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「天でも地でも、あなたの御心が」

2026 2/16
メッセージを読む
2026年2月16日

2月15日メッセージ
小平牧生牧師
「天でも地でも、あなたの御心が」
マタイの福音書6章9~15節

 使徒パウロは、第二回伝道旅行の途中でマケドニアを離れ、アテネに滞在していました。パウロは町に偶像があふれているのを見て、霊的な憤りを感じました。彼は町を巡る中で、「知られない神に」と刻まれた祭壇を見つけます。当時のアテネの人々は、万が一にも拝み忘れた神がいて祟りがあることを恐れ、正体のわからない対象に対しても盲目的に熱心な宗教心を捧げていたのです。パウロはそんな彼らに対し、「あなたがたは、あらゆる点において宗教心のあつい方々だと拝見しました」と語りかけました。しかし、パウロが説いた福音は、そのような「対象不明の熱心」とは一線を画すものです。私たちが捧げる祈りとは、単なる宗教心や信心深さによるものではありません。祈りとは、「祈る対象をどれほど正しく理解し、知っているか」に尽きると思います。それが私たちの祈りを決める条件なのです。それだけに、私たちは、「お父さん(アバ、父よ)」と呼んで祈ることができるのです。

 イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えられた「主の祈り」は、「天にいます私たちの父よ」という呼びかけから始まります。「私たちの父よ」と呼びかけることも、初めのうちは恐る恐るであったかもしれません。しかし、祈り続ける中で、私たちはこのお方がどのようなお方であるかを、頭の理解を超えて、実際の祈りの中で知っていくようになるのです。

 聖書は、神の御名を信じた者には神の子どもとされる特権が与えられると約束しています。その特権は、観念的なものではなく、日々の祈りの中で具体的に体現されていくものです。神の子としての特権とは、何よりもまず、罪が赦されたということです。聖書には、私たちが「義」と認められたと記されています。神学的にはこれを「義認」と言いますが、それは神が私たちを正しい者としてくださったということです。つまり、もはや自分自身で正しい者であることを証明する必要はなく、正しい者として振る舞う必要もないのです。「義」の根拠は、私たち自身の内にあるのではなく、イエス・キリストの内にあります。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちはすべての罪を赦され、「義」と認められました。それは自分の思い込みでもなく、人からそのように見えるからでもありません。神ご自身がそのように宣言しておられる事実なのです。だからこそ、私たちは「お父さん(アバ、父よ)」と呼んで祈るたびに、その恵みの大きさを改めて知ることができるのです。

 「主の祈り」はキリスト者の祈りであり、神の子どもとしての祈りです。だからこそ、私たちは「父よ」と祈ることができます。もちろん、言葉として「父よ」と口にするだけなら誰にでもできます。しかし、本来、子どもでない者が「父よ」と呼ぶのは不自然なことです。私たちは、イエス・キリストを信じることによって、神を「父よ」と呼ぶことを許されました。ゆえに、子として神を呼び求めることができるのです。言い換えれば、「主の祈り」は救われるための祈りではなく、すでに救われた者がささげる祈りなのです。そのため、「主の祈り」の前半は「私たちの父よ」という呼びかけから始まり、御名、御国、御心について、父なる神の名が崇められ、神の支配が完成し、御心が成就するようにと祈ります。そして、そのように神を第一に求める祈りの流れの中で、後半は子としての願い──「日ごとの糧」や「負い目(罪)の赦し」を求める祈りへと続いていきます。前半の「父よ」という神への呼びかけは、後半の「私たち」の祈りへと自然につながります。また同時に、後半の「私たちの祈り」も、前半の「父なる神よ」という土台なしには成り立ちません。

