1月4日メッセージ
小平牧生牧師
「祈りの交わりに生きる」
マタイの福音書6章5~15節
元旦礼拝では、私たちが神の備えておられるゴールを目指して前進している途上にあること、また、福音を受け入れた最初の日から今日に至るまで、福音宣教の働きに共に携わってこられたことを感謝しました。さらに、その歩みを、やがて来る「キリスト・イエスの日」までに神ご自身が完成してくださるという約束をしっかりと握りしめつつ進んでいることについてお話ししました。このように、私たちは未来のゴールを目指して歩んでいますが、聖書は、私たちの人生が次の三つの関係によって成り立っていると教えています。一つは神との関係です。二つ目は、自分と隣人との関係です。そして三つ目は、神が創造された、私たちが生きている被造世界との関係です。これら三つは、それぞれが別個のものではなく、互いに深く結びついており、切り離すことのできない関係です。私たちはキリスト者として、神、隣人、被造世界に対して、それぞれを別々に考えるのではなく、一つのものとして統合的に関わっていることを意識することがとても大切だと思います。つまり、神には関心があるが、隣人や世界には関心がないという姿勢は健全ではありません。もちろん、隣人や世界に対して無関心でいることはできるかもしれませんが、無関係でいることはできないのです。反対に、この世の出来事や人々にばかり意識が向き、神との関係が形骸化してしまうことも、あってはならないのです。
イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という第一の戒めと同様に、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも大切であると言われました。神を愛することと隣人を愛することは、決して切り離すことのできないものなのです。そして、神を愛するということは、この被造世界に生きる私たちの姿勢とも深く結びついていると言えるでしょう。そのように考えると、今朝の聖書箇所に登場する「主の祈り」は、まさにこの三つの関係を踏まえた祈りであると、深く思わされます。本年は、この「主の祈り」から多くのことを学び、この祈りを通して、さらに信仰の成長へと導かれていきたいと願っています。そのためにも、これからのメッセージや学びの中で、折に触れて「祈り」について共に学んでいきたいと考えています。
「主の祈り」は、イエスが一つ一つを詳しく解説されたというよりも、「このように祈りなさい」と模範として示された祈りです。ですから、私たちもまずは、その模範に従って祈ることが大切だと言えるでしょう。その意味で、最初はこの祈りをそのまま祈っていただきたいと思っています。先ほども礼拝プログラムの中で「主の祈り」を共に祈りましたが、聖書の文脈を見ると、祈るときには、自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、一人で父なる神に祈りなさいと教えられています。ですから、まだ祈ることに慣れていない方も、この教えに倣い、まずはこの祈りを用いて祈っていただければと思います。今朝は、「主の祈り」の一つひとつを細かく説明することはいたしません。しかし、祈る前の心構えとして共に覚えておきたいこと、また、そもそも祈りとはどのようなものなのかについて、共に思い巡らしていきたいと思います。
キリスト者の祈りは、単に心の中で念じたり、決まった言葉を唱えたりするだけのものではありません。また、形式的な宗教儀式として行われる祈りとも異なります。祈りとは、イエス・キリストによって道が開かれた「アバ、父よ」という呼びかけに始まる、神との対話なのです。祈りが「霊的な呼吸」にたとえられることがありますが、呼吸という生命活動と、祈りという信仰の営みとの間には、いくつもの深い共通点があると思います。呼吸は、特別に意識しなくても、誰に教えられなくても、生きている限り絶えず行われている営みです。しかし、それを止めてしまえば、命は維持できません。同じように、祈りもキリスト者の信仰生活にとって不可欠なものです。祈りが完全に途絶えると、神との対話、すなわち交わりが断たれ、霊的な生命力も次第に失われていきます。今朝は、この祈りが持っている特質について、三つのことを共に考えていきたいと思います。
① 祈り、それは父なる神への信頼
「主の祈り」は、日本語では「御名が聖なるものとされますように」「御国が来ますように」「みこころが行われますように」と訳されています。表現としては丁寧ですが、ややピンと来にくいと感じる方もおられるかもしれません。これを英語に訳すと、「御名」は your name(あなたの名)、「御国」は your kingdom(あなたの国)、「みこころ」は your will(あなたの意志)となります。つまり、祈りの中で私たちは、私たちの名ではなく神の名が崇められ、私たちが支配する世界ではなく神が支配される世界が実現し、私の意志ではなく神の意志が成し遂げられますようにと祈っているのです。祈りは、まず「あなた」と神に向き合うことから始まります。
