1月18日メッセージ
小平牧生牧師
「神の子としての祈り」
マタイの福音書6章5~8節
イエス・キリストが「祈り」について、弟子たちに教えられた箇所を、改めて心に留めたいと思います。
先週も学びましたように、私たちが「キリスト者」であるということは、ヨハネによる福音書に記されているとおり、「その名を信じた人々には、神の子となる特権を与えられた」という約束の中に生きる者とされた、ということです。私たちは自らの功績によるのではなく、ただキリストを信じる信仰によって、すでに神の子としての身分を与えられています。神の子とされた者に与えられた最大の特権とは、万物の創造主であり支配者である神を、「アバ、父よ(お父さん)」と呼ぶことができることです。私たちが父なる神を親しく呼ぶことができるのは、聖霊によって、神の独り子であるイエス・キリストの義が私たちのものとされ、私たちが「子とする霊」を授けられたからです。そして、神に「アバ、父よ」と語りかけること、それが祈りです。私たちは日常の生活の中で、この祈りを通して神との交わりを持つことができます。そのためには、何よりも、一人になって、神と二人だけになる時を持つことが大切なのです。私たちは、いつでも祈ることができ、どこでも祈ることができます。しかし実際には、「いつでも、どこでも祈れる」と思いながらも、なかなか祈ることができないのが現実ではないでしょうか。だからこそ私たちは、意識して一人となり、神に目を向けて祈る時を持ちたいと願うのです。そのとき、父なる神は、私たちのすべての必要を備えてくださるのです。
私自身のことを振り返ると、神が私のことをすべてご存じであるということを、ある時期まではネガティブに捉えていました。つまり、私に関するすべてをご存じであるということは、自分にとって都合の悪いことや、知られては困ること、いやなことのすべてまでもが神に知られている、という意味に思えたのです。知られたくない部分まで知られているのではないかと、気にしていました。ですから、私の祈りは、神に知ってほしいことだけを語る祈りであり、自分の心をすべてオープンにする祈りではありませんでした。自分に必要なときだけ祈り、「私が語りかけるときだけ答えてください」と言わんばかりの祈りだったのです。そのため、神が私の祈りを聞いてくださっているという実感もなく、神に祈っているというより、人に、あるいは自分自身に聞かせるための祈りになっていたのだと思います。ですから私の祈りは、人前で、あるいは自分を納得させるために、どれほど熱心に祈っているか、またどれほど正しく整えられた言葉を使っているか、そうしたことばかりが気になっていたのです。しかし聖書を読むと、そのような祈り以上に大切なことがあると教えています。祈りの言葉が流暢でなくても、また自分自身がどのような状況に置かれていたとしても、私たちのすべてを見ておられ、聞いておられ、知っておられる神が、私たちの必要を満たしてくださることを信じて、神の子として祈ることの大切さを、イエスは教えておられるのです。
今朝の聖書箇所では、私たちが神の子として祈ることができるにもかかわらず、神が聞いておられるという実感を失った祈りについて、イエス・キリストが厳しく諭しておられます。ここでは、「偽善者」(5節)と「異邦人」(7節)という二つのタイプの人が例として挙げられています。しかしイエスは、「偽善者」や「異邦人」が具体的に誰であるかを特定しようとしているのではありません。むしろ、私たち自身の内にも少なからず「偽善者」や「異邦人」のような側面が潜んでいることを示しておられるのです。イエスがあえてこのような例を挙げて教えられたのは、「偽善者」や「異邦人」のように祈るのではなく、「神の子」として祈るように促すためでした。
① 「偽善者」のように、自分の満足をもとめる必要はない
私たちは「神の子」とされているがゆえに、「偽善者」のように自分の満足を求める必要はありません。「偽善者」という言葉は、マタイによる福音書6章の中で何度も登場します。「施しをするとき」(2節)、「祈るとき」(5節)、「断食をするとき」(16節)において、「偽善者のようにしてはならない」と繰り返し用いられているのです。この「偽善者のように」とは、“外面的で人目を意識した信仰のあり方”を指す表現であり、本心と行動が一致していないことを意味しています。本心では、賞賛や評価といった何らかの満足を得ることを目的としているにもかかわらず、外面的には、愛や信仰によって善行を行っているかのように装っている姿を指しています。イエスは、このような当時の宗教的指導者たちの姿を念頭に置いて語られました。イエスの教えによれば、本来は神にささげられるべき尊い行為であった「施し」や「祈り」、「断食」が、見た目には信仰深く敬虔に見えながら、その内心の動機はそうではなかった、ということです。律法学者は、律法に精通し、それを解釈し教えるという優れた能力を持ち、多くの人々から尊ばれる存在でした。またパリサイ人も、律法を厳格に守り、信仰と生活の模範として人々を導く代表的な存在であり、現代の私たちの想像を超えるほど、忠実で熱心な人々であったに違いありません。しかしイエスは、彼らがささげていた「施し」や「祈り」、「断食」が、本当の意味で神に向けられたものではなかったと指摘されました。つまり、その善行の動機が、神の栄光ではなく、自己満足や周囲からの評価といった人間的な満足にあったからです。彼らの善行は、神のためであるかのように見えながら、実際には自分のためのものであり、その関心の中心は神ではなく、自分自身にあったのです。
