「新しく生まれるということ」

5月26日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「新しく生まれるということ」
(イエス・キリストの生涯⑥)
ヨハネの福音書3章1~21節

 ある夜、ニコデモはひそかにイエスを訪問しました。ニコデモはパリサイ派のユダヤ教徒であり、サンヘドリン(最高法院)の議員でもありました。当時のユダヤ社会において、パリサイ派は厳しい律法主義と熱心な信仰で知られていました。イエスはすでにユダヤの宗教指導者たちから敵視されており、そのような立場にあるニコデモが公然とイエスを訪問することは危険を伴う行為でした。にもかかわらず、ニコデモは危険をおかしてまで、イエスとの対話を求めて訪問したのです。

 イエス・キリストは、ニコデモとの対話の場面で、「新しく生まれなければならない」と語りました。「新しく生まれる」ということはどういうことなのでしょうか。今朝は、イエスが語った「新しく生まれる」ということに焦点を当てて考えてみたいと思います。 

① だれの人生にも「闇」はあります

 ニコデモはパリサイ派のユダヤ教の指導者であり、サンヘドリンの議員でもありましたので、その立場上、公然とイエスを訪問することは人目を憚るため、世間に知られないように考慮する事情がありました。ニコデモは、一般の人々や同僚らの目を避けるために「夜」という時間帯を選んだのではないかと考えられます。

 ニコデモは、イエスが行った奇跡や教えに深い感銘を受け、強い関心を抱いていました。しかし、彼はパリサイ派の指導者であり、イエスの教えがパリサイ派の伝統的な教えと大きく異なっていたため、ニコデモは自身の信仰とイエスの教えの間で葛藤していました。特に、安息日に病人を癒すことや、罪人を受け入れることはパリサイ派の教えに真っ向から反するものであり、彼にとって大きな葛藤となっていました。そのため、ニコデモは自身の宗教的な葛藤を解決し、パリサイ派の教えとイエスの教えの矛盾や違いを理解するために、直接イエスと対話する必要があったのです。ニコデモが人目を避け、静かな環境の中でイエスとじっくりと語り合うために夜という時間帯を選んだことは、真剣にイエスと向き合い、真理を探求しようとする彼の真摯な姿勢を示しています。

 さらに、ヨハネによる福音書は象徴的な表現を多用することで知られており、ある神学者の見解によると、ニコデモの夜の訪問は霊的な暗闇の象徴と解釈されています。つまり、ニコデモが「夜」に訪れたことは、真理への渇望を抱きながらも、精神的な空虚さや、神の光が射し込まない暗闇の中にいることを象徴しているのです。彼がイエスのもとを訪れることは、霊的な啓示や光を求める行動として描かれており、真理を求める彼の真摯な姿勢を象徴的に示しています。このように、ニコデモが置かれていた状況と、彼がイエスから受けようとしていた光を明暗の対比によって効果的に表現しています。だれの人生にもそのような「闇」の部分があるのではないでしょうか。

 ニコデモは、自身が抱えている葛藤に対して明確な回答が得られると期待してイエスのもとにやってきました。しかし、イエスの回答は「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」というものでした。ユダヤ教の教師であり、ヘブライ聖書に精通していたニコデモでしたが、イエスの言葉を理解することができず、当惑しました。彼は新生や罪の赦し、聖霊の内住、神の国についての理解が不足していたのです。

“さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」” 1-2

② 「新しく生まれる」とは、やり直すことではなく、神につながることです

 ニコデモは、「新しく生まれる」という言葉の意味を理解することができませんでした。彼にとって、律法を忠実に守ることこそが正しい生き方であり、ユダヤ教徒としての伝統だと信じていたのです。長年、自らを律し、厳格にその教えに従ってきたことに誇りを持っていました。そのため、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」というイエスの言葉に困惑しました。老年になってどうやって新しく生まれ変わるのか、到底理解できなかったのです。これまで真面目に、熱心に生きてきたことが間違っていたのか、無駄だったのかと、ニコデモは自身の信仰と生き方に深い疑問を抱き、苦悩しました。ユダヤ教徒としてのアイデンティティと、イエスの教えの間で葛藤するニコデモの姿が浮かび上がります。

“イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく(*上から)生まれなければ、神の国を見ることはできません。」” 3

 イエス・キリストが説いている「新しく生まれる」とは、心を改めることでも、やり直すことでもありません。聖書には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と記されています(コリント人への第二の手紙 5:17)。キリストの十字架の死と復活によって私たちに新しい命がもたらされ、その命を共有することによって、新しく生まれることができるのです。「キリストのうちにある」とは、キリストの十字架の死と復活を信じることを意味します。すなわち、イエス・キリストの十字架を信じることによって、神に繋がることができるのです。ヨハネによる福音書の3章3節の「新しく生まれる」という言葉の脚注には、「上から生まれる」と記載されています。つまり、「新しく生まれる」ということは、神の命を得て生きることであり、信じる者を新生させる神のわざなのです。

“イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。” 5-6

 ニコデモを含む律法学者たちは、神の律法を厳しく遵守することで神の国を見ることができると堅く信じていました。当時の律法学者やパリサイ派の人々は形式的で偽善的であると批判されることがありましたが、彼らは神の前で礼拝し、祈るという神中心の敬虔な生活を送っていました。また、律法の厳格な遵守と宗教的純潔を重視しており、その熱心さは誰にも真似できないほどでした。しかし、その行いだけでは新しく生まれ変わることはできず、神の国に到達することはできないのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって、神の命に生きることができるのです。

③ イエスキリストを信じて、私たちは新しく生まれることができます

 

 ヨハネによる福音書は、イエスの教えに対して否定的な反応を示した宗教指導者たち(主にパリサイ派とサドカイ派)が多かった中で、一部の指導者たちがイエスを信じていたことを明らかにしています(ヨハネ12:42)。当時のユダヤ教社会では、宗教指導者たちが強い影響力を持っており、その権威に逆らうことは非常に困難な時代でした。パリサイ派の圧力や会堂から追放されることを憚って、キリスト信仰を公にしなかったと記されています。

 ニコデモは、自らが心の中に抱えている葛藤や、満たされない宗教的な渇望から、その回答を求めて、イエスの元にやって来ました。その結果として、ニコデモはイエスが示す新しい霊的な教えに対する理解を深め、霊的な真理に目を開かれたものと思われます。新しく生まれたニコデモは、どのように変化したのでしょうか。

 その後、祭司長や他のパリサイ派がイエスに対して敵意を示している場面で、ニコデモはユダヤ教の律法に基づき、公正な裁判を行うためには本人の弁明を聞く必要があると主張し、イエスを擁護しました(ヨハネ7:51)。さらに、イエスが十字架にかけられた後には、アリマタヤのヨセフとともにイエスの遺体を引き取り、埋葬しました(ヨハネ19:39)。

 これらの行動は、ニコデモがイエスを単なる教師としてではなく、神のひとり子として信仰していたことを示しています。ニコデモは、イエスの十字架の死と復活を信じることによって新しく生まれ変わったのであり、パリサイ派の指導者としての立場や周囲からの圧力にもかかわらず、イエスに対する確信に基づいて行動したと言えるでしょう。彼の信仰は、当時のユダヤ社会において非常に勇気ある行為であり、イエスに対する彼の深い敬意と献身を示しています。

“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。” 16

“ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” 2コリント5:17

“イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。” 1ヨハネ5:1

Author: Paulsletter