1月1日メッセージ
小平牧生牧師
「最初の日、今日、そしてキリスト・イエスの日」
ピリピ人への手紙1 章3~11節
私たちが良い一年を過ごしたいと願うのであれば、その願いにふさわしい「期待」をもって祈り、その期待にふさわしく考え、行動することが大切です。 もし漠然と歩み始めてしまえば、一年は漠然としたまま終わってしまいます。しかし、私たちが神に期待するならば、神はその思いに、いえ、期待さえも超えて応えてくださると信じます。「自分の人生など、期待するほどのものではない」あるいは「期待して、後で落胆するのが怖い」といった思いが、心に浮かぶこともあるかもしれません。 けれども、そのような時こそ、聖書が語る神のメッセージに心を向けたいのです。神が私たちの人生を始められました。そして、その人生を始められた神ご自身が、私たちの歩みを祝福へ、そして完成へと導いてくださるのです。
私たちの所属する基督兄弟団は、今年教団の創立80年を迎えました。昨年はあの第2次世界大戦の終戦から80年ということでしたから、その翌年の1946年が教団の創立の年となります。毎年教団としては、年間の標語を定めております。私たちの教会でも、その標語を教会の標語として掲げ、1年の主題聖句とするようにしています。今年の教会の主題聖句は、ピリピへの手紙の1章5節から6節です。
“あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。” 5-6
ピリピはエーゲ海の北、マケドニア地方東部に位置する要衝の町です。紀元前356年、アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世が近隣の金鉱を確保し、防壁を築いて自らの名を冠したことにより、現在の名称(フィリッポイ)となりました。
紀元前168年、ピリピはローマの統治下に入りました。町の運命を決定づけたのは、紀元前42年の「フィリッピの戦い」です。カエサル暗殺後の権力闘争において、オクタウィアヌス(後の皇帝アウグストゥス)とマルクス・アントニウスの連合軍が、共和派のブルートゥスとカッシウスを破りました。この勝利によって退役軍人たちが当地に定住し、ピリピはローマの植民都市となりました。さらに紀元前31年、オクタウィアヌスがアクティウムの海戦でアントニウスを破った際にも、敗れた陣営から没収した土地に再び軍人を入植させています。こうしてピリピはマケドニアにありながら、「リトル・ローマ」と呼ばれるほどローマの法律・言語・風習を誇り高く保持する特権的な都市となっていきました。
パウロは第二次伝道旅行の途上、幻の中で「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」という懇願の声を聞き、アジアからヨーロッパへ向かいました。パウロ一行はトロアスから海を渡り、ネアポリスの港に上陸して、マケドニア地方の主要都市ピリピへと足を踏み入れます。
安息日、町に会堂がないことを知ったパウロは、川岸の祈り場を訪ねました。そこで出会ったのが、ティアティラ出身で紫布を商うルデヤという婦人です。彼女は異邦人でありながら神を敬う人であり、パウロの語る福音に心を開きました。やがて彼女と家族がバプテスマを受け、これがヨーロッパにおける最初のキリスト教会の誕生となります。しかし、ピリピでの宣教は決して順調ばかりではありませんでした。占いの霊に取りつかれていた女奴隷を癒やしたことで、パウロとシラスは告発され、投獄され、激しいむち打ちの苦しみを受けます。獄中での賛美と祈りを通して、看守とその家族が救われるという出来事が起こり、こうしてピリピ教会はルデヤの一家と看守の一家を中心にスタートし、その土台は、さらに確かなものとされていきました。ピリピの教会は、パウロが設立した諸教会の中でも特に親密な関係が築かれた教会です。彼らはパウロたちが他の地域で宣教を続けている間も、テサロニケやコリント、さらにはパウロがローマで投獄されていた時にまで、幾度となく献金を送り、その働きを支え続けました。パウロ自身も、彼らに対して深い愛情と感謝を抱き続けていたことが、ピリピ人への手紙からうかがえます。
パウロは、ピリピの教会に宛てた手紙の冒頭で、ピリピの人々に対する深い感謝の思いと主にある喜びを強調するとともに、キリスト者の生き方と働きを方向づける三つの時間軸について語っています。すなわち、「最初の日」、「今日」、そして「キリスト・イエスの日」です。これらの時間軸は、私たち一人ひとりの生き方と働きを形づくる時間軸でもあります。
① 最初の日からの歩みを感謝して