目次

① 天と地を治めておられる神

 神がどういうお方なのかと言えば、天と地のすべてを治めておられるお方であるということです。「主の祈り」を祈るとき、私たちの思いは、その祈りを起点として大きく広がっていきます。私にとっても、「主の祈り」は本当に大きな助けとなりました。なぜそのように言えるかというと、私自身から自然に出てくる祈りの言葉は、実際のところ自己中心的で、視野の狭いものだったからです。「何とかしてください」といった類いの祈りしか出てこなかったのです。しかし、何度も「主の祈り」を祈るうちに、私の心は主に向けられ、神の国に向けられていきました。そして、祈りの中に出てくる一つ一つの言葉が、単なる形式ではなく、私自身の祈りの言葉となっていったのです。やがてそれらの言葉は、具体的な自分の状況に即した祈りへと変えられていくのを経験しました。「主の祈り」は、神が天と地のすべてを治めておられるお方であること、そして私たちがその民であることを思い起こさせる祈りだと思います。これから御言葉をたどりながら、その意味を整理していきたいと思います。

 「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6:10)には、「御国」「みこころ」「天」「地」という、聖書の根幹をなす重要な言葉が登場します。「天」とは、もともと「空」や「大気」を指す自然的概念でした。しかし聖書においては、単なる気象学的空間にとどまりません。聖書は「天」を多層的に理解しています。すなわち、鳥が飛び、雲が浮かぶ空間(第一の天)、星々が輝く宇宙空間(第二の天)、そして神が住まわれ、神の臨在が現される領域(第三の天)です。とくに第三の天は、目に見えない神的世界の超越性と優位性を示す宗教的概念として理解されています。

 創世記の記述によれば、世界は「天」「地」「海」の三要素から成り立っています。神は水の間に「大空」を造り、上の水と下の水を分け、その大空を「天」と名づけられました(創世記1:6–8)。これは、地の上に広がる巨大な天蓋のようなイメージで描かれています。「天地(あめつち)つくりし神」という歌詞の讃美歌がありますが、「あめつち」とは「天」と「地」を指す言葉です。ここでの「天」は、大空、すなわち被造世界の上に広がる空間を意味しています。

 しかし、「主の祈り」に登場する「天にいます父よ」や「みこころが天で行われるように」という表現における「天」は、単なる大空(第一の天)を指しているのではありません。ここで言う「天」とは、第三の天、すなわち神が住まわれ、神が臨在する霊的領域を意味しています。これは物理的空間ではなく、神の聖なる支配が完全に及んでいる領域を示す言葉です。聖書では「天」と「地」が対として用いられます。「天」は神の臨在する聖なる領域を、「地」は神が創造された人間と被造物が生きる世界を表します。終わりのとき、イエス・キリストが「天から来られる」と記されているのも、神の住まわれる領域から被造世界である「地」へ来られるという意味です。また、復活されたイエス・キリストが天に挙げられ、神の右の座に着かれたことも同じ理解の中にあります。さらに、「召天者」という言葉が示すように、地上の生涯を終えた者が主のみもとへ行くことも「天」という語で表されます。このように、6章10節における「天」とは、神が住まわれ、神の臨在が完全に現されている領域を指しています。そして、その「天」では神のみこころが完全に行われます。だからこそ、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と私たちは祈るのです。

 マタイによる福音書6章10節における「御国(みくに)」とは、原文のニュアンスでは「あなたの王国(Your Kingdom)」、すなわち「神の統治・支配」を指します。「御国」とは、物理的に「天」か「地」かという区別を超えて、父なる神が王として君臨し、その「みこころ」が完全に行われている状態を意味します。聖書において「天の御国」という言葉が用いられる場合も、それは単なる死後の行き先を指すのではありません。むしろ、神のご意志が完全に貫かれ、神が臨在しておられる領域を意味しています。本来、被造世界のすべては神によって造られたものであり、その主権は万物に及んでいます。しかし聖書の記述によれば、現在の「地」は理想的な状態にはありません。人間の高慢と罪によって、「地」は神の統治に反逆し、その「みこころ」に背こうとする力が働いています。ですから、「天」においては神のご意志が完全に行われていますが、地上においては、現実には神の支配が完全には行われていません。そこに、「御国が来ますように」と祈る必要があるのです。イエス・キリストがこのように祈るよう教えられたのには、重要な意味があります。「天で行われるように、地でも行われますように」という祈りは、「今、この地において、天と同じ神の平和と正義が実現しますように」という切なる願いであり、信仰の告白です。キリスト者にとって、「御国」はイエス・キリストの到来によって「既に」始まっていますが、その完成は「いまだ」将来を待つものです。この「既に」と「いまだ」の緊張関係の中で、「天」にある神の完全な秩序が、この不完全な地上を侵食し、塗り替えていくことを待ち望む。それが、主の祈りの核心なのであります。

