12月28日メッセージ
小平牧生牧師
「戸惑いと、疑問と、そして…」
ルカの福音書1章26~38節
神の子イエス・キリストの母マリアは、聖母としてキリスト教において特別な崇敬の対象とされていますが、神そのものではありません。彼女は神の特別な恵みによって選ばれた者であり、その純粋な信仰と従順さが模範とされています。今朝の聖書箇所に記されているように、マリアは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と告白しています。もちろん、人間は神に創造された唯一無二の存在ですが、マリアも私たちと同じ人間です。彼女は生涯を通して、戸惑いや理解できない出来事に直面しながらも、疑問を抱きつつ神に従い続けた一人の人間でした。
私たちにとって、神を信じるということは、すべての答えを得ているということではありませんし、すべての答えを得られるということでもありません。むしろ、自分にはわからないことがあり、自分の力の及ばない神の領域があることを率直に認め、そのうえで神に委ねることこそが、神を信じるということなのです。マリアは、まさにそのような信仰の姿を示す模範的な存在だったのだと思います。
ガリラヤのナザレという小さな町で、突然、神の御使いがマリアのもとを訪れました。御使いが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」と告げたとき、彼女はその言葉に深く戸惑い、「いったいこれは何の挨拶なのでしょうか」と思い巡らしました。さらに御使いが「あなたは身ごもって男の子を産みます。その子をイエスと名付けなさい」と告げると、彼女は「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私はまだ結婚しておりませんのに」と尋ね返すほかありませんでした。人知を超えた神の計画を前にして、彼女が立ちすくんだとしても当然のことだと言えるでしょう。それでも御使いは語り続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包みます。生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」。さらに、親類のエリサベツも年老いてから子を宿したことを明かし、最後にこう宣言したのです。「神にとって不可能なことは一つもありません」
その後に続くマリアの言葉が、「私は主のはしためです」という告白です。彼女はどのような心境でこの言葉を発したのでしょうか。「ご覧ください」と誇らしげに言ったのではなかったはずです。「神にとって不可能なことは一つもありません」と告げられたとき、神を信じる者にとって、それを否定することはできません。しかし同時に、自分自身を神に委ねる決心をしながらも、なお戸惑いの中にいたことは間違いないでしょう。私たちキリスト者は、時に戸惑いや疑いを持つことを否定しようとしてしまいます。神を信じるならば、すべてを理解しなければならないかのように思い込み、決して弱さを見せてはならないと感じることさえあります。しかし、戸惑うこともまた力であり、神の恵みなのです。私たちは神の子とされた者だからこそ、安心して「わかりません」と神に申し上げることができるのです。疑いを抱いたとしても、神は私たちを責めたり叱ったりなさいません。信仰者とは、すべてを理解し、戸惑うことのない人のことではありません。理解できず、戸惑いながらも、なお神に委ねる恵みが与えられている人のことです。たとえ理性では納得できなくても、思い巡らしつつ生きることが許されているのです。疑いを抱かないふりをして信じているかのように取り繕う必要はありません。実際、マリアの生涯は戸惑いの中から始まり、「わからないこと」の連続でした。聖書は、そのようなマリアの姿を隠すことなく、ありのままに記しています。それこそが、聖母マリアの真の姿なのです。
①とまどいの中で委ねる
マリアに対する受胎告知は、彼女にとって大きな喜びである以上に、人間の理解をはるかに超えた出来事でした。当時のユダヤ文化では、女子は12歳から14歳頃に婚約し、その後の婚約期間を経て結婚するのが一般的でした。ヨセフと婚約中であったマリアも、おそらく14歳前後の非常に若い少女であったと考えられます。まだ結婚には至っておらず、当然ながら夫との夫婦としての関係もなかった彼女にとって、御使いから「身ごもる」と告げられたことは、まさに青天の霹靂であり、到底受け入れがたい状況であったに違いありません。彼女が「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と率直な疑問を投げかけたのは、極めて自然な反応でした。マリアは深い信仰を持つ女性でしたが、だからといって神の御告げを即座に受け入れたわけではありません。彼女の戸惑いは不信仰ゆえではなく、直面している過酷な現実と、神の壮大な計画との間で揺れ動く誠実な心の表れだったのです。神は、そのような彼女の困惑を決して退けられませんでした。むしろ御使いを通し、「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆います」と、人知を超えた神の方法を丁寧に説明されました。さらに、不妊であった親族エリサベツの妊娠という具体的なしるしを示し、「神にとって不可能なことは一つもありません」と力強く宣言されたのです。神は、理解が追いつかず揺れ動く者を見捨てることはありません。むしろその心に寄り添い、歩幅を合わせるようにして語りかけ、一歩を踏み出すための確かな信頼の根拠を示してくださるお方なのです。
