「私たちを活かすいのちの水」

6月2日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「私たちを活かすいのちの水」
(イエス・キリストの生涯⑦)
ヨハネの福音書4章1~26節

 イエス・キリストの活動範囲はそれほど広くありませんでした。イエスが宣教を開始した際、ナザレからカペナウムへと移り住み、ガリラヤ地方を伝道活動の拠点としました。また、弟子たちを選んだのも、ガリラヤ湖畔の町であり、最初の奇蹟を行ったカナも同じ地域でした。先週学んだニコデモとの対話の出来事は、過越しの祭りのためにエルサレムに滞在中の出来事でした。今朝のサマリアの女性との対話における「活ける水」についての話は、エルサレム(ユダヤ地方)を去ってガリラヤ地方へ向かう途中の出来事でした。

 ガリラヤとエルサレムの距離は直線距離でおよそ120キロメートルです。しかし、エルサレムが標高約750メートル、ガリラヤ湖が海抜マイナス213メートルであるため、実際の旅路は、道のりや地形を考慮すると、約150~170キロメートルの距離となり、個人差はありますが、約一週間程度で移動できる距離だったと言われています(当時の聖書歴史地図を見ながらイメージしてください)。

 ユダヤ地方(エルサレム)を去ってガリラヤ地方へ行かれたという記述がありますが(4:3)、ユダヤ地方からガリラヤ地方へ移動するには、サマリア地方を通るのが最短コースでした。しかし、ユダヤ人とサマリア人の間には歴史的・社会的背景により、長年にわたって民族的に反目し、宗教的にも対立していました。そのため、通常ユダヤ人はサマリア地方を避け、ヨルダン渓谷沿いの険しいコースを選んだと言われています。

 サマリアは紀元前10世紀から紀元前8世紀にかけてイスラエル王国(北王国)の首都として栄えました。しかし、紀元前721年にアッシリア帝国によって征服され、多くの住民が捕虜として強制移住させられました。アッシリア帝国はサマリアの町にバビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムなどの他民族を住まわせました(Ⅱ列王記17:24)。この混血化により、サマリアの住民は他民族と交わり、独自の文化や宗教を形成しました。

 アッシリアによる征服と混血化は、サマリア人とユダヤ人の間に深刻な民族的・宗教的対立を生み出す要因となりました。ユダヤ人は、混血によって純血を失ったサマリア人を蔑視し、宗教的にも異端視するようになりました。一方、サマリア人はユダヤ人からの差別と迫害に苦しみ、独自のアイデンティティを模索し続けました。

 以上の背景は、ヨハネ福音書4章にも反映されています。イエス・キリストがサマリアの女性と対話する場面では、ユダヤ人とサマリア人の間にある隔たりが浮き彫りになります。しかし、彼女はイエスとの出会いと対話を通じて、深い真理と希望を見出します。イエスの言葉に耳を傾け、彼の真の愛に触れることで、次第に心を開いていくのです。イエスが、サマリア地方を避けずに通られたのも必然的な理由があったと推察します。

 イエス・キリストは、サマリアの女性に対するように、私たち一人ひとりにも新しい人生へと導いてくださいます。今朝は、イエス・キリストが私たちをどのように導いてくださるのかを考察したいと思います。

① 周辺のことから核心的なことへと

 イエスはサマリアの女性に近づき、声をかけられました。当時のユダヤ人とサマリア人の関係からすれば、ユダヤ人がサマリア人に声をかけることは到底考えられず、ましてや男性が女性に声をかけることはなおさら考えにくいことでした。サマリアの女性も、ユダヤ人がなぜ飲み水を求めてくるのか理解できなかったでしょう。実際、弟子たちは「食物を買いに町へ出かけていた」とありますから、ユダヤ人がサマリア人から食物を購入することを避けていたのではないかと推察されます。では、なぜイエスはサマリアの女性に近づき声をかけられたのでしょうか。旅の疲れを癒すために飲み水を求める行為自体は単純なものでしたが、イエスが語りたかったのは、それ以上に本質的で核心的なことだったのです。彼女は、律法的に罪人とされており、サマリア人の中でも蔑まれていたことでしょう。正午頃の最も暑い時間帯に、人目を避けて生活水を汲みに来なくてはならないほど、彼女の人生は深い悲しみの中にいたことをイエスはご存じだったのです。人は彼女の外側を見ていましたが、イエス・キリストは内側を見ておられたのです。

“そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。” 9

 サマリアの女性は、イエスから「あなたに活ける水を与える」と言われても、その意味が理解できず、そのような水をどうやって汲むのかも想像できませんでした。人との対話の中では、すべてが通じるわけではなく、時には通じない部分もあります。その場合、相手が意味不明なことを言っているだけだと思い、その原因は相手にあると考えがちですが、実は自分が理解していなかったり、誤解していることもあります。この場面でイエスが言われた「活ける水」とは、物理的な水ではなく、霊的な渇きを満たすことを象徴して表現したものであり、その真意を彼女は理解できなかったのです。一般的に、聖書の言葉は意味不明で理解できないと言われることがありますが、実は受け入れる側にその備えがないために、理解できない場合もあります。それでも、イエスは忍耐強く、周辺の事柄から核心的なことへとサマリアの女性を導き、結果的に彼女は次第に心を開き、イエスの真意を霊的に理解することができたのです。

“その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。」” 11

“彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」”15

② 表面的なことから表れていないことへと

 サマリアの女性がイエス・キリストによって与えられる「活ける水」の真意を知るためには、イエスからすれば、ユダヤ人とサマリア人の関係がどうであろうと、彼女が汲む井戸水が先祖から受け継いだ重要な資産の水であろうと、どうでもよいことでした。彼女の人生において重要なのは、表面的には見えなくても、彼女自身が覆い隠そうとしていることにイエスが光を当て、核心的な部分に触れることだったのです。つまり、イエスが提供する「活ける水」は霊的な渇きを永遠に癒すものであるということです。また、イエスは彼女の過去と現状の男性関係について暴露しています。彼女は何度も結婚を繰り返し、その生活が破綻するといった悲しい経験をしていたことでしょう。その理由や原因の所在がどこにあるのかは分かりませんが、イエスが問題視しているのは、その理由や原因の所在ではないということです。私たちは、すぐに原因を究明し問題を解決しようとしますが、そのようなことは他人に言われるまでもなく、本人が一番わかっていることかもしれませんし、少なくとも彼女にとって、原因を指摘されても、問題の解決にはなりません。彼女にとって必要なのは、永遠に渇くことのない、霊的な渇きを満たす「活ける水」なのです。それは、涸れることのない、溢れるように湧き出る命の水なのです。イエス・キリストは、彼女の核心的な部分に光を当て、霊的に覚醒するように導かれたのです。

“イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」” 16-

③ 聞かされたことからイエスキリストとの出会いへと

 イエスが、サマリアの女性の過去と現在の男性関係について突然言及したことで、彼女は、サマリア人とユダヤ人の間の礼拝場所に関する論点を持ち出し、話題を変えようとしました。ゲリジム山はサマリア人にとっての聖地であり、サマリア人はゲリジム山に神殿を建て、神に礼拝を捧げていました。一方、ユダヤ人はこれを否定し、礼拝すべき場所はエルサレム神殿であると主張しています。しかし、サマリアの女性はどちらが正しいのかという真っ当な宗教的な質問をイエスにぶつけますが、イエスはこの質問に対しても、彼女に霊的な真理を語ります。すなわち、神の本質は「霊」であり、神は肉体や物質に限定されず、時間や空間の制約を受けることもありません。神は遍在し、どこにでもおられる存在です。ですから、神に対する礼拝も外面的な儀式や場所に限定されることはなく、私たちの神に対する内面的な姿勢が神の本性に反映して行われるべきであり、神の本性に適った礼拝とは神に対する愛、忠誠、服従、献身が求められるのです。

“女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」” 25

 イエス・キリストは、「井戸の水を飲む者は再び渇きを感じるだろう」と語りました。物質的な水を通じて得られる満足や安定は一時的であり、永続的な満足や充足をもたらすことはありません。この世の物質的なものへの依存は、永遠の幸福や充足へと導くものではないということです。しかし、イエス・キリストが授ける「活ける水」を飲む者は、永遠に渇くことがありません。「活ける水」とは、霊的な満足や永遠の命を指しています。イエスが与える「活ける水」は、その人の内なる泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。「活ける水」は、物質的な欲求や虚無感を超えて、人の霊的な渇きを満たし、永遠の命への道を開くものです。

 イエス・キリストは、ニコデモには彼に相応しく、サマリアの女性には彼女に相応しく接して、それぞれの言葉を否定せずに受け入れながら、彼らが求めるものを察知し、正しく導いたのです。彼らは実際のイエス・キリストに出会うことで、霊的な真理に目覚めたのです。

Author: Paulsletter