6月29日メッセージ
小平牧生牧師
「仕え合う文化をつくろう」
(教会創立記念日礼拝)
マタイの福音書20章24~28節
現代経営学者ピーター・ドラッカーは、著書『非営利組織の経営』の中で次のように述べています。
「非営利組織とは、一人ひとりの人間と社会を変革する存在である。したがって重要なのは、どのようなミッション(使命)が有効であり、どのようなミッションが無効であるかを見極めることである。」
ここで言う「非営利組織」とは、単にNPOだけを指すのではなく、大学、学校、病院、そして教会なども含まれます。ドラッカーは、教会がどのようなミッションを果たすべきか、またそのミッションをいかに定め、組織内で共有していくかが極めて重要であると語っています。まさにそのとおりで、教会という組織には、そこに集う人々、あるいは何らかの形で関わる人々の数だけ、教会に対する期待や願いがあります。一人ひとりが異なる理想像を抱き、それぞれに「教会とはこうあるべきだ」という思いを持っています。だからこそ、教会が一つの組織として健全に機能するためには、共通のビジョンを明確にし、それを組織全体で共有することが不可欠です。そうでなければ、教会の実体はちぐはぐで統一感のないものになってしまうでしょう。
旧約聖書・箴言29章18節には、「幻がなければ、民は好き勝手に振る舞う」と記されています。この聖句が示すように、明確なビジョンは共同体にとって不可欠なものです。私たちは毎年、教会の創立記念礼拝に集い、教会にとって最も大切なものを再確認しています。それは何よりもまず、教会に対するイエス・キリストのビジョンです。イエス・キリストのビジョンとは、教会が「互いに愛し合い、仕え合う、主の弟子として招かれた者たちの生きた交わりの場」であるということです。このビジョンは単なる理想ではなく、私たちが神のうちにとどまることによって現実のものとなります。ヨハネが「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです」(ヨハネの手紙第一 4章7節)と語っているように、神ご自身が愛の源です。そして、この神の愛が私たちを通して現れるとき、真の共同体が築かれていくのです。
私たちはこの聖書の真理を共に確認し、主の聖餐にあずかることを願っています。主の食卓にあずかるということは、キリストの愛と犠牲を覚え、私たちがキリストのからだの一部として生きることを再確認する機会なのです。
① イエス・キリストが愛されたように私たちも生きよう
弟子たちはイエス・キリストに従ってはいましたが、この時点では、イエスの十字架の死や復活の意味をまだ完全には理解していませんでした。彼らの行動の背後にあった主な動機は、内に潜む人間的な価値観や世俗的な願望でした。特に関心が向けられていたのは、「誰が弟子たちの中で一番偉いのか」という点です。これは、彼らが自らの地位を高めたいと考えていたことを示しています。実際、今日の聖書箇所より数章前のマタイによる福音書18章1~4節では、弟子たちが「天の御国では誰が一番偉いのか」と尋ねたのに対し、イエスは一人の幼子を呼び寄せ、「幼子のようにならなければ、天の御国に入ることはできない」と教えられました。ここで言う幼子とは、社会的な力を持たず、自立もできない存在です。イエスは、弟子たちが抱いていた価値観とは全く異なる、神の国の基準を示されたのです。すなわち、自分の無力さや小ささを認め、神の前にへりくだることが大切であると教えられました。「幼子のようになる」とは、自らの高慢やプライドを捨て、自己中心的な思いを手放すことです。自分を「偉い」や「優れている」と考えるのではなく、神の御前で謙遜になることが求められているのです。そして、マタイによる福音書20章20~28節でも、同じ問題が浮き彫りになります。十二使徒のうちのヤコブとヨハネの母がイエスのもとに来て、「御国で、私の二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるようにしてください」と願い出ました(20節)。これは、彼らに最高の地位を求めた願いでした。この言葉を聞いていた他の弟子たちも腹を立てたと記されています(24節)。つまり、他の弟子たちもまた同様に、出世や権力への欲望を抱いていたということです。この時点での弟子たちは、まだ神の国の本質を十分に理解しておらず、信仰的に未成熟な段階にあったと言えるでしょう。
そのような状況の中でイエスが語られたのが、マタイによる福音書20章28節の御言葉です。「人の子」とは、イエス・キリストご自身を指します。イエスは、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人の贖いの代価として自分の命を与えるためである」と宣言されました。この言葉は、イエス・キリストが、権力や名誉を求める世俗的な価値観とはまったく異なる、仕えることを尊ぶ神の国の価値観を体現しておられることを示しています。イエスは、仕えられるためではなく、すべての人々の罪の贖いのために、ご自身のいのちを差し出すという、究極の自己犠牲の模範を示すために来られたのです。そしてイエスは、弟子たちにもまた、自らの模範にならい、「仕える者」として生きるよう教えられたのです。
私たちの教会が掲げているビジョンは、イエス・キリストの弟子として、神の愛に生き、聖霊によって互いに愛し合う交わりを築いていくことです。このビジョンは、牧師やリーダーだけのものではなく、教会員一人ひとりが共有し、目指す目標です。そしてこれは、教会内にとどまらず、家庭でも、職場や地域社会でも、どんな場においても、イエス・キリストが人々に仕えたように、私たちも互いに仕え合いながら生きていくことを意味しています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエス・キリストの戒めは、神の御位を捨てて人となられ、十字架の死にまで従われた犠牲的な愛を模範としています。これは、自分の立場やプライドを捨てて、お互いのために自分を差し出すようにという命令です。このように生きるために、私たちが心がけるべきことが次のポイントです。
