2月8日メッセージ
小平牧生牧師
「父よ、あなたの国が」
マタイの福音書6章9~15節
「祈りにおいて成長する」という教会の年間目標に基づき、「主の祈り」の一節について、学んでいます。
私たちキリスト者の本質は、「祈り」にあらわされていると言っても過言ではありません。私たちの信仰生活や、キリスト者としての生き方は、「祈り」によるものであり、私たちの働きに関するすべての力も「祈り」から生まれてくるものです。しかし、私たちが祈りによって成長するといっても、そのための秘訣があるわけではありません。私たちにとって、祈りにおいて成長することは、私たち自身が、神の前に出て、祈り続けること以外にないのだろうと思います。しかし、実際に祈るということになると、現実的には、私たちにとって、想像以上に困難であり、神からの力と助けが必要です。私自身も、自分の祈りの乏しさを覚え、祈ることのできない自分に悩み苦しんできました。今もそれは変りありません。祈ろうと決心しても、祈ることができない、祈り続けることのできない自分がいるのです。
最後の晩餐のあと、イエスは弟子たちとともにゲツセマネという園に行かれました。そこでイエスは、これから受ける十字架の苦しみを前にして、深い苦悩の中で祈られました。しかし弟子たちは、眠り込んでしまっていました。イエスは眠っている弟子たちを見つけ、「一時間でも、わたしといっしょに目を覚ましていることができなかったのか」と言われました。
私自身も、弟子たちと同じ者であると思わされます。20年前のクリスマスのとき、「御言葉の栞」を配布するという教会恒例の催しがあり、私のもとにも一枚の栞が配られました。そこには、「絶えず祈りなさい」というテサロニケ人への第一の手紙の御言葉が記されていました。しかし私は、そっと他の栞と取り替えてしまったのです。牧師にあるまじき行為ですが、今ここで悔い改めますので、お赦しください。それほどまでに、「祈り」を一年間の目標にすることは、私にとってハードルが高く、重い目標に感じられたのです。祈りの手応えを感じることができず、祈ることよりも他のことを優先してしまったり、他の奉仕や働きに逃げたりしてしまう、そのような者なのです。
イエスは、「祈るときには自分の部屋に入り、戸を閉めて、ひとりになって祈りなさい」と教えられました。しかし私は、一人になればなるほど、かえって誰かと一緒にいるとき以上に雑念が湧き、他のことに意識が向いて、祈りから遠ざかってしまう弱さを持っています。そんな祈れない私にとって、主イエス自らが教えてくださった「主の祈り」は、本当に大きな助けとなりました。祈るべき言葉を失い、沈黙に耐えかねるとき、私はこれまで何度、この祈りを繰り返し捧げてきたことでしょう。何度も「主の祈り」を唱えるうちに、その一つひとつの言葉が単なる形式ではなく、私自身の祈りの言葉となり、やがて具体的な自分の状況に応じた言葉へと言い換えられていくのを経験しました。先週に学んだ、たとえば、「御名が聖なるものとされますように」という祈りのように、神にふさわしい御名が、私の生活のあらゆる場面で崇められ、称えられることを願う切実な祈りへと変わっていきました。 また、「インマヌエル(神は我らとともに歩まれる)」という約束の御名が、日々の歩みを支える生きた力として現されるよう願うようになりました。たとえ困難な問題に直面し、自分の弱さに打ちひしがれているときでも、「全能者」である主の御名がそのただ中でより大きく現され、主の祈りの一節から始まった私の祈りは、自分の限界を超えて、神の豊かな恵みの深みへと広げられいくようになったのです。
続いて学ぶことになりますが、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りもそうです。ここでイエスが「私」ではなく「私たち」の糧と教えられたことに、深い意味があります。この一節を祈るとき、それは単に自分自身の生活が満たされることだけを願う祈りではなくなります。近隣で食卓を囲む子どもたち、さらには遠く離れた地で貧困や飢餓に苦しむ子どもたちが、空腹を満たされ、安心して暮らすことができるようにという切実な願いへと広がっていくのです。このように、主の祈りの一節が、自分たちの生活と密接に結びついた「生きた祈り」へと変えられるとき、私たちは不思議な経験をします。他者の痛みや必要を自分のこととして覚えることで、主の祈りを起点とした祈りが次から次へと溢れ出し、終わらなくなるのです。もし、今「何を祈ればよいかわからない」と感じている方がおられるなら、まずはこの「主の祈り」から始めてみてください。主が教えてくださったこの言葉を丁寧に辿ることで、あなたの祈りは必ず、神の広い愛へと繋がっていくはずです。
今朝も、先週につづいて、「御国が来ますように」という、「主の祈り」の一節に目を向けたいと思います。
① 神ご自身が治められる国
「御国」とは、私たちが「おとうさん」と呼んで祈る、天の父なる神の支配のことです。イエスはガリラヤで宣教を開始された際、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されました。イエスは「神の国」についてあえて詳細な定義を述べられませんでしたが、この言葉は当時のユダヤ人にとって、旧約聖書の預言の成就を指し示す、きわめて切実な希望のメッセージでした。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、人々は政治的独立の喪失や重税に苦しんでいました。そのため、彼らが待ち望んだメシア(救い主)像は、軍事的にローマを打倒し、エルサレムに地上の王国を再興するという「政治的・軍事的な解放」に強く傾いていたのです。しかし、イエスが示された「神の国」の本質は、場所や領域というよりも、ヘブライ語やギリシャ語が意味する「神の統治・支配」を指しています。
