる救いを拒否し、自力による救済を追求する考え方です。人間は独断で善悪の基準を定め、自己判断によって自分自身、他人、そして世界を評価しようとします。しかし、そのような評価は常に主観に基づいており、真の解決には繋がりません。にもかかわらず、私たちは自らの正しさを追い求め、問題を複雑化させてしまいます。善悪の判断基準を自己中心的に設定している限り、問題は解決されないのです。問題は人間の力不足ではなく、自己中心的な生き方そのものです。真の救済のためには、自らを神とする傲慢さを捨て、イエス・キリストを主として信じ、神が与えてくださった救いを素直に受け止めることが必要不可欠です。私たちを救うのは自分自身ではなく、唯一神のみなのです。

 今朝の説教の主題は「だから私たちは落胆しない」です。 「落胆しない」という言葉は、コリント人への手紙第24章16節(新共同訳)に登場しますが、実は本章のはじめにも同じ言葉が登場しています。この手紙は受け取り手にとって励ましや希望の言葉に満ちています。パウロはこの箇所で、「落胆しない」と書いていますが、実際はどうなのでしょうか。私たちは落胆しないのでしょうか。 期待が裏切られたり、進まなければならない道を閉ざされたり、そのような経験を多かれ少なかれしているのではないでしょうか。

 パウロ自身も、このような経験をしていなかったわけではなく、この手紙の冒頭で、「耐えられないほどの圧迫を受け、ついにはいのちさえも危なくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。」と告白しています。しかし、そのパウロが同じ手紙の中で、「落胆しない」と書いているのです。なぜ、パウロは「落胆しない」と断言することができたのでしょうか。今朝はその理由について考えてみたいと思います。

① 神が、私たちの創造者である

“神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。”創世記1:26-27

“だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。…”イザヤ43:1- 

 聖書は、神と人間の関係について、様々な譬えで語っています。たとえば「羊飼いと羊」との関係は、神が私たちを養い、守る存在であることを表しています。「ぶどうの木とその枝」との関係では、いのちの幹に枝がつながっていることを象徴しています。「花婿と花嫁」との関係は、最高の愛で愛し合っていることを意味します。その中の一つが「陶器師と器」との関係です。神が陶器師であり、私たちはその作品なのです。

 このことは私たちにどのような励ましと希望を与えているでしょうか。

 「陶器師と器」の関係は、神が私たちを創造された存在であることを象徴しています。神はご自身の「かたち」として私たちを創造されました。罪によって神から離れてしまった私たちも、神にとってかけがえのない作品であり、その関係は永遠に変わることはありません。

 イザヤ書43章1節は、「わたしがイスラエルの民を創造し、形造り、そして造り上げました。わたしが彼らを贖い、再び神との関係を回復させた」と記しており、神の愛によって、罪が原因で神から離れたイスラエルの民を買い戻し、再び神との関係を回復させたことを強調しています。

 多くの人々は、自己実現のために神を利用しようとします。しかし、それは誤った考え方です。私たちの人生は、神が与えた目的のために神に仕えることによって実現されます。神を自分の目的のために利用するのではなく、神が求める生き方をすることこそが、真の自己実現なのです。神はこの世界の創造主であり、私たちに命を与え、この時代に生かしてくださっています。神に対する信仰と、神から与えられた使命や目的は、別々の価値観で扱うべきではありません。神の栄光を現す価値観に基づいて、使命を全うすることが重要です。自分の人生を自分の思い通りにしようとすれば、「落胆する」こともあるでしょう。しかし、神から与えられた使命や目的に沿って生きれば、「落胆する」必要はありません。神は私たちの創造主であり、私たちは神の作品なのです。神の作品として、神が求める生き方をすることこそが、私たちにとって最上の喜びと幸福につながるのです。

② 私たちは、キリストを宿す器である

“私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。” 7

 私たちは、「土の器」に譬えられています。私たちは「土の器」のように脆くて壊れやすい存在であり、傷だらけで、見栄えも決して良くありません。パウロは、私たちは確かに「土の器」であるけれども、「土の器」の中に宝を持っていると述べています。ここでの「宝」とは、この手紙の文脈から、「福音」ともとれるし、「永遠の命」ともとれます。いずれにせよ、救い主「イエス・キリスト」を指すものです。ですから、「土の器」に「宝」を入れるということは、不釣り合いであり、「土の器」に「宝」を入れるものではなく、相応しくないのです。しかし、「宝」の持つ測り知れない力は神から来る恵みの力であり、私たちには及ばない力なのです。そして、「土の器」である私たちの中に、イエス・キリストという「宝」を存在させることは、その素晴らしさを明らかにするためなのだとパウロは強調するのです。

 私たちの生きている社会は、人を外側だけで判断します。その人の見えない本質よりも、外見だけでその人を評価する傾向があります。それは、中身でなく、器で判断してしまうことであり、どんなに素晴らしい「宝」を持っていたとしても、「宝」を入れている器がみすぼらしければ、その中身さえも否定されてしまうのです。しかし、パウロがここで強調しているのは、イエス・キリストの持つ輝きが器の外観にも現れてくるということです。それが、測り知れない神の力なのです。

 パウロは、肉体的な問題(「とげ」)という弱さに苦しんでいました。パウロは、自分の弱さを克服するために何度も神に祈りましたが、神は彼の弱さを取り除くばかりか、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました。神は、パウロの弱さを通して、神の力が完全に現れることを望んでいたのです。パウロ自身の力では到底できないことを、神の力によって成し遂げようとされたのです。そこでパウロは、自分の弱さを恥じるのではなく、むしろキリストの力が自分の上にとどまるために、弱さを誇るようになったのです(コリント人への手紙第二 12:9)。

 神は私たちがどんなに立派な器であるかに関心を持っておられるわけではありません。私たちも、パウロのように、見かけが悪く、傷のある「土の器」ではあるけれども、その中にイエス・キリストという「宝」が入っているという事実を知り、自分を否定することなく、自分の弱さを誇ることが大切なのです。イエス・キリストの輝きが私たちをも輝かせることに喜びと感謝し、さらにその輝きを求めていきたいと思うのです。

“あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。” Ⅰコリント6:19-

③ 神は、私たちという器を練り続けられる

 私たちは、主の前に立つ日まで、「土の器」であり続ける存在です。私たちが「土の器」であることは、私たちが未完成であることを意味します。私たちは、完璧になる必要はありません。むしろ、私たちは常に神の御言葉に触れ、祈り、悔い改め、赦し合う交わりを築きながら、神の約束を信じて成長していくのです。私たちは苦難の中を歩み、行き詰まりながらも前進し、途方に暮れながらも神に信頼し、迫害されても神の愛を信じ、倒れても再び立ち上がります。私たちは希望を失いません。なぜなら、神は私たちを見捨てず、常に共にいてくださると信じているからです。

 私たちは、「陶器師」である神によって造られ、練られつつある「土の器」です。神の創造の働きは終わっていません。今も私たちは造り続けられています。練られたり削られたり、最後には窯の中で焼かれる工程を経て、粘土の塊は陶器に変えられます。私たちは、そのような工程を経て造り上げられ、神の作品として完成されるのです。
 
 陶器は、「陶器師」という作家の名を証します。私たちも神の作品であり、神の名を証する存在です。だからこそ、「落胆する」必要はありません。「土の器」であることを受け入れ、イエス・キリストが私たちの内に存在していることを喜びながら、やがて、完成されるときが来ることを確信して困難な道を歩んでいくのです。

“私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。” 8-

“ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。” 16

“それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。” ローマ5:3-

Author: Paulsletter