「主の祈り」は、神を「お父さん」と呼びかけるところから始まります。私たちは、イエス・キリストの十字架によって神の子とされ、神を「お父さん」と呼ぶことのできる特権が与えられました。もっとも、「お父さん」という言葉が、人生の痛みを思い起こさせる方もおられるでしょうし、父親との関係に苦しさを覚えている方もいるかもしれません。そのような地上の父親像とは切り離して考える必要がありますが、少なくとも聖書は、私たちが父なる神を「お父さん」と呼ぶことができると教えています。
イエス・キリストは、ゲッセマネの園で父なる神に向かって「アバ、父よ」と祈られました。「アバ」とはアラム語で「父」を意味し、特に子どもが父親に親しみを込めて呼びかける際に用いる言葉です。日本語に置き換えるなら、「パパ」や「お父ちゃん」といった響きに近いでしょう。イエスは、この親しみ深い日常語をあえて神に対して用いられました。そこには、君主と臣下、主人と下僕といった距離のある関係ではなく、父と子という家族的な絆の中で神と交わるという深い意味が込められています。私たちが神を「アバ、父よ」と呼ぶことができるのは、キリストを通して神の子とされる恵みにあずかったからにほかなりません。
イエスはその祈りの中で、まず「この杯を、わたしから取り去ってください」と願われました。これは、十字架の受難を目前にして、その苦しみを取り除いてほしいという切なる祈りでした。見方によっては、神の子らしくない祈りのように思えるかもしれません。しかし、もしイエスが苦しみや痛みを実際に感じなかったとすれば、十字架の意味は失われてしまいます。イエスは、私たちが十字架につけられるなら感じるであろう痛みと同じ苦しみを、現実に味わわれたのです。もちろん、私たちは他者の罪を負い、神に見捨てられるという経験をすることはありません。その苦しみの深さは想像するほかありませんが、イエスはまさにその極みを通られました。そしてイエスは続けて、「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られました。これは、ご自分の思いを超えて、愛と真実に満ちた完全なご計画を持つ父なる神に、全幅の信頼をゆだねる祈りです。幼子が父親を信頼してその胸に飛び込むような、深い信頼に満ちた祈りと言えるでしょう。この祈りこそ、イエスが弟子たちに模範として示された「あなたのみこころが行われますように」という祈りそのものです。
世の中では、年始にあたって「家内安全」や「商売繁盛」など、自分の願いの達成を祈られた方も多いことでしょう。もちろん、そのこと自体を否定するつもりはありません。しかし、私たちが「アバ、父よ」と呼ぶことのできる父なる神は、単に私たちの願いを聞いてくださるお方であるだけでなく、なさることすべてにおいて最善を成し、この世界を統べ治めておられるお方です。そして、そのお方は、私たちが心から信頼を寄せるに値するお方であることを、私たちは祈りの中で告白することができます。だからこそ私たちもまた、父なる神に「アバ、父よ」と呼びかけ、「私の思いではなく、あなたの御心がなされますように」と祈る者でありたいと願うのです。
“ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名(your name)が聖なるものとされますように。御国(your kingdom)が来ますように。みこころ(your will)が天で行われるように地でも行われますように。…」” 9-10
“そしてこう言われた。「アバ、父よ。あなたに何でもおできになります。どうか、この杯を わたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みに なることが行われますように。」” マルコ14:36
“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。” 1ヨハネ 4:10-11
② 祈り、それは「神の子」としての特権
私たちは、イエス・キリストを救い主と信じることによって救われました。救われたということは、罪人であるにもかかわらず、イエス・キリストによって義と認められたということです(信仰義認)。それと同時に、新しい永遠のいのちが与えられたということでもあります(新生)。そして私たちは、神の子とされたのです。ヨハネは、『ヨハネによる福音書』1章12節において、このことを次のように記しています。そこでは、神の子どもとされることが「特権」であると語られています。その特権とは、父なる神を「お父さん」と呼ぶことができる、ということです。