“人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。” 28
“わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。” ヨハネ15:12
② 愛を妨げているものを捨てよう(腹を立てる、横柄なふるまい、権力をふるうなど)
イエス・キリストの弟子として生きることは、非常に高い水準が求められることであり、現実的には容易ではない目標です。確かに、私たち自身の力だけでは、それを完全に成し遂げることはできません。しかし、だからといって諦める必要はありません。私たちにできることがあります。それは、イエス・キリストの教えから学び、その生き方を心から受け取り、自らの歩みに少しずつ適用していくことです。 イエスは「互いに愛し合いなさい」という教えを語られる際、当時の人々の具体的な姿を例として用いられました。その姿は弟子たちの姿でもあり、それはまた、今を生きる私たち自身の姿でもあるのです。
イエスはこう言われました。「異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっていますが、あなたがたの間では、そうであってはなりません」(マタイ20:25–26)。ここで言う「異邦人」とは、信仰を持たない一般の人々を指し、「支配者」とは、その社会の権力構造の中で人々の上に立つ立場にある者を意味します。イエスは、このような世俗的な権力構造と、それに基づく支配の姿勢を、将来教会のリーダーとなる弟子たちに対比させながら語られたのです。つまり、弟子たちは当時、なおこの世の価値観や願望に影響されていたため、イエスは彼らに「そうであってはならない」と諭されたのです。同様に私たちも、教会の内外を問わず、軽く扱われたり、無視されたりすると、機嫌を損ねたり、腹を立てたりしてしまうことがあります。これは、横柄な態度や支配的な振る舞いと表裏一体の行為であり、私たちの中にも同じような罪の性質が潜んでいるということを示しています。
私たちは、イエス・キリストの弟子として、イエス・キリストの愛に生きることを共通のビジョンとして掲げています。これは、現代社会においては受け入れがたい価値観であるかもしれません。それでも、私たちは、イエス・キリストのように生きることができるかどうかを問われているのです。人間にとって最も分かりやすい動機付けは、いわゆる「飴と鞭」のように、褒美や報いが与えられたり、逆にそうしないとペナルティを課されたりすることかもしれません。しかし、私たちは、そのような外的な動機付けではなく、イエス・キリストの十字架の愛という究極の動機付けによって、それらを払拭することができるのです。霊的に未熟なうちは、褒美や報いを求めて行動する傾向があるかもしれません。しかし、霊的に成熟していくということは、何か褒美や報いがあるから神に従うというものではありません。むしろ、たとえ従うことで苦難の道を通ることになったとしても、イエス・キリストの愛に応え、イエス・キリストのように生きていこうと決意することが大切なのです。私たちの愛の源は神の愛にあり、私たちは、自分自身を捧げることも惜しまず、この神の愛を自らの動機付けとしていくことができるのです。
イエス・キリストの弟子として生きるためには、私たちの内にある怒りや高ぶりといった、愛を妨げるものや神との関係を阻むものを捨て去る必要があります。そのためには、イエス・キリストの十字架によって聖別していただくことが不可欠です。私たちの自己中心的な性質、すなわち「古い人」は、キリストと共に十字架につけられ、新しい命を生きる者とされたのです。私たちは、イエス・キリストに従っていくために、愛を妨げているものを十字架につける決心をしなければなりません。それは、自己中心的な願望や世俗的な価値観、そして神の愛に応えることを阻むすべてのものを捨てることです。
“ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。…” 24-
③ この世にあって仕え合う文化をつくっていこう
イエス・キリストが教えられた「皆のしもべとなる」という生き方(マタイによる福音書20章26節)は、外から見ただけでは、その真の動機を見分けることは難しいかもしれません。弟子たちも、一見するとイエスに従っているように見えましたが、その内側には、「誰が一番弟子か」「誰が最も偉いのか」といった人間的な動機があったのです。教会においても、外見上は従順に、忠実に、あるいは献身的に仕えているように見えるかもしれません。しかし、その内心は人の目には映らず、報いや評価を動機としている場合もあれば、キリストに従う喜びそのものを原動力としている場合もあります。この二つの違いは、すぐには表面化しないかもしれませんが、やがて時が経つにつれて、明らかな違いとなって表れてきます。
真にイエス・キリストに従おうとする人生は、たとえ苦難の道を通ったとしても、神によって豊かに用いられるものです。そのような神の導きの中で、私たちは「しもべとして生きる」ことを目指しています。これは、単なる個人的な倫理や道徳の目標ではありません。イエスが「異邦人の支配者たち」との対比の中で示されたように、弟子たちが目指すべき「すべての人に仕える」生き方なのです。それは、教会という共同体全体が追い求めるべき生き方であり、在り方であり、目標でもあります。イエス・キリストがご自身の命を十字架に捧げられたように、私たちも人々のしもべとして仕える者でありたいと願います。もちろん、それは私たち自身の力だけで成し遂げられるものではありません。しかし、キリストの愛によって互いに愛し合い、支え合いながら、共に教会を建て上げていくことができます。そして、私たちが遣わされていくあらゆる場において、神の恵みと祝福が広がっていくことを願いつつ、仕えていきたいと願っています。
“…あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。” 26-
Author: Paulsletter