神が造られた被造世界は、本来、神の聖なる主権のもとに祝福が満ちあふれるところでした。神は創造の頂点として、ご自身に似せた「神のかたち」として人間を造り、次のように命じられました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。……すべての生き物を支配せよ」(創世記1:28)。ここで委ねられた「支配」とは、独裁的な搾取ではなく、神の愛と正義を反映する「代理人」としての責任ある管理を意味します。人間は神との正しい関係(義)の中で、被造界全体を神の栄光へと導く役割を担っていたのです。しかし、人間は蛇の誘惑に屈し、「神のようになりたい」という高慢ゆえに神に背きました。これが聖書の語る「罪」の根源です。人間が神の支配を拒み、自らの力を基準として世界を治めようとした結果、調和は崩れ、世界は「神の国(神の統治)」ではなく、利己的な欲望が渦巻く「人間の王国」へと変質してしまいました。その帰結として、争い、憎しみ、そして死が支配する現実が生じたのです。現代における国々の紛争から、個人の人間関係における支配欲の衝突に至るまで、その根源にはこの神への反逆があると言えます。
それでも、神はこのような闇の時代にあってご自身の民を見捨てられませんでした。預言者たちは、神が歴史の主権者として決定的に介入し、すべての悪を裁き、ゆがめられた正義を回復し、全世界にご自身の統治を明らかにされる「主の日」を預言し、切実に待望しました。そして時が満ちたとき、イエス・キリストが登場します。イエスは「時は満ちた。神の国は近づいた」と宣言されました。これは、「待ち望まれていた神の国が、今、まさにここに到来した」ことを示す具体的な宣言だったのです。イエスは、十字架による罪の贖いと復活を通して、死と罪の支配を打ち破り、神の祝福に満ちた本来の支配へと人々を招き入れておられるのです。
「御国が来ますように」と祈ることは、神がこの世界をこのまま放置したり、滅びに委ねたりすることなく、必ず救いへと導かれるという希望を告白する祈りです。すなわち、神がこの世界に介入し、愛と義に満ちた天の父なる神の正しい支配が地上にも実現することを信じ、待ち望む信仰の祈りなのです。そして、この祈りは、私たち自身が自分勝手な支配欲を手放し、自分ではなく神の支配を素直に受け入れることを意味します。自分の思いどおりにしたい領域さえも神に委ねる姿勢が求められています。さらに言えば、神が私たちに委ねておられるのは世界だけではなく、私たちの人生そのものであり、これに伴う能力や時間など、神から預かっているすべてのものです。私たちはこれらを自ら支配しているのではなく、神から託されているにすぎません。そして神は、やがてこの世界を完成へと導かれます。私たちはその時の到来を信じ、待ち望むのです。
「御国が来ますように」という祈りに続く「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」という一節は、主の祈りの中でも特に、神の支配に対する私たちの信仰と、その統治がもたらす究極の回復を具体的に示す祈りです。私たちはクリスマスに、ヘンデルの『メサイア』の「ハレルヤ・コーラス」を歌います。この曲の歌詞は、ヨハネが幻で見た「神の国の完成」を預言する言葉に基づいており、神の支配がもはや隠されることなく、目に見える形で完全に実現する日の喜びを高らかに歌い上げています。
「みこころが地でも行われるように」と祈ることは、この世界にある悲しみが、単なる悲劇で終わらないことを信じることです。それは、やがて神が「彼らの目の涙をことごとくぬぐい去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも叫びも苦しみもない」という約束が、この被造世界のすみずみにまで、神の本来の御心の通りに成就することを熱望する祈りでもあります。したがって、この祈りを捧げる私たちは、ただ未来の完成を待つだけではありません。神の御使いたちが喜んで神に従っているように、今、この地に生きる私たちもまた、神の愛と正義を喜びとして受け入れ、この不完全な世界の中に「神の御心」を少しずつ実現していく歩みへと招かれているのです。
全能の主 治め給わん
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
世の国民(くにたみ) 今や
われらの主に 帰(き)するに及(およ)べり
永遠(とわ)に主 治め給わん
永遠に主 治め給わん
主の主 永遠(とわ)に 永遠に
諸王の王 ハレルヤ ハレルヤ
“御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。” 9-10
“神は人をご自身のかたちとして創造された。…神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」”創世記1:27-