そもそも私たちは、創造主なる神によって、「神のかたち」として造られました。「神のかたち」とは、神との親しい交わりの中に生き、神の代理人として、この被造世界を治める権威が与えられていたことを意味します。しかし、そのように造られた人類は、神の戒めに背いて罪を犯しました。その結果、神との親しい関係は断たれ、神の祝福を失ってしまったのです。そのため、この被造世界には争いや戦争が絶えることがありません。このような状態を、聖書は「罪」と呼んでいます。しかし神は、そのような人類を滅ぼすことも、世界をリセットすることもなさいませんでした。むしろ、ご自分から代価を支払って、私たちを贖うことを選ばれたのです。「贖う」とは、代価を支払って買い戻すことを意味します。神は、人間を買い戻すことによって、再びご自分のもとに置き、神との関係を回復してくださいました。本来、「神のかたち」として造られながら、神から離れてしまった人間を贖うために、神は御子イエス・キリストをこの地上に遣わされたのです。これが、神の救いの御業です。いつも申し上げていることですが、贖いのためには、その価値に見合った代価が支払われなければなりません。神は、私たちを買い戻すために、御子イエス・キリストのいのちを代価として差し出されました。「私の目には、あなたは高価で尊い」と聖書にあるとおり、神は私たち一人ひとりを、御子を十字架におかけになるほどに高価で尊い存在として見ておられるのです。
“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。” ヨハネ1:12
このことについて、パウロも『ガラテヤ人への手紙』4章4~6節で、次のように語っています。イエス・キリストという代価が支払われ、私たちが贖われたのは、子としての身分を受けるためでした。
また、放蕩息子のたとえにおいて、息子は父親に赦されたとき、「雇い人のひとりにしてください」と願い出ました。しかし父親は、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ」と言って、最上のもてなしをしました。父なる神も同じです。私たちが悔い改めて神のもとに立ち帰るとき、神は「とりあえず関係を回復し、雇い人のひとりとして受け入れよう」とされるのではありません。むしろ、私たちを神の子として受け入れ、父と子としての関係を完全に回復してくださるのです。それは、神の子として、父なる神を「お父さん」と呼ぶことのできる特権が、私たちに与えられたということにほかなりません。
キリスト者の人生とは、神の子とされた特権をどのように受け止め、それを生かして生きていくかということです。しかし、「どのように生きるか」を考える前に、私たちはしばしば、「自分は本当に神の子なのだろうか」という疑いに直面します。
私自身の歩みを振り返ると、かつては「本当に救われているのだろうか」と何度も自問自答し、その実感を必死に確かめようとしていました。そのたびに、「自分はまだ赦されていないのではないか」「神から愛されているのではなく、仕方なく、しぶしぶ受け入れられているだけではないか」という思いにとらわれていたのです。私はそのような消極的な納得の中で、どこか神に対して申し訳なさを抱えながら、若い時代を過ごしてきました。しかし、聖書が語る真理は、まったく異なります。聖書は、神が私たちを「しぶしぶ赦した」などとは一言も語っていません。むしろ神は、私たちをあらかじめ選び、ご自身の喜びとして、イエス・キリストによってご自分の子と定めてくださったのです。私たちは、もはや奴隷ではありません。神の子であり、神の相続人として、父なる神を「お父さん」と呼ぶことのできる特権を与えられているのです。
“しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。”ガラテヤ4:4-6
③ 祈り、それは赦された者としての愛の応答
私たちの教会のビジョンにも掲げているように、私たちの人生に与えられている最高の目標は、「神を愛する」ということです。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という御言葉がありますが、「神を愛する」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
たとえば、神を信じることと、神を愛することは同じでしょうか。それとも違うのでしょうか。もし違うとすれば、どこが違うのでしょうか。