 しかし、ここで大切なことを確認したいと思います。前述のとおり、「天」は神の支配のもとにあり、「地」は罪の影響のもとにあるという現実があります。しかし、このことは、私たちが二元論的に生きるべきだと教えているのではありません。「天」は善で「地」は悪であるとか、「地」を離れて「天」に行くことを最終目的として神を信じているのだ、ということではないのです。この「地」もまた神が造られたものであり、神のものであり、神はこの「地」を愛しておられます。私たちが「御国が来ますように」と祈るのは、神がこの「地」を愛しておられるからです。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るのは、神がこの「地」を見捨てることなく、ここにおいて御心を実現しようとしておられるからです。だからこそ私たちは、この「地」にあって神の国の民として生きるよう召されているのです。

 私は、礼拝のメッセージを準備する中で、『天にも地にも』というワーシップソングを聴いていました。岩淵まこと夫妻による短い賛美ですが、「天にも地にも主は満ちている」という歌詞が繰り返されます。おそらくエレミヤ書23章24節の御言葉を基に作られたものだと思われます。私たちは、神が造られたこの地上に生きています。その地には、今なお罪や悲しみがあふれています。その地には、罪や心の傷に苦しむ現実があります。本来、神からこの地を治めるようにと委ねられたにもかかわらず、人は神の支配に抗い、神のみこころに従おうとせず、自己中心の欲望と争いの中にあります。しかし、それでも私たちは知っています。天にも地にも主は満ちておられることを。神は遍在され、どこにでもおられます。すべてのものは主のものです。だからこそ私たちは、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈りつつ生きるのです。この賛美の後半では、「待ち望め主よ 雄々しくあれ 心を強くせよ 待ち望め主よ」と繰り返されます。私たちは、痛みと悲しみの地にあっても、神の国の完成とその到来を待ち望みながら歩みます。自分の内にあるわずかな忍耐を振り絞りつつも、なお前に進むことができるのは、父なる神を「お父さん」と呼び、希望をもって祈ることができるからです。つまり私たちは、御言葉を通して神のみこころを知らされているからこそ、待ち望む祈りをささげることができるのです。

天にも地にも 主は 満ちている
天にも地にも 主は 満ちている
天にも地にも 主は 満ちている
アーメン アーメン アーメン アーメン

待ち望め主よ おおしくあれ
心を強くせよ 待ち望め主よ

“御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。” 9-10

“わたしは近くにいれば、神なのか。―主のことば― 遠くにいれば、神ではないのか。 人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。―主のことば― 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主のことば― ” エレミヤ23:23-

② 天と地を一つにつながれた神

 イエス・キリストは、神の領域である「天」から、この傷ついた「地」に、人として来られました。それは、イエス・キリストによって、この「天」と「地」は一つに結ばれ、繋がったということを示しています。イエス・キリストがこの地に来られたことを、ヨハネによる福音書1章14節で、「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みとまことに満ちていた」と記されています。「ことば」とは、ギリシア語で「ロゴス」と呼ばれます。1章の冒頭では、このロゴスは「神と共にあり、神であった」と記されています。旧約聖書には、「主のことばによって天は造られた」と記されていますが、天地万物は、「主のことば」すなわち、神によって創造されたのであり、この聖書箇所で言えば、神は人となってこの地上に来られ、私たちの間に住まわれたのです。つまり、本来は、「神のかたち」に造られ、本来は神の支配の中にあるべきものが、現実には罪の支配の中にあるこの「地」に存在する、私たちの中に住まわれたのです。住まわれたということは、、私たちは地上では「旅人」であると記されており、この地上にあって、一時的に寄留している者ですが、住まわれることは、「旅人」であることと正反対の言葉です。つまり、一時的に寄留することに対して、私たちの内にずっと居続けるということです。そして私たちの内にご臨在しているお方は、恵みとまことに満ちておらるのです。つまり、このお方には、私たちが受けるに値しない完全な愛と真理に満ちているということであり、その愛と真理が一つとなったということなのです。