私自身も、「偽善者」ではないかと問われれば、「偽善者だ」と言わざるを得ません。少なくとも、そのような誘惑は常に自分の内にあります。実際、口にしている祈りの言葉と、ありのままの心との間に乖離が生じているのです。もちろんそれは、私と神との間のことであり、神にしか分からないことではありますが、祈っている最中にそのように感じることが確かにあります。いかにももっともらしい言葉で祈りながら、実は本心ではない祈りを捧げてしまうことが、しばしばあるのです。
では、なぜ自分の内に「偽善」が生まれるのでしょうか。それは、神が自分の祈りを聞いてくださっているという実感が乏しいからです。そのリアリティが強ければ、人がどう思うか、あるいは自分がどう思われているかということに意識が向くことはないはずです。人からの手ごたえによって自分の心を満たす必要はなく、「神の子」として、父なる神との親密な交わりによって心を満たすことができるからです。私たちには、多かれ少なかれ人の目を気にする性質があります。その人の目を意識するあり方が、教会における互いの交わりの在り方にも影響を及ぼしているとするならば、私たちは、人の視線に過度に縛られることなく、神を見上げて歩むことのできる交わりを育んでいく必要があります。そのようなコミュニティへと成熟していくことを、心から願っています。各々がそのようなプレッシャーを感じることなく、「神の子」として、真実に礼拝を捧げる者でありたいと思うのです。
“また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂 や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼ら はすでに自分の報いを受けているのです。” 5
“あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは 断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたが たに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。”16
② 「異邦人」のように、自分の力や熱心さに頼る必要もない
7節には、「同じことばをただ繰り返してはいけません」とあります。ここで言われている「同じことばをただ繰り返す」という表現は、新約聖書ではこの箇所にしか用いられていないギリシャ語です。この語には、「意味のない音をだらだらと発すること」や「呪文のように無機質な言葉を並べること」といったニュアンスがあります。したがって、この箇所は「長い祈りそのもの」や「同じ内容を繰り返し祈ること」を否定しているのではありません。むしろ、同じ言葉を呪文的に反復したり、異邦人のように「多く語れば聞き入れられる」と考えたりする態度、すなわち長く唱えれば神が動かされるという発想を否定しているのです。つまりイエスは、空疎で中身のない言葉を機械的に反復する祈りではなく、真実な心をもって神に向かう祈りへと導こうとしておられるのです。ここで登場する「異邦人」とは、「神の民ではない者」、すなわち「神を信じていない人たち」を指します。言い換えれば、人間が造った神々を拝んでいる人たちのことです。造られた偶像の神々は、私たちのすべてを知っておられる存在ではありません。イエスは、生きておられる真の神を信じる私たちが、異邦人が偶像の神々に祈るような祈りを、生ける神に対してしてはならないと教えておられるのです。
基督兄弟団は、「祈る群れ」と呼ばれるほど、祈りに熱心な教団でした。しかし、その祈りの姿勢の中には、「熱心に祈ること」そのものに過度に注視していた側面があったのではないかとも思います。私自身、聖書学院在学中には、誰よりも早く起床し、誰よりも長く祈ることが良しとされていました。しかし、正直に言えば、長時間祈り続けることには限界があります。やがて祈りは、意味の分からないことばを「ぶつぶつ」と繰り返すだけのものになってしまいました。つまり、私の祈りは、長く、熱心に祈っているかのように装った祈りだったのです。名誉のために付け加えておきますが、すべての祈りがそのようなものだったわけではありません。もちろん、神に心を向け、自分のことばで真剣に祈る祈りも確かにありました。
“また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、こ とば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはい けません…” 7-
