「神が結び合わせた結婚」

6月23日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「神が結び合わせた結婚」
(イエス・キリストの生涯⑨)
マタイの福音書 19 章3~9 節

 バプテスマのヨハネが投獄された直接の理由は、ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の息子でガリラヤの領主)の結婚を公然と批判したことです。もともとアンティパスの異母兄弟ピリポとヘロデヤは婚姻関係にありましたが、ヘロデ・アンティパスとヘロデヤは恋愛関係になり、ヘロデヤがピリポと離婚してヘロデ・アンティパスと結婚したことが発端です。この結婚と離婚がユダヤ教の律法に反しているとして、ヨハネがそれを批判したことでヘロデヤの反感を買い、ヘロデ・アンティパスをそそのかしてヨハネを投獄させ、最終的に処刑させました。

 パリサイ派の人たちは、イエスを陥れるために離婚に関する質問をしました。彼らは、イエスがどのように答えるかによって、ヨハネと同様に捕らえられて処刑されることを期待していたのです。モーセの律法(申命記24章1-4節)には、妻に何か恥ずべき理由があった場合、離婚状を書いてその妻に渡し、彼女を家から去らせることができるとの規定がありました。その正当な理由に関する解釈については、ラビ(ユダヤ教の教師)の間でも論争がありました。すなわち、「恥ずべき理由」を狭義に解釈するか広義に解釈するかで見解や立場が分かれていたのです。

 当時、パリサイ派の律法解釈に大きな影響を及ぼしていた学派にシャンマイ派とヒレル派がありました。シャンマイ派はヒレル派に比べてより厳格な立場をとったとされています。具体的には、シャンマイ派は性的不一致や宗教的不一致以外では離婚を認めない立場をとり、ヒレル派はどんな些細な理由でも離婚できるとする立場でした。さらに、夫側の再婚についても細かな規定がありました。パリサイ派の人たちは、イエスが離婚に関してどのような立場を取るのかを試そうとしたのです。

 パリサイ派の人たちから離婚について問われたイエスは、創世記2章24節を引用して答えました。この箇所は、神が定めた結婚の意義と本質を端的に表したものであり、ユダヤ教やキリスト教の結婚観の基盤となっています。そこで、今朝はイエス・キリストの言葉と聖書に基づいて、結婚の本質、夫婦の関係、そして神の結婚に対する御心について考察していきたいと思います。

① 結婚は、神からはじまります

 神は天地創造の中で、男と女を御自身の姿に似せて創造されました。神はアダムの肋骨からエバを造り、アダムの伴侶としてエバを与えられました。二人は互いに相応しい存在として造られ、結婚という形を神によって定められました。創世記2章24節には、結婚に関する三つの要素が記されています。男は父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるということです。イエスはこの三つの要素に着目して答えられました。それは、結婚に関する聖書に記載された事実であり、解釈ではありません。

 結婚とは、互いに忠誠を誓い、愛を貫くことを公に約束するものであり、これは単なる二人の間の契約ではなく、神によって深く結びつけられたことを意味します。結婚するから幸せになるわけでもなく、幸せな人が結婚するから幸せになるわけでもありません。現実として、4組のうち1組は離婚するという事実もそのことを物語っているかもしれません。

 誤解を恐れずに申し上げます。問題は、自分自身のことを過剰に信じていることにあるのではないでしょうか。 愛情の真摯さは疑う余地もありませんが、その主体である自身が弱い存在であることを看過しているように思えます。そのような弱い自分による愛情が、二人のこれからの歩みや家族の未来を確かなものとして支えられるのか、甚だ疑問が残ります。私たちは、自分が生まれようとして生まれてきたのではありません。私たちは、この世界の創造主である神のご計画によって生を受けた者です。ですから、自分の弱さや不確かさという現実を認め、私たちの生を与えてくださった神が、私たちの助け手も与えてくださり、二人の結婚生活も神が導いてくださるという信仰が重要なのではないでしょうか。結婚は、否、人生はまず神から始まるのです。

“パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」” 3

“イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。” 4-5

② 結婚とは、一つであることをめざしていく歩みです

 結婚の重要性はスタートだけではありません。何のために結婚するのか、何を目指して結婚するのか、その目的や目標を曖昧にして結婚してはならないのです。

 パリサイ派の人たちは、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」とイエスに問いかけました。何か理由を見つけて離婚するという行為は人間的な考え方によるものです。人は結婚するときには離婚することなど思っていなかったにもかかわらず、何か理由を発見すると離婚を言い出します。結婚とは、神によって結び合わされたものですから、本来は人間的な思いで離婚することはあってはならないのです。しかし、離婚したいと思えば、いくらでもその理由を見出し、その理由を正当化してしまいます。

 私たちは、それぞれ弱い部分や足りない部分があることは最初から分かっているはずです。それなのに、いざ離婚しようと思い立つと、律法を自分の都合で解釈し、たとえば「料理が上手ではない」という理由でさえ離婚の理由にしてしまいます。結婚は、神がふたりを結び合わせた一体のものであり、だからこそ、神が結び合わせた二人を引き離してはならないのです。

 もちろん、それは結婚した瞬間に一体となるわけではなく、神が一体となるように導いてくださるのであり、私たちもその導きにより、一体となることを目指していくのです。この一体性は、性的な結びつきだけでなく、神が私たちに示している価値観や目標や計画を共有することを意味しています。だから、ふたりの間に困難があったとしても、離婚すべき何らかの理由があったとしても、ふたりは諦めずに、一つであることを目指していくべきなのです。

 イエス・キリストの時代、結婚相手は親が決めていました。結婚の形や手続きがどうであれ、その結婚が神によって結び合わせられたものと信じるならば、神が結び合わせた相手と共にゴールを目指して歩み続けなければならないのです。ふたりを結び合わせた神は、これからのふたりの歩みも導いてくださるのです。その歩みは決して二人の力によるものではなく、神が備えてくださることを忘れてはならないのです。

“ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」” 6

 本日は、このあと婚約式が予定されているため、3つ目のポイントは割愛させていただきます。どうぞご了承ください。

③ 結婚には、まことの愛が必要です

“心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。” マルコ 12:33

“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”1 コリント 13:4-

“愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。…神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。”1 ヨハネ 4:7-

Author: Paulsletter