私にとって、今も忘れることのできない問いかけがあります。それは、長い間、私自身に投げかけられ続けてきた問いでもありました。今の会堂が建てられた頃のことです。当時、私は神学生でした。そのとき、中国の家の教会の指導者の方(女性)が、私たちの教会を訪ねて来られました。当時の中国では、文化大革命以降、中国共産党による粛清の中で激しい迫害が続き、教会は厳しい攻撃にさらされていました。そのような状況の中で、家の教会(地下教会)の人々が、どのように信仰の戦いを続け、迫害のただ中にあって、どのように主に仕え、教会を生み出してきたのかという証しを伺ったのです。その証しは、実に生々しく、現実的で、そして深く感動的なものでした。彼女自身、牢獄に捕らえられ、死を覚悟するような状況に置かれていました。ある夜中のこと、牢獄の中で、どこからともなく賛美が聞こえてきたそうです。その声は一人ひとりは小さいものでしたが、やがて合唱のようになり、あちらこちらからすすり泣く声とともに、祈りの言葉が夜通し響いたと言います。看守たちも、それを止めることはなかったそうです。その後、多くのリーダーたちに刑が執行され、信徒であった彼女は釈放されたとのことでした。そして彼女は、その証しの最後に、このように語られました。「日本のクリスチャンのみなさん。あなたは、イエス・キリストを信じておられますか。それは素晴らしいことです。それでは、みなさんは、イエス・キリストを愛しておられますでしょうか。」私は、この問いかけを忘れることができませんでした。それは、私自身に向けられたメッセージだと受け止めたからです。なぜ、彼女の言葉がそれほど深く私の心に残ったのかというと、それが、私自身が大学生の頃に問われていた問いと同じだったからです。「イエス・キリストを信じていますか」と問われれば、私は迷わず「信じています」と答えることができました。しかし、「イエス・キリストを愛していますか」と問われると、すぐに「愛しています」と答えることができず、躊躇する自分がいたのです。
私は、子どもの頃からクリスチャンの家庭と教会の交わりの中で育ち、神を信じてはいました。しかし、神を愛してはいませんでした。実際には、神よりも自分自身を愛し、自分の願いのために生きていたのです。神は、自分の願いをかなえてくださる存在であり、祈りもまた、自分の都合でささげるものでした。必要なときには祈り、必要でないと感じるときには祈らない。そのような祈りでした。そんな中で、ペテロが主から問われたように、「あなたはわたしを愛していますか」という問いが、私自身の心にも投げかけられたのです。私は、イエス・キリストの十字架の前に立たされ、自分が先に神から愛されていることを知り、だからこそ「私もあなたを愛します」と告白することができました。私が献身して牧師になったということは、自分が何をするか、何者になるかということではありません。それは、私を愛してくださったイエス・キリストを、私も愛したいという、その一点に尽きるのです。不思議なことに、神を愛すると言えなかった頃、私は本当の意味で祈ることができませんでした。もちろん、人前で形式的に祈ることはできました。しかしそれは、人に聞かせるための祈りであり、本来対話の相手である神よりも、祈りを聞いている人の存在を意識していた祈りでした。そのため、祈ること自体に苦痛はありませんでしたが、そこには喜びも楽しさもなかったのです。しかし、神を信じるというところから一歩進んで、二人称で「あなたを愛します」と告白できるようになったとき、神に「あなた」と呼びかけて祈ることができるようになりました。誰もいない一人のときにも、自分の言葉で祈ることができるようになったのです。そのとき私は、祈りとは、神を信じるだけでなく、神を愛する関係の中から生まれるものなのだということを、深く知らされました。人前で祈るのが苦手だと言う方もおられますが、祈りは決して上手になる必要はありません。祈るときには、奥まった部屋に入り、自分の言葉で、「私はあなたを愛します」と、「私」と「あなた」という関係の中で祈ることが大切なのです。素直な思いを、そのまま神に語りかけることが大切なのです。祈りとは、愛への応答です。そして、愛するということは、漠然とした一般論ではなく、相手がはっきりと定まっている関係の中で成り立つものなのです。
私たちは、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、神を愛しなさい」と命じられています。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして信じなさい」とは言われていないのです。なぜなら、神ご自身が、すでにすべてを尽くして、私たちを愛してくださったからです。祈りとは、その神の愛に応答することにほかなりません。もし言葉が見つからず、うまく祈ることができないときには、「天のお父さん、あなたを愛します」と、ただ一言、神を見上げるだけでよいのです。それこそが、祈りの本質なのです。最後に、あらためて問いかけたいと思います。「あなたは、神を愛していますか。」
“イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。…」” マタイ22:37-39
“イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」…イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。…イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。” ヨハネ21:15-
Author: Paulsletter