前述のとおり、パウロの第二回伝道旅行は紀元50~51年ごろであり、その際にピリピ教会がヨーロッパ宣教の拠点として設立されました。この手紙がローマでの投獄中(紀元60~62年ごろ)に執筆されたという有力説に従えば、教会の創設から手紙執筆までにはおよそ10~12年が経過していたことになります。このことから、5節にある「最初の日」とは、パウロがピリピの川岸で出会ったルデヤの一家や、地震の後に救われた看守の一家を中心に教会が誕生した、創設当初の出来事を指していると理解できます。一方、「今日」とは、パウロがローマの獄中でこの手紙を書いている、まさにその“現在”を意味します。また、「福音を伝えることにともに携わってきた」という5節の記述は、ピリピの信徒たちが福音を受け入れた瞬間から、パウロの宣教使命を共有する同労者(パートナー)であったことを示しています。さらに、献金やエパフロデトの派遣などを通してパウロを支え続けてきた事実は、10年以上を経た“今日”に至るまで、その関わりが一貫して継続していたことを物語っています。この揺るぎない継続性こそが、パウロが彼らのために祈るとき、心からの喜びが溢れ出る最大の理由であったと考えられます。
私たちは、過去を振り返って神の真実さを知り、現在においてその使命に応え、そして未来を神の約束の中に思い描く姿勢が求められています。現在は単に未来へと続く通過点ではなく、神が与えてくださった「恵みの時」です。私たちが生きる「今」とは、過去から受け継いだ信仰や果たすべき責任を、次世代という未来へとつなぐために委ねられた大切な時間なのです。未来をより豊かなものにするためには、過去の歩みの中にあった神の導きを思い起こすことが必要です。過去の失敗や成功から学ぶことは、より確かな希望を持って未来へ踏み出すための土台となるからです。つまり未来とは、不安に満ちた未知ではなく、神の約束が実現することを希望をもって待ち望むことのできる時なのです。
基督兄弟団は、1946年1月に神田教会で開かれた最初の聖会をもってその歩みを始め、同年2月24日に「基督兄弟団」として法人登記がなされました。しかし、教団の歴史は戦後に突然始まったものではありません。その源流は、中田重治によって形成された「ホーリネス教会」、さらに同教会から分離した「きよめ教会」にまで遡ります。私たちが今ここに在る意味を知るためには、前身である「東洋宣教会ホーリネス教会」の誕生から「きよめ教会」へと至る歩み、そして戦争による弾圧と解散へと追い込まれた壮絶な経緯を深く心に刻む必要があります。
1901年、米国ムーディ聖書学院でリバイバルの炎に触れた中田重治は、帰国後、彼を支えたカウマン夫妻とともに東京・神田に中央福音伝道館と聖書学院を設立しました。「四重の福音」(新生・聖化・神癒・再臨)を信仰の柱に掲げた伝道は、庶民層を中心に爆発的な広がりを見せ、日本におけるホーリネス運動の中核となりました。1917年には「東洋宣教会ホーリネス教会」が組織され、中田重治が監督に就任します。その後、教会は大正と昭和の二度にわたるリバイバルを経験し、宣教の地は満州、朝鮮、台湾、東南アジア、さらには北米、ハワイ、ブラジルといった日系移民社会へと拡大していきました。しかし、この宣教の拡大は、奇しくも日本の軍国主義的な拡張と重なる時代背景の中にありました。
恵みの中にあった教会を試練が襲います。1933年、教理の対立から、ホーリネス教会は中田重治派の「きよめ教会」と、聖書学院教授派の「日本聖教会」に分裂しました。さらに1941年、宗教団体法の施行という国家統制下で、プロテスタント諸派は「日本基督教団」へと強制的に統合されます。しかし、国家による圧力はそれで終わりませんでした。1942年、国家神道を精神的支柱とする体制下で、「キリストの再臨」を信じるホーリネスの信仰が、天皇の統治権を否定するものと見なされました。これにより、きよめ教会・聖教会の教職者ら約100名が一斉検挙されるという、未曾有の弾圧事件が起こったのです。
明治維新以降、政府は「祭政復古」を掲げ、国家神道を「宗教を超えた国家の儀礼」と定義することで、信教の自由を形骸化させていきました。「神道は宗教ではない」という論理は、神社参拝を国民の義務として国民統制のための理論的基盤となりました。これに対し、神社参拝を偶像礼拝として拒み、キリストのみを主と告白した当時の教会は、激しい社会的迫害にさらされることとなりました。一方で、私たちは反省をもってこの歴史を振り返らなければなりません。国が軍国主義へと突き進む中で、教会は本来果たすべき預言者的使命を全うできず、むしろ国家統制に加担し、侵略戦争の一端を担ってしまった側面があったことも事実です。