 ここで「まことに満ちていた」とありますが、そこには間違いなく「神の義(正しさ)が具現化している」というニュアンスが含まれています。聖書における「義」とは、単なる道徳的な正しさではなく、「神との関係が正常であること」を指します。つまり、「まこと」とは神の変わらない本質であり、その本質こそ神の義なのです。言い換えれば、神の「まこと」は、神の義という土台の上に成り立っているということができます。愛とまこと(義)は、本来、人間の理解においては相容れないもののように見えます。私たちは愛か義かのどちらかに偏ってしまいがちです。愛を優先すれば正しさがおろそかになり、正しさを主張すれば愛が失われてしまうように、愛と義はしばしば相反関係にあるのです。しかし、イエス・キリストにおいて、完全な愛と完全な義は一つとなっています。そして、それが十字架なのです。十字架こそ、神の完全な愛と完全な義が結び合わされたところです。すべての者が愛され、すべての者に対して義が成就された、この愛と義は、イエス・キリストの十字架において完全に一つとなりました。さらに驚くべきことに、イエス・キリストは永遠の神でありながら、完全な人となって私たちの内に住まわれました。本来、人と神とはまったく異なる存在であり、神が人の内に住むなど考えられないことです。人間はどこまでいっても人間であり、神になることはできませんし、神が人となることもあり得ないことです。しかし、イエス・キリストは受肉され、私たちと同じ姿かたちを取られました。そして、私たちの内に住まわれたのです。私たちのうちに住まわれたということは、霊的な意味だけではなく、私たちの現実の社会、生活、すべての領域において及ぶものなのです。ですから、「主の祈り」は、「御国が来ますように」と祈るのと、「日ごとの糧をお与えください」との祈りが一つになっているのです。

 私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、すでに救いにあずかっています。しかし、イエス・キリストが再び来られるとき、すべての被造物の救いは完成し、悪は滅ぼされ、今の天と地は過ぎ去り、新しい天と地が実現します。そこには完全な平和があり、死も、悲しみの叫びも、苦しみもありません。そして、そこが神ご自身の永遠の住まいとなると、聖書は約束しています。私たちはその完成の時を待ち望みつつ、「すでに」と「いまだ」の間を生きています。この痛みの残る地上にあって、神の民としてどのように歩むのでしょうか。それは、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈りつつ、実際に神のみこころを行う者として生きることです。神の国の完成を待ち望みながら、今この地で神のみこころを実践することこそ、私たちに与えられている召しなのです。

“私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たち も、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお 救いください。”11-13

“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもと から来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。” ヨハネ 1:14

③ みこころを行わせてください

 「みこころ」という言葉は、キリスト者の間でよく用いられますが、「みこころ」とは神のご意志のことです。神のご意志は、神の知恵と愛、そして正しさにおいて完全なものです。私たちは神の「みこころ」を知ることを願い、それを求め、そのとおりに生きることができるよう祈ります。しかし現実には、私たちは弱く、愚かで、神の「みこころ」が分からないこともあります。たとえ「みこころ」が分かったとしても、それに従って生きるかといえば、それを妨げる思いや誘惑のほうがしばしば強いのが私たちの姿です。イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのである」(マタイによる福音書7章21節)と言われました。この御言葉から、イエス・キリストを「主よ、主よ」と呼ぶことと、実際に神のみこころを行うこととは同じではない、ということを思わされます。だからこそ私たちは、繰り返し祈るのです。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と。そしてさらに、「この私にも、みこころを行わせてください」と祈り続けるのです。

 「みこころを行う」とは、どういうことでしょうか。パウロはテサロニケ教会の人々に対して、「神のみこころ」とは私たちが聖くなることであると語っています(テサロニケ人への第一の手紙4章3節)。ここで問われているのは、私たちの選択や生き方が聖さへと向かっているかどうか、そして日々の歩みが神に属する者としての在り方につながっているかどうかという点です。 このように聞くと、「あまりにもハードルが高い」と感じ、「みこころを行う」ことをあきらめてしまう人がいるかもしれません。しかし、ここで誤解してはならないのは、神のみこころが「私たちが聖くなること」であると言うとき、その「聖さ」が単に道徳的に欠点のない状態を指しているのではないということです。聖さとは、神ご自身のご性質そのものを意味します。したがって、「御名が聖なるものとされますように」と祈ることは、神の御名が神の本来のご性質にふさわしくあがめられるようにと願う祈りです。同じように、私たちが聖別され、聖くされるとは、人間が神に創造された本来の姿、すなわち「神のかたち」へと回復されていくことを意味します。