この対話の末、マリアはすべてを完全に理解し、不安が完全に消え去ったから従うことができたわけではありません。まだ見ぬ未来への不安を抱えつつも、彼女は「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と応答したのです。ここには、戸惑いと信頼が同居したままの「委ね」の姿があります。聖書における「委ねる」とは、恐れや疑問がすべて取り除かれた状態ではなく、それらを抱えたまま、なお神の真実さに自分を預けるという意志的な決断を意味します。では、マリアはなぜこのような状況の中で神に委ねることができたのでしょうか。その答えは、彼女の「私は主のはしためです」という言葉に示されています。「はしため」とは、単なる謙遜の表現ではなく、「女奴隷」を指す強い語であり、自分が主人である神に属し、神の御心に従う存在であるという自己認識を表しています。重要なのは、私たちが誰のしもべ(奴隷)であるのかという点です。真に主人としもべの関係があるからこそ、「お言葉どおり、この身になりますように」と応答することができるのです。もしそのような心が伴っていなければ、祈りは「自分の思いどおりになりますように」という自己中心的な願いへと傾いてしまうでしょう。口では「私は主のしもべです」と言いながら、実際には自分中心に生きているなら、それは信仰の告白と生活が食い違っており、真の信仰の喜びを味わうことはできません。マリアが神に自分を委ねることができたのは、「私は主のはしためです」という言葉に偽りがなかったからです。今何が起こっているのか、これから何が起こるのかを十分に理解できなくても、確かなことは、自分と神との関係が「主人」と「はしため」であるという一点でした。マリアにはわからないことが多く、この後の生涯でも理解を超える出来事が続いていきます。それでも彼女は、その都度、神への委ねの中を歩み続けたのです。
“御使いは、はいって来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと ともにおられます。しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何 のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、 マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子 を産みます。その名をイエスとつけなさい。…” 28-
“マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばど おり、この身になりますように。」” 38
②わからない中で心に留める
シメオンという老人が登場します。彼は正しく敬虔な人で、イスラエルに与えられる慰めを待ち望んでいました。また、「主のキリストを見るまでは決して死なない」と聖霊から告げられていた人物でもあります。ある日、シメオンが御霊に導かれて神殿に入ると、幼子イエスを連れた両親がちょうど入って来ました。シメオンが約束されていたメシアに出会えたのは、決して偶然ではありません。「聖霊に感じて」と記されているように、神の確かな導きによって、約束の成就の場に立ち会うことができたのです。シメオンは幼子を腕に抱き、後のイエスの生涯と十字架における衝撃的な受難を予告します。すなわち、イエスが宗教指導者や権力者から激しい反対を受け、最終的には十字架につけられることを示したのです。シメオンは両親を祝福しましたが、その態度と語った言葉は対照的な内容でした。この時点でマリアはその意味を完全に理解していたわけではありません。しかし彼女は、理解が追いつかず答えが見えない中でも、結論を急がず、シメオンの言葉とその後に続く出来事を心に留め続けたのです。
この後にも、マリアが「心に留めた」出来事があります。それは、イエスが12歳になられた時のことです。当時の慣習に従い、一家は過越の祭りのためにエルサレムへ上りました。ユダヤ教社会では、男子は13歳で「律法の子」として成人を迎えます。その1年前である12歳は、信仰者としての自覚を育むための重要な準備期間であり、イエスもまたその教育の一環として祭りに参加されていました。祭りの期間を終え、一行が帰路についた際、少年イエスが都に留まっていることに両親は気づきませんでした。一行の中にいると思い込み、一日分の道のりを進んでからようやくイエスがいないことに気づき、驚きと不安の中で必死にエルサレムへ引き返したのです。両親が神殿でようやく見つけたイエスは、教師たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられました。しかし、必死に捜し回った母マリアは、わが子を叱るような思いでこう言いました。「父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのですよ」。するとイエスは答えられました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいなければならないことを、ご存じなかったのですか」。普通であれば、心配をかけたことを謝る場面かもしれません。しかしイエスはこの時、地上の父ヨセフとの血縁を超えた、「神の子」としての本質と使命を初めて公に示されたのです。両親にはその言葉の真意がすぐには理解できませんでした。しかしマリアは、この時も理解できないからといって反発したり否定したりするのではなく、それらの出来事をすべて「心に留めて」おいたのです。
