「このままでよいのか」と、問われるイエス

6月16日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「このままでよいのか」と、問われるイエス
(イエス・キリストの生涯⑧)
ヨハネの福音書5章1~18節

 エルサレムはパレスチナの中心にある都市で、古代ヘブライ王国の都とされて以来、現代に至るまで重要な政治的・宗教的都市として存続しています。古くから多くの戦乱や侵攻に見舞われてきたため、ダビデ王はエルサレムを占領した直後に都市を城壁で囲みました。ソロモン王はさらに城壁を築き、都市の破れ口を塞ぎました。その後の諸王もエルサレムの各所に修理や追加工事を施し、これらを強固なものとしました。エルサレムを城壁で囲むことは戦略的かつ防衛上不可欠な手段でした。また、宗教的な聖地としての重要性からも、城壁による防衛が求められました。

 城壁には複数の門が設けられ、それぞれ異なる機能と役割を担っていました。中でも重要な役割を果たしたのが「羊の門」です。 この門は神殿に捧げる羊の搬入路として使用されていました。その後、新バビロニア帝国のネブカドネザル2世によって城壁は破壊され、神殿は焼かれ、残った住民は連行されました。「ネヘミヤ記」には城壁を再建した人々のリストが記されていますが、北側の羊の門が神殿に近接していたことから、大祭司エルヤシブとその兄弟たちが羊の門の再建に取りかかったことが記されています。

 ユダヤ人の祭りがあり、イエスがエルサレムに上られたところから物語は始まります。その羊の門の近くに、ヘブライ語でベテスダと呼ばれる池がありました。その池には五つの回廊があり、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。なぜなら、その池の水が時々動くことがあり、その時に真っ先に池に入った人は、どのような病気でも癒されるという言い伝えがあったからです。

 ベテスダの池には、38年間も病に苦しんでいる人がいました。イエスは彼を見かけ、その長い苦しみを知ると、「良くなりたいか」と問いかけました。病人はこう答えました。「主よ、水が動くとき、私を池に入れてくれる人がいません。私が行く間に、他の人が先に降りてしまうのです。」具体的な病名は記されていませんが、彼の苦しみは肉体的なものにとどまらず、精神的、社会的、経済的な困難ももたらしていたことが想像できます。そして何より、彼は希望を失っていたのです。イエスは彼に、「立ち上がって、あなたの寝床を担いで歩きなさい」と命じました。すると、その人はたちまち癒され、寝床を担いで歩き始めたのです。その日は安息日でした。

 ここで注目したいのは、イエスがこの病人に対して一方的に癒しを与えているわけではないという点です。イエスは病人に声をかけることで、病人が自分の直面している問題を受け止めながら、イエスの方に顔を向けるそのプロセスを見ておられるのです。今朝は、イエスの「良くなりたいか」という言葉に焦点を当てて考察してみたいと思います。

① イエスキリストは、私の心の望みを知っておられる

 イエスは病人に対し、「良くなりたいか」と問いかけました。良くなるということは、人生において成長することであり、すべてのことは「良くなりたい」という思いから始まります。しかし、単に「良くなりたい」という思いだけでは何も変わりません。例えば、悔い改めるとは「方向転換」を意味する言葉ですが、自分の内にある思いを変えることから始まります。それは単に内面的な思いにとどまらず、その悔い改めの思いを神に向かって告白することが大切です。

 長い間病気に苦しんでいる人に対して「良くなりたいのか」という質問は、当たり前のことであり、そのように問いかけることは相手への心遣いが感じられない言動かもしれません。しかし、この箇所を何度も読んでいるうちに、新たな気づきが与えられました。

 38年という長い歳月を病人として過ごしてきた彼も、最初はいつか癒されるという希望を抱いていたかもしれませんが、その期待はやがて絶望に変わったのではないかと思っていました。しかし、結核に罹り、長期間療養所で生活していたある女性の体験を知ったとき、私の考えは一変しました。その女性も長期の療養中に回復の見込みがないと感じていたかもしれませんが、それでもなお癒されるかもしれないという希望を抱いており、その希望があるからこそ彼女は生き続けることができたのです。

 イエスに声を掛けられたこの男性も同様です。もう癒されないかもしれないという絶望の状況にあったかもしれませんが、それでも良くなりたいという思いが彼の内にありました。だからこそ、彼は微かな望みを見出し、なおも池の側に横たわっていたのです。そして、その彼の思いを知り、その思いを引き出して、「このままでよいのか」と呼びかけてくださったのです。

“そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」”5:5-6

“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”1ペテロ5:7

② イエスキリストは、私を動かす言葉を与えてくださる

 イエスの「良くなりたいか」という問いかけに対し、男性は具体的に「良くなりたい」という言葉を口にしませんでした。これが現実かもしれません。彼の内にある微かな希望がうめきのような言葉であったとしても、神に対して自分の言葉で告白するならば、それは彼の信仰の告白として素晴らしかったかもしれません。しかし、彼の口から出た言葉は「水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません」というものでした。そのような言葉しか発することができなかったのが彼の現実の姿だったのです。しかし、イエスはそんな彼の言葉を遮るようにして、「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われたのです。私たちも、良くなりたいと思いつつも、もう無理だといった否定的な言葉を口に出してしまい、ネガティブな気持ちに支配されることがよくあります。良くなりたいという気持ちを自分の言葉で正直に言い表すことができないのです。

 イエスが「起きて、床を担いで歩きなさい」と言ったとき、彼はすぐに良くなって床を担いで歩き出しました。なぜ彼は良くなったのでしょうか。それは、彼がイエスの言葉に従って立ち上がったからでしょうか。聖書には「その人はすぐに良くなった」とあります。つまり、そこにあったのは「起きて、床を担いで歩きなさい」というイエスの言葉だけだったのです。彼自身の何かではなく、イエス・キリストの言葉が彼を癒したのです。

 私たちは、神の言葉を理解しようと努める一方で、その言葉に委ね切ることができていないことがあります。確かに、神の言葉を理解することは大切ですが、同時に、人間の知性で理解できる範囲には限りがあることも忘れてはいけません。神の言葉、神の御業、神の恵みは、私たちの理解をはるかに超えた深いものであることを心に留める必要があります。神の言葉を、自分の限られた知識や理解の枠に閉じ込めてしまうことは避けなければなりません。神の言葉は、私たちの知性を超えた広大さと深さを持つものです。だからこそ、理解できない部分も含めて、すべてを信頼し、委ねることが大切なのです。

 もっと大きな、豊かな神の祝福が待っているにもかかわらず、自分の理解を超えているからといって拒絶してしまうのは、あまりにも勿体ないことです。信仰とは、自分の器に合わせて生きることでも、器を大きくすることでもありません。神の祝福は、そのような人間の尺度をはるかに超えた、計り知れないほど大きなものです。大切なのは、自分自身を神に委ねることです。どんな状況にあっても、神が「大丈夫」と言葉をかけてくださるなら、それで大丈夫なのです。私たちは、神の無限の愛と恵みに信頼し、委ねることによって、真の平安と喜びを見出すことができるのです。

“イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」”5:8

“するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」”ルカ5:5

③ イエスキリストは、私を新しい生き方へと導いてくださる

 ユダヤ教のミシュナー(口伝律法)によると、安息日に人を床に乗せて運ぶ行為は許されていましたが、床だけを運ぶ行為は禁止されていました。後に、この規則を破ったとして安息日論争に発展することになります。私たちはしばしば律法に対して否定的な見方をしがちですが、実は私たち一人ひとりも、自分自身の律法を持っており、自由だと思っていても、その律法によって自分を縛っていることがあります。大切なのは、その律法が人を活かすものであるかどうかということです。神は、安息日が私たちのために設けられたと律法によって定められました。安息日は人間のために設けられたものであり、人間が安息日のために造られたのではありません。安息日は、肉体的な労働からの休息や回復を与えるだけでなく、精神的な安らぎとともに神を礼拝し、神との霊的関係を深めるために神から与えられた恵みの時間でもあります。神への礼拝は、私たちに与えられた最善の場所で、最善の方法で捧げるものであり、会堂に行かなければならないとか、リモート配信では礼拝を捧げたことにならないといった「安息日論争」に巻き込まれてはなりません。

 イエスはその後、宮の中で癒された男を見つけ、「もう罪を犯してはならない」と告げられました。この言葉は、単なる病の治癒を超えて、男に新しい生き方を求めるものでした。確かに、病からの解放は彼にとって必要不可欠でした。しかし、それ以上に重要だったのは、罪からの解放という神との関係の霊的な回復であり、それこそが彼にとって真の救いだったのです。イエスは、男が神との霊的な関係を深めることの重要性を示し、神に焦点を合わせた新しい生き方へと招き導く言葉をかけたのです。

 神に顔を向けた生き方をしなければ、どこでどのような礼拝を捧げても、私たちは真の平安を得ることはできません。病気が癒されたことは彼にとって豊かな祝福でしたが、さらに祝福された新しい生き方をするようにと願い、導かれたのです。私たちは信仰が強くなれば何かが変わると思うかもしれませんが、実際には神の御言葉が私たちを癒すのであり、大切なのは神の御言葉の前に自分を置くことなのです。

“その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。…」”5:14

“彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」”ヨハネ8:11

“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”2コリント5:17

Author: Paulsletter