 神が私たちを聖くされるとは、単に罪を犯さない清廉潔白な人間になることではありません。むしろ、神が創造された本来の目的にかなった存在へと造り変えられていくことなのです。ですから、神の御名が聖とされるとは、神の聖なるご性質が現され、賛美され、ほめたたえられることを指します。そして、私たちが聖くされるとは、その神のご性質が私たちのうちにも映し出されるようになることなのです。「神を知らない異邦人のように」とありますが、私たちは神を知っている(信じている)神の子です。ですから、神の子にふさわしく生きることこそが、神の「みこころ」を行うことであり、「聖くなる」ということなのです。「この地上はどうせ悪なのだから、地上の悪に染まっても仕方がない」のではありません。確かにこの地上の世界は傷み、傷つき、汚れています。しかし、そのただ中で神の子として生きるのです。ですから私たちは、不品行を避け、節度をわきまえ、自分のからだを聖く、また尊く保ち、他者が大切にしている領域に踏み込まず、欺かない生き方をしていくのです。

 前述のとおり、イエスは父なる神に対し「あなたの御言葉は真理です」と祈られ、神のことば(ロゴス)こそが人を聖別するものであると教えられました(ヨハネ17:17)。私たちが神の子にふさわしく聖くなることは、自分自身の努力や修行によるのではなく、神のことばに触れ、その真理のうちを歩むことによってのみ可能となるのです。世間一般では「みこころ」という言葉を、多分に運命論的な意味で捉える傾向があります。例えば、結婚相手は誰か、就職すべき会社はどこかといった「特定の選択肢」を当てるために、まるでお告げを聞くかのように聖書を開く人もいるかもしれません。しかし、それは本末転倒です。聖書は、個人の将来を予言する占いや御神籤(おみくじ)ではありません。聖書が明示している「神のみこころ」とは、私たちがどの道を選んだとしても、「その場所でどのように生きるか」という点にあります。テサロニケ人への第一の手紙4章3節に、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」とはっきりと記されているとおりなのです。つまり、どの学校に進学し、どの会社に就職し、誰と結婚したとしても、その置かれた場所で神を愛し、隣人を愛し、キリストの香りを放つ者として聖く歩んでいくこと。それこそが、神が私たちに求めておられる最大の「みこころ」なのです。私たちは選択肢の正解探しに奔走するのではなく、日々、神のことばという真理によって自らを整え、神の子としてのアイデンティティを全うすることに心を注ぐべきなのです。

“神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきま えて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれ ず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。”1テサロニケ4:3-

 私たちは、間違いを犯しやすい存在です。歩むべき方向を誤って選択してしまうこともあります。実際、これまでも多くの誤った選択をしてきました。しかし、そのような私たちであっても、たとえ一度誤った道を選んだとしても、そのまま誤った道を歩み続けなければならないわけではありません。たとえ再び間違った道を選んでしまったとしても、何度でも神の「みこころ」の道へと歩み直すことができるのです。大切なのは、「主の祈り」において、「みこころが行われますように」と祈る前に、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」という祈りが備えられているということです。私たちは神の子とされているのですから、まず神の御名にふさわしく、その御名があがめられることを願い、神の御国のために生きることを求めていくのです。そのように歩もうとするとき、神は「みこころ」のままに私たちの内に働き、神に従い、聖く生きることができるよう導いてくださいます。神は、私たちが「みこころ」が分からないからといって、その場にとどまり、前に進めなくなることを望んでおられるのではありません。むしろ、もっと大胆に、もっと勇気をもって、「お父さん、あなたの御名があがめられますように」「あなたの御国が来ますように」「あなたのみこころを行うことができますように」と祈りつつ、遣わされた場所で大胆に神の子として生きることを願っておられるのです。

“神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方 です。”ピリピ2:13

Author: Paulsletter

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