本来ならば、そのまま歴史の彼方へと消え去っていても不思議ではなかったはずの私たちです。しかし、教会の頭であるイエス・キリストは、そのような過ちや弱さを持った私たちをもなお愛し、赦し、守り抜いてくださいました。 「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主の憐れみは尽きることがないからだ」 という、預言者エレミヤのこの言葉こそが、私たちの歩みを支える真理です。今、私たちはこの時代においてイエス・キリストに出会い、罪を赦され、永遠のいのちへと招かれました。主の恵みの中で喜びをもって生きることは、決して当たり前のことではなく、ただ神の憐れみによるものです。だからこそ、今を生かされている私たちには、この国においてキリスト者として果たすべき務めがあります。神がその期待を込めて、私たちに今日という日を委ねてくださっているのです。
私たちには「今日」という日だけでなく、「最初の日」があります。これは個人にも、教会にも当てはまります。私たちは突然生まれたのではありません。最初があって今日があり、今日があるのは最初があったからです。それは、私たちが歴史的な存在であるということです。教会も教団も、そして一人ひとりも、神によって始められた歴史の中に生かされており、その歩みの中で今、2026年を迎えようとしています。将来を思うとき、神によって生み出された「あの日」、あの「最初の日」を忘れてはなりません。それを無関係なものとして扱うことはできないのです。私たちは決して偶然に存在しているのではありません。神によって始められた歴史的な存在であることをしっかりと受け止め、やがて訪れる完成の日に向かって続けていくのです。
“私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。” 3-5
② 与えられたゴールから目を離さず
二つ目のポイントは、「与えられたゴールから目を離さない」ということです。パウロは続いてこう語ります。
“あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。” 6
今から約120年前、主は日本に私たちのルーツとなる教会を建てられ、さらに80年前、あの戦後の廃墟の中から愛する先輩方を立ち上がらせてくださいました。その時すでに神は、今日の私たちの姿を御存じでした。そして同時に、神は私たち一人ひとり、そして教会に対して完成へと至る計画を持っておられるのです。ですから、この時代に生かされている私たちは、神が始められた救いの御業を、神ご自身が完成してくださると信じ、そのゴールを待ち望みながら歩んでいくのです。そしてまた、与えられた務めを忠実に果たしていくのです。
昨年のクリスマス・イブに「ボンヘッファー」のことをお話しました。彼はナチス・ドイツに抵抗し、ヒトラー暗殺計画に関わった疑いで逮捕され、敗戦のわずか3週間前に強制収容所で処刑されたルター派の牧師です。彼の生涯は映画やドキュメンタリー作品でも取り上げられ、今も多くの人に影響を与えています。彼の特徴として注目されるのが、「信仰的な楽観主義」です。これは、現実を軽く見たり、根拠のない前向きさを持つという意味ではありません。むしろ、絶望的な状況のただ中にあったとしても、神の導きと約束を信じ続けることによって、希望を失わない姿勢のことです。年末感謝礼拝に、西宮チャペルでは、「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」のお話をしました。答えの出ない事態や説明できない状況の中でも逃げ出さず、その場を受け止める力、すなわち「耐える力」です。しかし、「ボンヘッファー」に見られる、「信仰的な楽観主義」とは、神が救いの完成を実現してくださると信じて生きること、あるいはその生き方なのです。私たちの力ではなく、神の御力による完成を信じる生き方なのです。私たち自身には、良い働きを始める力も、それを成し遂げる力もありません。教会も、キリスト者も、この世界さえも、最終的に完成させるのは神ご自身です。だからこそ私たちは、与えられたゴールから目を離さず、そこに期待し、信じ、祈り、行動していくのです。
6節の御言葉には「それを完成させてくださる」とあります。しかしここで注意したいのは、神が完成してくださるというのは、「私たちの計画を神が実現してくださる」ということではないという点です。確かに、私たちの間で始められた働きですが、重要なのはそれが神によって始められた働きであるということ。私たちの目指す完成とは、神の働きの完成であり、自分たちの目標達成ではありません。神のご計画の完成なのです。だからこそ、どのような状況にあっても、私たちは立ち続けることができます。信仰的に楽観的に生きるとは、繰り返しますが、「神が完成してくださる」ことを信じて歩むことです。「昔はよかった」と過去にとどまったり、「今の状態を何とか維持しなければ」と現状に甘んじるのではなく、たとえ弱く小さな存在であったとしても、神はその私たちを完成へと導いてくださるのです。