“また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。」…「王の王、主の主」…。” ヨハネの黙示録19:6-
② 神の国の民とされた私たち
このように「御国が来ますように」と祈るのですが、ここで大切なことは、御国を理想の世界のように描き、夢の国の実現を祈っているのではない、ということです。私たちは漠然と期待しているかもしれませんが、神は本気なのです。福音とは、「神の国(神の支配)が到来した」という知らせです。イエス・キリストによって神の国が到来したという知らせこそが、まさに「Good News」なのです。
イエス・キリストが公生涯において最初に語られたのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージでした。人間が罪を犯して神から離れたとき、神は人間をリセットすることを選ばれたのではなく、人間を救済することを決意されたのです。神はアブラハムを選び、イスラエルを選び、救い主イエス・キリストを遣わされました。そして、神の救いのご計画の時が満ちて、「神の国が近づいた」と宣言されたのです。英語訳の聖書では “The kingdom of God is at hand.” と記されています。直訳すれば「手元にある」、すなわち「目の前にある」という意味です。またイエスは、「神の国はあなたがたのただ中にある」とも言われました。イエス・キリストによって神の国が実現するとは、イエスご自身が命をかけて私たちを贖い、神の愛の支配による神の国を実現してくださるということなのです。そのためにイエス・キリストは十字架にかかって死なれ、復活され、私たちは神の子とされ、神の民とされ、神の国の相続人とされたのです。そして同時に、神の救いのご計画はすでに実現に向かって進められています。今、この世界が荒れ果てた姿にあるのは、神の救いの業が行われていないからではなく、まだ完成していないからです。この世界は、生きて働いておられる神のご計画の中にあり、神のご支配の中にあるのです。
「御国が来ますように」という祈りは、「神の支配が実現しますように」という祈りであって、「私たちが神の国に入ることができますように」という意味ではありません。イエスはここで、「失敗せず、無茶をせず、天国に入ることができますようにと毎日祈りなさい」と言われたのではないのです。私たちはすでに神の子とされているのですから、神の国に迎え入れられることは確かなことなのです。私たちの祈りの目的は、自分が確実に神の国に入ることではありません。私たちは神の子、神の民とされ、神の国が完成へと向かっているその只中にあって、神の国のために生きる者とされています。だからこそ、「御国が来ますように」と祈りつつ、待ち望むように召されているのです。キリスト者の目的は、天国に入るための入場券を手に入れ、それを失わないように必死に守ることではありません。私たちが神の子とされたのは、父なる神が一人も滅びることを望まず、救いのご計画を完成させ、神の国を実現しようとしておられるその願いを受け止めるためなのです。私たちは「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈りながら、自分の国を築くのでも、自分の力の及ぶ範囲を広げるのでもなく、神の国のために、自分が置かれている場所で、神の国の民として仕え、与えられた務めを果たしていきます。そのようにして神の治める国が現されていくのです。そのために、私たちは「御国が来ますように」と父なる神に祈る者とされているのです。
“ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」” マルコ1:14-
“このキリストを通して、…あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。” エペソ2:18-
③ 神の国を待ち望んで生きる
前述のとおり、イエス・キリストの公生涯の最初の言葉は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージでした。イエスの宣言が画期的であったのは、この「神の国」の支配が「遠い未来」の出来事ではなく、「いま、まさにここに到来した」と告げられた点にあります。イエスは公生涯を通して、弟子たちの前で病を癒やし、悪霊を追い出し、罪人と食事を共にされました。これらの出来事は福音書に記されており、神の支配がすでに歴史の中に到来していることのしるしでした。