ルカによる福音書18章9節から14節には、自分を義人だと自負する人々への戒めとして「パリサイ人と取税人のたとえ」が記されています。ここでは、宗教的に非のうちどころがないはずの「パリサイ人」の祈りが描かれています。彼の祈りは、一見神を賛美しているようですが、その実、心の中で自分自身に向けて語るものでした。彼は「私は他の人々のような強欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、またこの取税人のようでもないことを感謝します」と、多くの言葉を費やして自分の正当性と宗教的業績を並べ立てました。それに対して、「取税人」は遠くに離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いてこう言いました。 「神様、罪人の私をあわれんでください」 彼は、神の前にありのままの自分の姿をさらけ出し、ただ一言、神の慈悲にすがったのです。聖書的視点からすると、全知全能の 神は取税人が罪人であることをすでにご存じです。同時に、パリサイ人が隠している心の傲慢もご存じです。ですから、パリサイ人のように自らの義を証明するために長々と説明する必要も、また逆に、赦しを得るために自分の罪を過度にひけらかす必要もありません。イエスが語られたように、私たちは「異邦人」のように、言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んで、同じ言葉を空虚に繰り返す必要はありません。天の父は、私たちが願う前から、何が必要であるかをご存じだからです。私たちはしばしば、他人の評価や自己満足という「手ごたえ」を求めて、敬虔を装った多くの言葉を語ってしまいます。しかし、神が求めておられるのは、飾られた言葉ではなく、取税人が見せたようなへりくだった悔い改めの心です。聖書は、自分の正しさを並べ立てたパリサイ人ではなく、自分の非力を認めて神の憐れみを求めた取税人こそが、「義とされて家に帰った」と記しています。私たちは、偽善者のように人の目を意識したり、異邦人のように形式的な長文に頼ったりするのではなく、ただ、真実をもって神の前に立つことが求められているのです。
“パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪 い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを 感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げて おります。』一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたた いて言った。『神、罪人の私をあわれんでください。』” ルカ18:11-
③ 父なる神への完全な信頼をもって
なぜキリスト者は、「偽善者」や「異邦人」のように祈ってはならないのでしょうか。それは、私たちが生ける神を真の神として信じているからです。私たちは神の子とされているからです。神を知らない人々は、祈る言葉を整え、言葉数を多くすれば神に聞き入れられると思っているかもしれません。しかし、「神の子」である私たちが持つ確信は、父なる神が、私たちが求める前から、すでに私たちに必要なものを知っておられる、という点にあります。父なる神は、私たちの罪深さも正しさもすべてをご存じであり、また私たちの必要を満たすことをためらわれるお方ではありません。私たちが神に祈るのは、神が私たちの必要を知らないからではありません。先週も学びましたが、「祈り」とは、神に情報を伝えるためのものではなく、神との交わりそのものなのです。神は私たちのすべてをご存じのうえで、それでもなお、私たちが神に顔を向け、祈り求めることを願っておられます。私たちが神を信じて求めることを、神はすでに知りつつ、待っておられるのです。父親は子どもの必要をよく知っていますが、それでも子どもが自分から呼びかけてくるのを待ちます。同じように、神は、私たちが御前に進み出て、願い、訴え、時にはねだる声を上げるのを待っておられます。私たちは、神に悩みや問題を語ることによって、思い煩いから解放されていくのです。子が父にありのままの思いを語るとき、父はその声に耳を傾けます。なぜなら、父は子どもを愛しているからです。神もまた、私たちとそのような愛の関係を築こうとしておられます。そのために、私たちが一人静まり、神に顔を向けるときを、父なる神は忍耐をもって待っておられるのです。
“ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前 から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。” 8
最後に、今週も皆さんの生活の中で、ひとり静まる時間をもち、神を思いながら、神に顔を向けて、「お父さん」と呼びかけて祈ってみてください。そこから、「神の子」としての私たちの生き方が始まっていくのです。どうか、恐れずに、「お父さん」と呼びかけてみてください。
“ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。あなたの名が…、あ なたの国が…、あなたのみこころが…』” 9-
Author: Paulsletter
