「救い主の到来」

2月18日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「救い主の到来」(私たちに与えられた救いと聖化⑦)
聖書:ヨハネの福音書3章16〜17節

 イエス・キリストは、突然この地上に遣わされたわけではありません。神の遠大な計画の中で、あらかじめ約束され、待望され、時が満ちて来られたのです。

 神の救いの計画は、アブラハムを召し出すことから始まりました。そして、イエス・キリストにおいて最終的に実現しました。イエスこそ、私たち人間に与えられた唯一の救い主です。その救いの実現を詳しく記録しているのが、新約聖書の最初の四つの書である福音書です。”福音”とは、「良い知らせ」という意味です。

 イエス・キリストとは、誰なのか?そして、そのイエス・キリストが与えてくださった救いとは、何なのか?これらの問いの答えは、福音書の最も有名なみことばの一つである、「ヨハネによる福音書3章16節」に示されています。このみことばから、私たちは神の深い愛と、イエス・キリストによって与えられた救いの恵みを味わうことができます。

“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。”3:16-17

① 受肉されたイエスキリスト

“アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、…ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。”マタイ1:1-16

“ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”ヨハネ1:14

 「受肉」とは、神がイエス・キリストとしてこの世に人として生まれ、人間の肉体を持って降臨されたことを意味します。アダムとエバが罪を犯した際、神は「女の子孫がお前の頭を砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」と宣言されましたが、これはイエス・キリストの十字架での受難を予表するものです。

 マタイによる福音書の冒頭に記されているイエス・キリストの系譜は、救い主イエス・キリストがアブラハムやダビデの子孫から生まれるという神の約束が実現したことを証するものです。また、ヨハネによる福音書には「言葉は肉体となり、わたしたちの間に宿った」と記されています。これは、イエス・キリストが単なる人間ではなく、神の言葉が肉体を持って人となったことを示しています。彼は地上にただ存在したのではなく、私たちの中に住み、共に生活し、深く関与してくださったのです。すなわち、イエス・キリストは真に神でありながら人であることを教える大切な真理なのです。

 イエス・キリストの神性については、長年にわたり議論されてきたテーマでした。神性を否定する「アリウス派」と、神性を肯定する「アタナシウス派」などが主に対立しました。「イエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではない」という見解と、「キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質である」という見解が対立しました。この対立は、ニカイア公会議においてほぼ全員の意見が一致し、イエス・キリストの神性を認める「ニカイア信条」が承認されることとなりました。その後、381年に召集された第一コンスタンティノープル公会議でアタナシウス派の三位一体説が正統信条として確定しました。この結果、イエス・キリストが真の神でありながら人間であるということが正式な信条として確立されたのです。

 私たちにとって、イエス・キリストが受肉したことは与えられた大きな恵みです。その受肉とは、神が人間の持つ「霊・肉・心」のすべてを肯定し、愛して受け入れてくださることを意味します。紀元1世紀に生まれ、紀元2世紀から3世紀にかけて地中海地域で広く普及した「グノーシス主義」は、特別な知識(グノーシス)の獲得を通じて霊的な救済を追求する思想でした。その中で、霊肉二元論は、グノーシス主義の中核的な概念の一つであり、霊的な領域と物質的な領域の二つの対立する世界が存在するという考え方です。グノーシス主義が唱える霊肉二元論は、魂と肉体が二元的に独立した存在であり、肉体が消滅して初めて魂が自由になると考えられています。しかし、キリスト教では、「罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえのいのち」を信じています。霊肉二元論は、キリストの受肉・受難・復活を否定するものであり、私たちの罪の赦しの根拠を否定するものです。

 イエス・キリストの救いにより、私たちの肉体はやがて朽ちない栄光のからだが新たに与えられると約束されています。私たちは神の「かたち」に創造されましたが、罪を犯したために神の「かたち」を損ねました。しかし、受肉されたイエス・キリストが肉体において復活し、栄光のからだに変えてくださることが私たちにとっての救いなのです。イエス・キリストは罪を犯しませんでしたが、人間の弱さや試練を理解し、人間としての経験も持ち、試練や苦しみを経験した上で、神の御旨を成し遂げました。私たちが栄光のからだに変えてもらうということは、弱い私たちをありのままで受け入れてくださるという希望の約束です。イエス・キリストが受肉したことは、いかに素晴らしい出来事であったか、あらためて思わされるのです。 

