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「神と二人だけに」

2026 1/11
メッセージを読む
2026年1月11日

1月11日メッセージ
小平牧生牧師
「神と二人だけに」
マタイの福音書6章5~8節

 キリスト者であるとは、ヨハネによる福音書が語るように、「イエス・キリストを受け入れ、その名を信じた人々には、神の子となる特権が与えられた」という事実の中に生きる者とされた、ということです。つまり私たちは、すでに神の子としての身分を与えられているのです。神の子とされた者に与えられた特権とは、万物の創造主であり支配者である神を「お父さん」と呼ぶことができることです。私たちが父なる神を「お父さん」と呼べるのは、まさに神の子としての資格を与えられているからにほかなりません。

 今日、私たちはごく自然に「天のお父様」と祈り始めることができます。しかし、イエス・キリストがこの祈り方を教えられた当時、それは決して当たり前のことではありませんでした。当時のユダヤの人々にとって、神は「主の名をみだりに唱えてはならない」と戒められるほど畏れ多い存在だったからです。そのような状況の中で、イエスが父なる神に向かって「アバ、父よ」(お父ちゃん)という親しい呼びかけを用いられたことは、ユダヤの人々にとって不敬虔であり、到底受け入れがたい驚きであったはずです。しかしイエスは、御子として父なる神を呼ぶその親密な呼びかけを、信じる私たちにも分かち合ってくださいました。この特権は、イエス・キリストが十字架の上で父なる神から見捨てられ、私たちの罪のために裁きを受けられたことによって与えられたものです。だからこそ私たちは、この尊い犠牲によって与えられた「神の子」という身分を、もっと大胆に、あるいは「図々しい」と思えるほど親密に受け取ってよいのです。この特権を存分に生きることこそ、神が最も喜ばれることなのです。

 このような親密な交わりこそが「祈り」の本質であり、キリスト者の歩みは何よりもこの祈りの中に表されます。主イエス・キリストは、弟子たちに祈りの真髄を教えてくださいました。先週に続いて読んでいただいたマタイによる福音書6章5〜8節には、イエスが示された祈りの第一歩が語られています。そこには、「このように祈りなさい」と導かれる「主の祈り」へと続く教えが記されています。私たちは、しばらくの間、この祈りについて共に学んでいきたいと願っています。今朝の聖書箇所で特に注目したいのは、イエスが弟子たちに最初に教えられたのが、祈り方や祈りの言葉そのものではなかったという点です。イエスがまず示されたのは、神と二人きりになるという祈りの姿勢でした。すなわち、一人になることです。

目次

① ひとりとなる

 イエスは6節において、祈るときには自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられる父なる神に祈りなさい、と言われました。私たちは祈るとき、どのように祈ればよいのか、どのような祈りの言葉を用いればよいのかを知りたいと思いがちです。もちろん、そのような祈り方や祈りの言葉も大切です。しかしイエスは、それら以前に、もっと大切なことがあると言われるのです。ここには、「家の奥の自分の部屋に入りなさい」、そして「戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とあります。「家の奥の自分の部屋」とは、自分だけの空間ということです。誰にも割り込まれない場所、そこで神とお会いする場所、という意味です。ある英語の翻訳では、“enter into thy closet” と記されています。“closet” とは、衣服を収納する小部屋や押し入れを意味します。そこは誰も入ってこない場所であり、それどころか光さえ入ってこない場所です。光が入ってこないということは、自分の姿さえ見えない場所だということです。そのような空間に入り、一人になりなさい、というのです。「一人になりなさい」というのは、そこには神がおられ、神と二人だけになる、ということです。そして、その間に割り込ませるものがあってはならないのです。奥まった空間に入り、戸を閉めて、内と外を遮断するということです。これは、考え方によっては、ある意味で贅沢な空間だと言えるかもしれません。ある人は、お金に余裕があれば、お金を支払ってでも、一人になるための時間と空間を確保します。それが自分にとって必要だと知っているからです。私たちは、いつでも祈ることができ、どこでも祈ることができます。しかし実際には、「いつでも、どこでも祈れる」と言う人ほど、あまり祈らない、あるいは祈れない、ということもあります。やはり、きちんと自分の空間を確保することが、祈るためには必要なのです。あえて一人になるということは、祈りだけでなく、人生のすべてにおいて、時間と場所を確保するということです。そのような生き方を選ぶ、ということなのです。私自身も、責任ある務めを担い、考えなければならないこと、決断しなければならないことがあるとき、出張先での宿泊を一日延ばし、一人だけの時間と空間を確保することがあります。そのようにして、自分自身を一人にするための時間と場所を、意識してつくり出すのです。繰り返しますが、祈ること自体は、いつでも、どこでもできます。しかし人生には、本当にすべてのことを後回しにして、家族のため、教会のため、社会のために、真剣に神と向き合い、「祈らなければならないとき」があります。そのために私たちは、祈る前に、戸を閉め、外と内を遮断しなければならないことがあるのです。

