「あなたはすばらしい」

 私たちはクリスマスに「救い主」であるイエス・キリストの降誕をお祝いしました。では、「救い」とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。

 イエス・キリストの「救い」に預かるということは、単に直面する苦難の解決や、また内面の問題を解決するものではありません。もちろん、「救われた」人とは特別な存在や宗教的に神々しい人になることでもありません。むしろ、「救い」とは、神が意図しておられる最も人間らしい最高の姿への回復と、それに伴い、完成に向かうことです。

 自分の過去を振り返ると、キリスト者として相応しい自分を模索していました。しかし、実際にどのように自分を築いていけば良いのか理解できず、それができなかったことが、かえって苦しみをもたらしました。しかし、聖書を学びながら気付いたことは、人間としての本来の姿は、神が最初に造った時の、罪を犯す前の姿であるということです。ですから、イエス・キリストによって救われるということは、自然でありのままの本来の姿に回復されるということなのです。

 「救い」について理解するためには、まずは人間の本来の姿から考えることが重要です。

① 神から始まる

“神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。” 創世記1:26-27

“しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神…”ガラテヤ1:15

 神を信じることは、とにもかくにも、すべてにおいて神から始まるということです。科学が発達し、知識が増大し、技術が進歩した今日、私たちの生活は大きく変わってきています。コンピュータは欠かせない存在となり、スマートフォン一つで聖書の検索から公共機関の予約、決済、カメラ、メールまで行えるようになりました。アップルウォッチを身に着けていると心拍数を測定し、不規則な心拍リズムまで検知してくれます。

 これからも科学は発展し、技術も進歩することでしょう。しかし、一方で昔も今も変わらないものがあります。コミュニケーションのやり取りは驚くほど便利になりましたが、昔と今とではどちらが心を通じ合い、互いに理解し合っているでしょうか。夫婦や親子、人間の関係が以前と比べてよくなったとは思えないのです。

 医学や治療方法の進歩により、これまで治療できなかった病気も克服され、平均寿命が延びたかもしれません。しかし、いじめや犯罪、戦争は根絶することができません。むしろ、いじめはより陰湿になり、戦争はますます激しくなるばかりです。科学や技術の発展に伴う変化と、そうでない現象が共存しています。こちらの問題には、神と人間の関係に由来するものが影響していると考えられます。つまり、人間はもともと神の姿に造られましたが、神に逆らった結果、罪深い存在となりました。罪は神の意図から逸脱した状態であり、本来の姿ではありません。したがって、本来の創造時の姿に回帰すれば、いじめや犯罪、戦争は起こらないでしょう。人間は、本来の神の創造に従って回復する必要があります。万物は神によって創造され、私たちもイエス・キリストの十字架での贖いによって本来の姿に回復すべきです。

② 神のかたちとして

“神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」” 創世記1:28

“人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。あなたは人を御使いより わずかに欠けがあるものとしこれに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。” 詩篇8:4-

 神は最初に天地を創造し、その後、水の中には魚や鳥、地上には草や種子をまく植物、そして家畜や野獣、地を這うすべての動物を造り上げました。最後に神は男女ともに、自らのかたちに人間を創造し、神の姿に似せて創造されました。人間が神の姿に創造されたということは、どのような意味を持つのでしょうか。神の似姿とは、容姿や形状を指すのではなく、むしろ神の本質や性質に類似して人間が創造されたということなのです。そして、神は人間を祝福し、地上を治め、海の魚、空の鳥、地のすべての被造物を管理するように愛をもって語りかけてくださり、すべてを管理する権限と責任を与えられたのです。その意味では、人間は他の被造物とは決定的に違う特別な存在であるといえます。生存競争で環境に最も適したものだけが生き残って子孫を残しうるという適者生存の理屈がありますが、私たちは、罪の故に神の似姿という本来の豊かさを失っているかもしれませんが、神の似姿に創造されているからこそ価値ある存在に変わりはないのです。
 
 私たちは、母の胎にあるときから神から選ばれ、召命され、神の恵みによって生を受けているものです。地上に生涯の中で、神の目的に従って導かれているものであり、完成を目指して生かされているのです。

Author: Paulsletter