② 仲介者としてのイエスキリスト

“神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。”1テモテ2:5-6

 イエス・キリストは神と人との間に立ち、神との関係を修復するために来られた救い主であるということです。キリストは唯一の仲保者であり、人々が神と和解し、神の恵みを受けるための唯一の道なのです。そのため、イエス・キリストは人となられ、自らを贖いとして差し出し、十字架の死によって私たちを罪から解放してくださったのです。つまり、イエス・キリストは神と人との間の橋渡しとなり、和解の道が開かれたのです。そして、父なる神は、仲保者である子なるイエス・キリストを私たちに送ってくださったのです。神はこの世を愛しており、その愛の証としてキリストを私たちに贈られたのです。それは、神がこの世を裁くためではなく、仲保者であるイエス・キリストを信じることによって、私たちが永遠の命を得るためなのです。この信仰によって、私たちは罪から救われ、永遠の命を享受することができるのです。

 イエス・キリストは、神の右の座に着き、仲保者として私たちのためにとりなしてくださっているのです。これは、キリストが罪人たちの仲保者として神の前に立ち、私たちの罪を贖い、私たちを神との和解に導くために働いていることを示しています。そのことによって、私たちは神の恵みによって救われることができるのです。
 イエス・キリストがすべての者の贖い主であり、仲保者であるからこそ、私たちは神への祈りに対してキリストの名によって祈ることができるのです。祈りとは念仏ではありません。また、一方的な自己完結するものでもありません。祈りは神と人との双方向のコミュニケーションであり、互いに自由に語り合う会話なのです。

“…それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。…(それは)、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。” 

③ あがない主としてのイエスキリスト

“それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。”マルコ8:31

“私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、…”1コリント15:3-

 何度も語られてきましたが、アダムとエバは、神の「かたち」として創造されたのにも関わらず、彼らは神の言葉によって善悪が判断されるべきであるという本来の姿から逸脱し、自らを神の立場に置き、自己中心的な価値観で判断するようになりました。本来、人間は神の「かたち」として、神の息を吹き込まれた存在として創造されていましたが、彼らはその存在や生き方を神とは関係なく独自に決定してしまいました。これは、神が創造した本来の目的から逸脱した結果であり、これが罪の本質です。つまり、罪とは、全人類が神との関係において罪深い状態にあることであり、神との関係の歪みが、様々な罪の行為を生み出していくことになります。アダムとエバの罪の結果、全ての人間が罪深い存在とされました。このことを聖書は原罪と呼び、私たちの一つひとつの行為の罪と区別して考えています。したがって、罪の赦しにおいては、個々の行為の罪を赦すことも重要ですが、その根本にある原罪もまた赦されなければなりません。私たちにとって、原罪から解放され、救われることが重要です。それは、イエス・キリストが私たちの原罪を負うために受肉したことを意味します。

 イエス・キリストはこの罪のために、自らが十字架の受難を経験する運命であることを弟子たちに告げられました。私たちの罪の代償として、多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえるべき贖い主として遣わされたのです。

 旧約聖書の時代、イスラエルの民は罪を償うために動物の生贄を用いました。これは罪悪感や悔い改めを示す意味があり、動物の生贄の流す血によって聖別され、神の前で正しく生きることができるとされていました。“罪過のための生贄” の捧げ方には細かな諸規定があり、例えば動物の選定基準や捧げる際の手順などが記されています。これらの詳細は特にレビ記や民数記に多く見られます。しかし、動物の生贄を捧げることは神に近づく手段として規定されていましたが、その生贄は不完全でした。というのも、動物の血を流すことによって人間の罪が完全に赦されるわけではなく、完全に贖うことができなかったからです。また、動物の生贄は絶えず人間に罪を思い起こさせ、当時は祭壇に生贄を捧げる儀式が繰り返されました。“罪過のための生贄” の儀式は、やがて到来する救い主の流される血の贖いの予表でした。イエス・キリストは私たちの罪の生贄として捧げられました。罪のないイエス・キリストは完全無欠の生贄であり、一度だけ捧げられることで、私たちの罪は完全にかつ永遠に赦されるのです。したがって、誰もが血を流す必要はありません。イエス・キリストが自らの血をもって、私たちは永遠の贖いを得ることができたのです。このキリストの犠牲の完全さと神の恵みに感謝します。

Author: Paulsletter