 以前は、自分の部屋に入りさえすれば、外を遮断することができたかもしれません。しかし今では、自分の空間、たとえば寝室にスマートフォンがあり、外からの情報が入り込み、私たちの内側にまで割り込んでくることがあります。その意味では、イエスが言われたような「家の奥の自分の部屋」は、もはや存在しないのかもしれません。しかし問題は、物理的な環境以上に、私たち自身が本当に一人になって神に祈ることを願い、その場所を求めているかどうか、ということです。私たちの中には、「あの人のように、自分の時間や場所がほしい」と願っている人もいるかもしれません。しかし一方で、実際には一人になることに耐えられず、何かに依存していなければいられない人もいます。戸を閉めることが怖くて、帰宅するなりテレビのスイッチを入れ、寝るまでつけっぱなしにし、スマートフォンを片時も離さず、目の前に置いたまま電源を切ることができない。そのようにせざるを得ない社会に、私たちは生きているのです。そのことを、まず自覚しなければなりません。私たちは、気づかないうちに、祈りを妨げられ、多くの大切なものを奪われているのかもしれないのです。だからこそ、このような社会に生きている私たちにとって、あえて一人になることが大切なのです。私たちは、さまざまなものに囲まれ、それらを手放して生きることができなくなっているのかもしれません。しかし、一人になるための時間と場所を意識して確保し、イエスがそうであったように、あるときには親しい人と距離を置き、一人となって神と向き合うことが大切なのです。それこそが、祈りの時なのだと、イエスは教えておられるのです。一人静まって、神のことを思い、ゆっくり息を吸って吐き、神を意識しながら、「アバ、父よ」と声に出して祈るとき、私たちは神の子として、再び生き返ることができるのです。

 旧約聖書には、イスラエル民族の始祖であり「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが登場します。彼が九十九歳になったとき、主は彼に現れ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と語り掛けられました。これは、神がアブラハムと新しい契約を交わされる直前の、極めて重要な場面です。ここで「わたしの前」と訳されているヘブライ語は、直訳すると、「わたしの顔の前に」という意味です。つまり、神はアブラハムに「わたしの顔を仰ぎ、わたしの眼前を歩き続けなさい」と招いておられるのです。「神の面前」を歩むとは、常に神の視線を意識し、その圧倒的な臨在の中に身を置くことを意味します。最近ではインターネットを通じた「オンライン」に対し、直接会うことを「対面」と呼びますが、信仰の本質もまた、神との「対面」にあります。私たちは時に、神を遠く離れたところから呼び掛けてしまうことがあります。しかし、神が求めておられるのは、顔と顔を合わせて向き合う親密な関係です。それは、幼子が父親の顔をじっと見つめ、「お父さん」と全幅の信頼を寄せて呼び掛けるような距離感です。全能なる神を知るためには、まず自分自身を「神の顔の前」に置かなければなりません。この意識は、私たちの礼拝や祈りの姿を根本から変えるものです。 礼拝において、私たちは大勢の会衆の一人として賛美を捧げているかもしれません。しかし、その群衆の中にありながらも、心は神と「一対一」で向き合い、神の御顔に視線を注いでいるでしょうか。祈りにおいても同様です。祈りの言葉を並べる前に、まず「私は今、全能なる父の御顔の前に立っている」という事実に立ち返ること。隠れた所におられる父と二人きりになり、その眼差しを意識すること。それこそが、神が喜ばれる祈りの第一歩であり、信仰者の歩みの原点なのです。

“あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところ におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの 父が、あなたに報いてくださいます。” 6

“しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時 です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は 霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」” ヨハネ 4:23-

② 私たちの目を神に向けるために

 神の面前で、神と「一対一」で向き合うことが、なぜ大切なのでしょうか。それは、私たちが神に目を向けるために必要なことだからです。神の前に一人になるということは、神に心を向けるための備えなのです。一人になるということは、最終的に孤独に生きるということではありません。むしろ、人々の中へ出て行くその前に、まず神の前に身を置き、一人になるということです。

 第二のポイントは、神の前に一人になることをさらに深め、私たちの視線を人から神へと向け直す、ということです。マタイによる福音書6章1節を見ると、「人に見せるために、人前で善行をしないように気をつけなさい」とあります。ここで言われている善行とは、この後に登場する、「施し」、「祈り」、「断食」といった行為を指しています。これらの行為の本来の目的は、「隠れたところにおられる父なる神との、個人的で親密な関係」を深めることにあります。ですから、本来の目的からすれば、これらは人前で行うべきものではありません。そのためイエスは、「しないように気をつけなさい」と、はっきりと教えられたのです。

 イエスは、私たちの弱さや、容易に人の目へと向かってしまう傾向を見抜いて、このように語られました。この善行についての教えは、2節以降にも続きます。2節から4節では「施し」について、5節から15節では「祈り」について、16節から18節では「断食」について語られています。これらの箇所を注意深く読むと、いずれも共通して、まったく同じ趣旨の言葉で締めくくられていることに気づかされます。それは、本来、神との間で個人的に、親密に行われるべき善行を、人に見せるために行うならば、その人はすでに自分の報いを受け取っている、ということです。すなわち、「人に見せるために」善い行いをした人は、その瞬間に「他人からの称賛」という対価を受け取ることはできるかもしれません。しかしその代わりに、神から受け取るべき報いを、天に宝として蓄えることはできない、ということなのです。

 私たちは、いったい誰の目を意識して生きているのでしょうか。それは「祈り」だけの問題ではなく、私たちの信仰生活のすべてに関わる問題です。私たちの「祈り」や「施し」は、本来、神にささげられるべきものです。そのことは、私たち自身もよく分かっているはずです。しかし実際には、私たちはどこまでも人の目を意識してしまいます。人にどう見られているか、どう思われているか、どのように評価されているかが、気になってしまうのです。「施し」の場面では、人にほめられたいがために、会堂や通りで施しをする偽善者の姿が語られています。また、祈るときには、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈り、断食のときには、いかにも断食しているかのように顔をやつすのです。これらはすべて、人の目にどのように映るかを意識し、神の目ではなく、人の目に心が向いている姿です。しかも、その「人の目」には、他人の目だけでなく、自分自身の目も含まれています。問題は、「祈り」や「施し」、「断食」だけにとどまりません。教会での礼拝や奉仕、さらには献金に至るまで、私たちは知らず知らずのうちに、人の目や自分の目を意識することが当たり前になっているのです。イエスは、そのような在り方に対して、注意を促しておられます。私たちは常に、自分が誰の目を意識して生きているのかを、問われているのです。

