「私たちはヤコブであった」

6月9日礼拝メッセージ
小平恵牧師
「私たちはヤコブであった」
創世記31章1-18節、32章1-32節

 神はアブラハムを通じてイスラエル民族を祝福し、彼らを通して全世界を祝福することを約束されました。アブラハムは生まれ故郷のウルからハランを経由して、神が示した約束の地カナンを目指します。神はアブラハムに子孫の繁栄を約束されましたが、アブラハムと妻サラとの間には高齢になるまで子が与えられませんでした。しかし、神との約束により、ようやく息子イサクが生まれました。イサクは父アブラハムの信仰と祝福を受け継ぎ、さらに祝福するという神の約束はイサクを通して、彼の妻リベカとの間に生まれた双子の息子エサウとヤコブに受け継がれていきます。

 今朝は、その後のヤコブの物語を通して、神の祝福とご計画について考察していきたいと思います。

 イサクと妻リベカとの間に双子のエサウとヤコブが誕生しました。リベカの妊娠中、子どもたちが彼女の胎内で争うように動き回るのを感じたため、彼女は神にその理由を尋ねました。神はリベカに、彼女の胎内には二つの国民があり、一つの国民がもう一つの国民に仕えることになると告げました。二人が生まれてきたとき、ヤコブは兄エサウのかかとを掴んでいたため、その名をヤコブ(「押しのける者」という意味)と名付けられました。

 兄エサウは成長するにつれて狩りを得意とする野生の男になりました。一方、ヤコブは穏やかで家にいることが多い男でした。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。ある日、エサウが狩りから飢え疲れて帰ってきたとき、ヤコブが作っていた煮物を欲しがりました。ヤコブは、その煮物と引き換えにエサウの長子の権利を要求しました。エサウはその場の空腹に負け、長子の権利を軽んじてヤコブに譲ってしまったのです。その後、イサクが年老いて目が見えなくなったとき、イサクはエサウに長子の祝福を与えようとしました。しかし、リベカはこれを聞き、ヤコブにエサウになりすまして祝福を受けるように指示しました。ヤコブは父を騙し、エサウの代わりに祝福を受けたのです。

 神のご計画は、ヤコブが生まれる前から兄エサウではなくヤコブに長子の祝福が与えられるように進められていたのかもしれませんが、ヤコブは自らの策略と手腕を用いて、神の時を待たずに長子の権利を奪取しました。エサウは、父イサクがヤコブに長子の祝福を与えたことを知って激怒しました。エサウはヤコブを殺そうと考えましたが、リベカはそれを知り、ヤコブをリベカの兄ラバンの元に逃がしました。

 ヤコブはエサウから逃れるために故郷のカナンを離れ、ハランへ向かう途中で、神の祝福を受ける夢を見ます(神の御使いが天に延びる梯子を行き来する夢です)。ヤコブは、神と直接出会い、祝福の約束の言葉を耳にします。その後、ヤコブらしい返答をします。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、すべてあなたが私に賜る十分の一を必ずささげます。」と誓うのです。この誓いが、ヤコブにとって信仰の原点となるのです。

 そして、ヤコブはハランに到着し、叔父のラバンのもとで働くようになります。最初の7年間は、ラバンの娘ラケルを妻に迎えるという約束のもとで労働しましたが、欺かれて姉レアと結婚させられてしまいます。ラバンは「もしおまえがラケルも妻に欲しければ、これからまた7年間必死で働きなさい。そうすれば、望み通り妹のラケルをおまえにやろう。」と言います。ヤコブはさらに7年間働き、ようやくラケルを妻としました。

① 自分の思う時と計画 創世記 30:25、26

 ヤコブの最愛の妻であるラケルとの最初の子、ヨセフが生まれた時、ヤコブは故郷のカナンに帰りたいと思いました。しかし、ラバンは、「もしあなたが私の望みを叶えてくれるなら…。報酬を与えるので、まだここにとどまってほしい」とヤコブを説得しました。ラバンはヤコブを利用して自身の富を増やそうと考えていたのです。ヤコブは最低限の条件で、引き続きラバンのもとで働くことを承諾しました。その後、ヤコブはさらに6年間、ラバンのもとで働くことになります。ヤコブはますます祝福され、子宝に恵まれ、家畜が増え、そして、召使いも大勢抱えるようになりました。

 神の祝福の恵みは、神の前に静まり、祈って待っていたとしても、必ずしもすぐに答えが得られるわけではありません。思い通りにならない中で、焦りや不安を感じ、自力で解決しようと試してしまうこともあるでしょう。しかし、全てには神のご計画があります。私たちが抱いている様々な目標や計画も、神の導きの中でこそ真の意味が与えられ、成就へと導かれるのです。緻密な人間の計画よりも、神の見通しに基づいた計画の方が、遥かに偉大で確実です。大切なのは、自身の力や知恵に頼ることではなく、神の御心に従い、神のご計画に委ねることなのです。

 ヤコブに対する神の祝福が果たされるまでに、ラバンのもとで20年間も過ごしました。神が、ヤコブを完成に導くために、憐みとご計画をもって進めてくださっていることは、ヤコブに関する一連の出来事から明らかです。

“ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせて、故郷の地へ帰らせてください。妻たちや子どもたちを私に下さい。 彼女たちのために私はあなたに支えてきました。 行かせてください。あなたに仕えた私の働きは、あなたがよくご存知なのですから。 “30:25-26