このようにマリアは、イエスが誕生する前も、その後の生涯においても、起こる出来事や理解できないこと、不思議なできごとを心に留め、思い巡らし続けた人物でした。御使いの言葉を聞いたとき、羊飼いが訪れたとき、そしてその後に起こる様々なできごとにおいても、彼女は結論を急がず、心に留めながら歩んだのです。さらに加えるなら、ヨハネの福音書に記されている最初の奇跡「カナの婚礼」のしるしもその一例です。ナザレに近いカナという小さな村の結婚式でのこと。当時の結婚式は一週間続く盛大な宴で、ぶどう酒は歓びと祝福の象徴でした。もし不足すれば大きな恥となり、社会的信用を失うことすらあり得る、家族にとっては人生を左右しかねない危機的状況です。そこでマリアは、ぶどう酒が不足していることを知り、イエスに「ぶどう酒がありません」と告げました。イエスは「女の方、あなたはわたしとどんな関わりがあるのでしょう。わたしの時はまだ来ていません」と応えられます。この言葉は、現代の感覚では冷たく聞こえるかもしれませんが、当時の文化では「女の方」とは礼儀を保った呼びかけであり、イエスが神の「時」に従って行動することを明確に示した言葉だったのです。それにもかかわらずマリアは、手伝いの人々に向かって「あの方が言われることを、何でもしてください」と冷静に指示します。カナでのマリアは、イエスの言葉をすべて理解できていたわけではありません。しかしそこで見える姿は、「戸惑いの中にあっても委ねる信仰」そのものだったのです。
人生には、予期せぬ出来事が次々と起こります。この一年を振り返っても、何が起きているのか分からず、理不尽さに納得できない思いを抱いた瞬間があったのではないでしょうか。私たちは、不可解な事態に直面すると、つい即座に意味を求め、解決を急ごうとしてしまいます。しかし、聖書が示すマリアの姿から私たちが学べるのは、すぐに答えを出そうとするのではなく、出来事を「思い巡らし、心に留めておく」という姿勢です。
ここで、かつてお話しした「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」という概念が重要になります。この言葉の「ネガティブ」とは、単なる消極性ではなく、「結論を急がず、不確実な状態に踏みとどまる」という否定的な状況を受け容れる姿勢を指します。専門的には、性急に証明や理由を求めず、不確実さや不思議さ、疑いの中にいられる能力のことです。簡単に言えば、「答えの出ない事態に耐える力」と言えるでしょう。私たちは教育の過程で、問題を素早く理解し、正しい答えを導き出す「ポジティブ(肯定的・積極的)な能力」を求められてきました。しかし、実際の人生において必要なのは、どちらとも決められない「宙ぶらりんの状態」の中で、そこから逃げ出さずに状況を受け止める力なのです。ただし、この「耐える力」は、神を信じているかどうかによって、その質が大きく変わります。私たちが、理解を超えた出来事を単なる「混乱」としてではなく、大切に「心に留める」ことができるのは、その背後に神の力と支配があると信じているからです。自分には理解できなくても、自分の力が及ばなくても、愛であり真理である神がすべてを治めておられる、その確信があるからこそ、私たちは不安という暗闇の中にとどまり続けることができます。神を信頼する信仰がなければ、単なる忍耐としての「ネガティブ・ケイパビリティ」を持ち続けることは、人間にとって非常に困難なのです。
私も、この一年を振り返ると、さまざまな相談を受けました。いずれも答えることが難しい内容ばかりです。相手を失望させることがあってはなりませんので、十分にお話を伺ったうえで、最後には「祈りましょう」とお伝えするのですが、とにかく私たちは答えを求めてしまうものです。「間違っていてもいいので、何か答えをください」と言われることさえあります。そのような中で、正しい答えを出そうと焦るあまり、決めつけてしまったり、時には人を裁いてしまうこともあります。しかし、まさにそのような時こそ、私たちはマリアのように、理解できないことをそのまま認め、心に留めておく姿勢が大切なのです。繰り返しますが、それは愛であり、真理である神を信じているからこそできることなのです。私たちには理解できないすべてのことについて、神はすでに答えを持っておられるのです。
“シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多 くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定 められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。…」” 2:34-
“するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが 必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」…母はこれらのことをみな、 心に留めておいた。” 2:49-