 繰り返しになりますが、「祈り」や「施し」、「断食」といった善行は、本来、神との間で個人的に、親密に行われるべきものであり、人前ではなく、隠れたところで行われるべきものです。もちろん、人前で祈る祈りもあり、人前でなすべき善い行いもあるでしょう。しかし大切なのは、実際に人に見られているかどうかではなく、神に目が向けられているかどうか、ということなのです。そのように考えると、結局のところ問題は、私たちが神をどのように捉えているか、という点に行き着きます。人の目が気になるということは、人が見ているという現実的なリアリティはあっても、神が見ておられるというリアリティが、私たちの中に欠けているということだからです。この世には、真の神を主とするのではなく、自分の願いや望みをかなえるために祈る宗教もあります。また、人の目を意識し、他の人と同じであるために、形式的に祈ることもあるかもしれません。しかし私たちは、生きておられる神に語りかけ、祈っているのです。私たちは、神がどのようなお方であるかをどう考えるかによって、自分自身がどのような存在であるか、また自分の価値をどのように理解するかが決まってきます。人間が造り出した、命のない神に祈っているなら、人間の価値もまた、その程度のものとして捉えられてしまうでしょう。26節の御言葉を引用しましたが、「空の鳥を見なさい」とあるように、全知全能で生きておられる神を礼拝しているということは、その神が、礼拝している私たち一人ひとりを、最も価値ある、高価で尊い存在として受け止めてくださっている、ということです。私たちは、神に顔を向けることのできる存在として、神に受け入れられているのです。私たちを創造し、尊いものとして見てくださっている神は、私たちを愛し、御子イエス・キリストを与えてくださいました。そして、私たちを神の子としてくださったのです。そのような神ご自身が、私たちの祈りに応えてくださるのです。

“また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂 や大通りの角に立って祈る…” 5、2、16

“空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、 あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値 があるではありませんか。…” 26

 ③ 祈りが応えられることを知るために

 私たちは、神の前に一人となり、目を神に向けることが大切です。それは、私たちの祈りが応えられること、そしてすでに応えられていることを知るために必要なのです。6節の後半には「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」とあります。つまり、目には見えなくても生きておられる神を現実の方として覚え、神に集中して祈る祈りは、必ず応えられるということです。神との一対一の交わりの中で心を向けて祈るとき、神はその祈りに耳を傾けてくださいます。神は、私たちが真心から語りかける祈りを決して軽んじられません。私たちは神の姿を目で見ることはできませんが、一人静まり、神に心を向けて語りかけるとき、その祈りは確かに神に届きます。そして、生きておられる神は、その祈りに必ず応えてくださるのです。イエスは「父なる神は、あなたがたがお願いする前から、必要なものを知っておられる」と語られました。ある人は「神がすべてをご存じなら、祈る必要はないのではないか」と思うかもしれません。しかし、祈りとは神に情報を伝えるためのものではありません。祈りとは、神との交わりそのものなのです。神は私たちのすべてをご存じであり、そのうえで私たちが神に顔を向け、祈り求めることを願っておられます。私たちが神を信じて求めることを、神は知ったうえで待っておられるのです。神は私たちの「お父さん」です。父親は子どもの必要をすべて知っていますが、それでも子どもが自分から呼びかけてくるのを待っています。願い、訴え、ねだる声を待っているのです。なぜなら、父は子どもを愛しているからです。神もまた、私たちとのそのような愛の関係を築こうとしておられ、私たちが一人静まり、神に顔を向けることを待っておられます。

 皆さんは、一人になって神の前に顔を向けているでしょうか。「お父さん」と呼びかけながら、願いや望みを語るように祈っているでしょうか。神は、あなたが近づいてくるのを待っておられます。そのような祈りの生活を、私たちは築いていきたいのです。どのような言葉で祈るかは問題ではありません。一人静まり、心を神に向ける祈りに、共に取り組んでいきましょう。 

“ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前 から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。” 8

“これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべ てが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。” 32

Author: Paulsletter

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