“自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。”Ⅰコリント  8:2

“人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。”箴言 19:21

② 神には時がある 創世記 31:3

 ヤコブは神からの祝福を受け続け、ラバンの財産を凌駕するほどの富を築き上げました。ラバンの息子たちは、ヤコブの繁栄を目の当たりにし、激しい嫉妬心を抱くようになりました。ヤコブもまた、ラバンの態度が徐々に冷たく険悪なものへと変化していくことに気づいていました。その時、ヤコブは再び神の声を聞き、父たちの国に帰るように命じられました。この神の声は、ヤコブがエサウから逃亡し、梯子の夢を見たあの時以来、初めて聞くものでした。以前の神の声は、ヤコブの信仰の礎となり、今回の神の声は、彼にとって大きな励ましとなり、決断を促す力となりました。神は時を定め、ヤコブがラバンのもとを去る環境を整えていたのです。そして何よりも重要なのは、ヤコブがそのタイミングで神の声に従い行動に移したことでした。それが彼にとって大きな幸いとなることは言うまでもありません。

 ヤコブは神の声に従い、妻子や家畜、財産を携えてラバンのもとを去り、故郷へ向かうことになりましたが、ヤコブには解決しなければならない問題がありました。それは、20年前に袂を分かった兄エサウとの関係です。当時のエサウは激しい怒りと憎しみを抱き、ヤコブを殺そうとさえしました。兄弟の間には和解が成されていませんでした。ヤコブは、ラバンのもとに留まるのではなく、エサウとの和解を望み、故郷での解決を選択しました。この選択には、神の定められた時があり、神の約束を信じ、その指示に従う信仰がありました。

“主はヤコブに言われた 「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。 わたしはあなた とともにいる。“ 31:3

“わたしはあのベテルの神だ。あなたはそこで、石の柱に油注ぎをし、わたしに請願を立てた。 さあ立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。“ 31:13

“神のなさることは、すべて時にかなって美しい。 ~しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。“ 伝道者の書 3:11

③ 全てを神に委ねると言うこと 創世記 32:24~31

 ヤコブが兄エサウのもとから逃げた時、エサウは長子の祝福をヤコブに奪われたことにより、彼に対する怒りと憎しみが爆発し、ヤコブを殺そうと考えました。エサウは当時ヤコブを殺すことを誓っていたので、ヤコブはエサウとの再会を恐れていました。そのため、贈り物を持たせてエサウのもとに使者を送り、彼の様子を探りました。すると、エサウが400人を引き連れてヤコブを待ち受けているという情報を得たため、ヤコブはさらに恐れと不安を抱きました。ヤコブは嫌な予感を感じたので、自分の財産を二手に分散し、一方を家族のために残すように対策を講じました。そして、謙虚な気持ちで神に祈りました。以前は自分の杖一本でヨルダンを渡ったことがありましたが、今では二つの宿営に財産を分散するほどになりました。もちろん、ヤコブは内心では非常に恐れを感じていましたが、それでも冷静に神の前に心を落ち着かせ、自分の弱さを正直に告白し、祈り求めることができました。ヤコブは自分の力や知恵に頼るのではなく、神に信頼し、神の恵みと導きに委ねることで真の平安と喜びを得ました。この姿勢は、神の御心を知り、霊的に成長する時であり、私たちにとっても必要なものです。

 ヤコブは、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちにヤボク川を渡らせました。しかし、ヤコブは一人だけ宿営に残りました。彼は、一人の人(神の使い)と神の祝福を求めて夜明けまで格闘しました。ヤコブはその名の通り、人を押しのけ、自分のために戦ってきた人生を送ってきましたが、もはや彼は「ヤコブ」と呼ばれません。「イスラエル」という名前が与えられました。それは、神と戦い、勝利を得た者を意味します。
この後、ヤコブは一族の先頭に立って、エサウと再会し和解するのです。 

“私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しないものです。…私は恐れています。… “ 創世記 32:10、11

“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです。”Ⅰペテロ  5:7

 イザヤ書43章1-3節は、ヤコブに対する神からの慰めと励ましの言葉です。この言葉は、ヤコブが生きていた時代よりずっと後に、彼の名を通して神が約束されたものです。神は、悪知恵や策略に長け、自分の知恵と力に頼っていたヤコブに呼びかけます。「あなたを造ったのはわたしだ」と。そして、神は彼を「イスラエル」と呼びます。「イスラエル」は、もはやかつてのヤコブではなく、多くの苦難や試練を経験し、神の憐みによって贖われ、造り変えられた新しい名前です。

 私たちも「ヤコブ」と同様に、罪の性質によって様々な過ちや失敗を犯してきました。しかし、神はイエス・キリストの十字架の死と復活による代価を支払い、私たちの罪をすべて贖ってくださいました。そして、神は一人ひとりに声をかけ、私たちの歩みに深く関わってくださるお方なのです。

 ヤコブの人生は、この後も多くの困難や悲しみ、試練を経験することになります。しかし、147歳で亡くなるまで、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」という神の励ましの言葉は、彼の歩みを支え続けました。私たちもヤコブのように、自分の知恵や力で計画を立て、思い通りに物事を進めようとし、神の御心よりも自分の思いを優先させてしまうことがあります。しかし、私たちはすべてを最善にしてくださる神を信じ、全てを神に委ねることができるのです。

“だがヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。“ イザヤ 43:1-3

Author: Paulsletter