「主の祈り」が記されている山上の説教の中心的テーマは「神の国」です。だからこそ、この説教は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」という言葉で締めくくられています。そこには、「神の国」の民とされ、「御国が来ますように」と祈る私たちの生き方が示されています。また、この山上の説教の冒頭で、イエス・キリストは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と語られました。これは、「神の国」が到来したという宣言の中で示された、新しい生き方(八福の教え)の宣言です。すなわち、八福の教えは、「神の国に生きる人とはどのような人か」という問いに対する説明です。ここでは、天の御国は「心の貧しい者たち」のものであると語られています。ここでいう「心」とは補足的な表現であり、中心は「貧しい」という点にあります。この「貧しさ」とは、経済的な意味ではありません。神がともにおられなければ歩むことができないだけでなく、存在することさえできないという霊的な現実を指しています。すなわち、神との交わりがなければ一瞬たりとも生きることができないという自覚です。この「貧しさ」は単なる謙遜の表現ではなく、神が私たちを支配し導いてくださらなければ生きていけないという真実を示しています。自分の正しさや力によって存在しているのではなく、神の恵みによって生かされているという認識です。言い換えるなら、「貧しさ」とは、自分が空であり、神に依り頼まなければ生きていけない者であるという信仰の姿勢なのです。
私自身のことですが、皆さんが私のために祈ってくださっていることを本当に感謝しています。ニューコミュニティ誌やその他の配布物にも祈りの課題として掲載していただき、覚えて祈っていただいていることは大きな支えです。教団の理事長として前回の任期の最後の年、2019年、ちょうどコロナ禍の前の夏のことでした。定期健診を受けた際に、精密検査を受けるよう勧められていたのですが、それをしばらく放置してしまい、ついにはすぐに検査入院をしなければならないところまで症状が悪化してしまいました。病名は「突発性拡張型心筋症」でした。それ以降、皆さんのお祈りの中で守られてきました。その診断を受けた翌年の春に理事長の任期を終えましたが、その時点ですでに2023年の「日本伝道会議」の実行委員長の務めが与えられており、その務めも2023年の秋に終えることができました。その後、思いがけず2024年の春に再び教団の理事長の職を拝命し、この二年間を歩んできました。そして先週、この二年間の最後の理事会を終えることができました。
この二年間を振り返ると、私自身にとっては、この病気を通して、少し大げさかもしれませんが、人生の新しいフェーズを歩み始めることができたように感じています。それは弱さがなくなったということではなく、弱さとともに歩むことを学ばされたということです。もし自分の力だけで人生を満たそうとするなら、弱さはただの問題として残ってしまいます。しかし私たちは神の子、神の民です。弱さがあり、貧しさがあるからこそ、神の支配なしには生きられないことを知り、神の支配の中で生きる現実をより深く経験することができるのです。2019年、病院での検査結果を家族とともに医師から説明を受け、家に帰りました。その後、自分の病気をインターネットで調べたところ、5年生存率が50%ほどであると知りました。もちろん、現在は良い薬もあり、こうして今日まで守られていますが、その説明を読んだときは心が震える思いがしました。しかし同時に、私は神の子であり、私の身体も心もすべて神の支配の中にあることを、あらためて自覚することができました。そのような病名を告げられると、自分の力では人生も身体も時間も支配できず、管理できない現実を突きつけられます。その中で私は、神の国の民として神の支配の中に生かされていることを経験しました。そして、自分に与えられた務めを喜んで担っていこうと思うことができ、今日に至っています。
私たちはすでにイエス・キリストによって神の民とされています。神を知らなかった時には、すべてを自分の力で築こうとし、ときにはそのために神を利用しようとすることさえあったかもしれません。その結果、心の中で戦い、争い続ける人生であったかもしれません。しかし私たちはイエス・キリストによってすでに救われており、「私たちの国籍は天にあります」とあるように、神の国の民とされています。そして、すでに与えられている救いとともに、これから完成する救いの約束も与えられているのです。
“心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。”マタイ5:3
パウロは、ローマ書8章23節以降において、次のように語っています。すなわち、「救われているのになぜ苦しいのか」という問いに対して、「その苦しみ(呻き)こそが、あなたが本物の救いの完成へと向かっている証しである」と示しているのです。つまり、苦しみは救いの欠如ではなく、救いの完成へ至るプロセスなのです。私自身もこの御言葉を、自らの病を通して深く味わうことができました。2022年の日本ケズィック・コンベンションにおいて、この聖書箇所からメッセージを語らせていただいたことがあります。私たちは本当に自分の限界を知り、自分の力では生き続けることができないと悟るとき、神の力の偉大さを経験します。そして、私たちに与えられている救いの完成は、イエス・キリストが再び来られるときに成就することを知っています。その希望を抱きつつ、今日も「御国が来ますように」と祈りながら待ち望み、歩み続ける神の子とされているのです。この喜びをもって、与えられた人生を前進していきたいと願っています。
“私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです。”ローマ8:23-(聖書協会共同訳)
“しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。”ピリピ3:20
Author: Paulsletter