ピリピ人への手紙は短い手紙ですが、そこには信仰のエッセンスが凝縮されています。ぜひ、一度通して読んでいただきたい書簡です。パウロはこの手紙の1章で、ピリピの信徒たちが最初の日から今日に至るまで、福音を伝えることに「共に携わってきた」ことを感謝をもって語っています。さらに3章7節以降では、彼が命を懸けて伝えている「福音」とは一体何なのかを、自身の証しを通して説明しています。
“しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。” 3:7-
これはパウロらしい表現です。「主イエス・キリストを知っていることの素晴らしさ」こそが、まさに福音の核心です。福音とは、単なる知識や教理の理解にとどまるものではありません。生けるイエス・キリストに出会い、その人格的な交わりの中に生きるよう招かれているという「恵みの現実」そのものです。私たちは、この新しい年も、この福音の素晴らしさをさらに深く味わっていきたいと願います。パウロが語るように、過去にとらわれることなく、ただ前に向かって進む姿勢こそが、キリスト・イエスの日を待ち望む者の歩みです。私たちは、神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走り続けているのです。
③ 途上にあるということを忘れずに
第3のポイントは、「私たちは途上にある」ということを忘れない、ということです。私たちはこの地上において「旅人であり、寄留者」です。未完成な存在として、ゴールを目指して前進している途上にあります。福音を受け入れたその瞬間から、私たちは福音を伝える働きへと招き入れられました。この歩みは、やがて来る「キリスト・イエスの日」に向かっています。今の私たちは、確かに未完成かもしれません。しかし、私たちの歩みは自分自身の力で始めたものではなく、神によって始められたものです。ゆえに、それは必ず完成へと向かっています。パウロが「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」と確信したように、私たちもどんな状況にあっても、神がゴールへと導いてくださることを信じ、確信を持って進むのです。さらに、パウロは3章12節でこう語っています。キリスト者とは、自力で何かを「捕らえた人」ではなく、むしろ「キリストに捕らえられた人」を指します。自分が何かを達成したと慢心するのではなく、イエス・キリストの圧倒的な愛に捕らえられ、その素晴らしさを味わい、喜びつつゴールを目指して歩むことこそが、キリスト者の真の姿です。私たちがゴールに向かって歩む中で、パウロがピリピの教会の愛する人々のために捧げた祈りのように、私たちも同じ思いで祈りたいと願うのです。
“私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです” 3:12
アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの有名な祈りにある通り、私たちは変えられない過去や状況に落胆し続けるのではなく、神を信頼し、今この場所で「最善の道」を選び取る知恵が必要です。この「変えることのできないものを受け入れる冷静さ」と「変えるべきものを変える勇気」、そして「それらを見分ける知恵」を求める祈りは、単なる自分の心構えを説く言葉ではなく、神にゆだねて歩む「安心感の源」となるものです。それによって、私たちの愛が独りよがりな感情に流されるのではなく、神を知る知識と鋭い識別力に裏打ちされ、真に「大切なこと」を見極めるための力となるのです。
自分にとって「損か得か」という地上の価値基準を離れ、パウロがそうしたように、何がキリストの御心に適い、何が本当に大切なものであるかを識別できるように求めることが重要です。私たちの人生の焦点が、主と対面する「キリスト・イエスの日」という輝かしいゴールに定まっているとき、今の苦難や不安を超えた、新しい期待と希望が生まれます。かつてパウロは、自分にとって得であったものをキリストのゆえに「損」と思い、キリストを得るためにすべてを捨てました。私たちもまた、目に見える状況に一喜一憂するのではなく、永遠に価値あるものを見つめたいのです。
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでに、それを完成させてくださる」という真実な約束を握りしめ、この新しい一年、私たちの愛が知識と識別力によっていよいよ豊かになり、主が備えてくださる完成の日に向かって、期待に胸を膨らませながら、確かな一歩を踏み出して歩んでいきたいと望むものです。
“私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。” 9-
“愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。” 1ペテロ2:11
Author: Paulsletter