③十字架のもとに立ち続ける
次にマリアが登場するのは、イエスが十字架にかけられる場面です。イエスが十字架につけられた時、多くの群衆は去り、弟子たちさえ逃げ出していました。しかし、その過酷な場所に踏みとどまり、立ち続けた人々がいました。聖書は、イエスの十字架のそばに、その母マリア、母の姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアが立っていたことを記しています。この場面に映し出されているのは、言葉にならない苦しみや喪失、そして圧倒的な絶望のただ中にとどまり続ける人々の姿です。もちろん、彼女たちはこれまでにも、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして三日目によみがえる」と語られたことを聞いていたはずです。また、エルサレムの神殿でシメオンから「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」と告げられた言葉も忘れてはいなかったでしょう。誰よりもその意味を理解しようとしてきた存在だったに違いありません。しかし、彼女たちが目の前で起きている十字架の惨劇の意味を、完全に理解していたわけではありません。無力に苦しむイエスが、ここからどのようにして全人類の救いを成し遂げるのか、その先を見通せていたわけでもありません。それでも、彼女たちは愛する主から目をそらさず、十字架のそばに立ち続けました。苦難や喪失の中にあり、神が沈黙しているように思える時であっても、十字架は神の徹底的な愛の象徴であり、逆転の救いが始まる場所です。十字架のそばに立ち続けた女性たちの姿は、たとえ状況が理解できず、心が引き裂かれるような痛みの中にあっても、なお神の愛の計らいを信じ、そこに身を委ねる「信仰」の極致を示しています。私たちもまた、人生の答えが見えない暗闇の中であっても、十字架から離れず、主の愛のそばに踏みとどまるという選択をすることができるのです。
“イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリアとマグダラの マリアが立っていた。” ヨハネ19:25
④交わりの中にあり続ける
十字架と復活ののち、マリアは再び聖書に登場します。福音書に続く、最初の教会の歩みを記した使徒の働きには、こう記されています。「彼らは皆、心を一つにしてひたすら祈っていた。(中略)イエスの母マリアも、ほかの婦人たちも、またイエスの兄弟たちもともにいた」。ここには、神の約束の成就を待ち望みながら、互いに心を合わせて祈りに専念し、交わりを大切にしていた姿が示されています。この「心を合わせる」とは、単なる仲の良さや仲間意識ではありません。聖霊の働きを受けるために備える、霊的な一致の姿です。マリアには理解できないことが数多くありましたが、一人で思い悩むのではなく、キリストを信じる者たちの交わりの中に身を置き続けたのです。
実は、御使いガブリエルが受胎告知に現れた時も同じ姿が見られます。御告げを聞いたマリアは、一人で閉じこもるのではなく、すぐにエリサベツのもとへ急ぎました。理解できない出来事に直面した時、信仰者との交わりの中に身を置き、共に神の御業に思いを向けることを選んだのです。私たちも、一人で思い悩むことがあります。しかし、教会とは、共に神の御業を見つめ、支え合い、祈り合う交わりです。人生には理解できないことが多くありますが、神はゴールを備えておられます。
元旦礼拝では、ピリピ人への手紙1章6節に心を向けたいと思っています。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでに、それを完成させてくださると、私は確信している」。つまり、神が私たちのうちに始められた救いの御業は、神ご自身が必ず完成してくださるのです。私たちはその途上にいます。すなわち、始まりの日、現在、そしてイエスが来られる日の三つの時間軸に生かされているのです。この視点の中で歩むことを、来年は深く思い巡らしたいと願っています。今はどのような状況であったとしても、主が完成へと導いてくださる、その確信をもって生きることです。戸惑いの中で始まったとしても、疑いや不安が続いているとしても、神は行き着くべきゴールを備えておられるのです。
この一年を振り返ると、私たちも様々な出来事に出会いました。答えの出ないこと、理解できないこともあったでしょう。しかし、どのような状況に置かれても、私たちは主のしもべです。「神の恵みの業が私のうちに成し遂げられますように」と告白し続ける者でありたいのです。どこへ向かっているのかわからない時もあります。けれども、すべてを導いておられるのは神です。神の御心が私たちのうちになされるよう、自分自身を献げて歩んでいきたいと願います。新しい年も、神への信頼と、主にある交わりの中で、共に歩んでまいりましょう。
“彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を 一つにして祈っていた。” 使徒1:14
“それから、マリヤは立って山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行 って、エリサベツにあいさつした。…” 39-40
Author: Paulsletter
