12月21日メッセージ
小平牧生牧師
「力、無力、真の力」
ピリピ人への手紙2章5~11節
洗礼(バプテスマ)とは、イエス・キリストを救い主として信じ、罪の赦しを受け入れた者が、その信仰を神と人との前で公に表すものです。それは、キリストとの結びつきを告白し、新しいいのちの歩みを始める決意を示す、目に見えるしるしでもあります。洗礼は単なる儀式ではなく、聖書において深い象徴的意味を持っています。その本質的な意味は、信じる者がキリストの十字架の死と復活にあずかり、新しいいのちに生きる者、すなわち新生の者とされることを象徴する点にあります。水に沈むことは、古い自分がキリストとともに死に、葬られることを表し、水から上がることは、キリストとともに復活した新しい自分の誕生を示しています。
信仰において、「信じる心」の強さ以上に重要なのは、「何を信じるか」、すなわち信仰の対象です。どれほど熱心であっても、その信仰が真理に基づかない「思い込み」にすぎないなら、人生を誤った方向へ導いてしまう危険があります。聖書は、やがてキリストが再臨されるとき、キリスト者が「花嫁」として、花婿であるキリストに迎えられ、一つとされるという約束を記しています。この完成された関係を「結婚式」にたとえるなら、受洗は「婚約式」に相当すると言えるでしょう。洗礼を受けることは、単なる自己表明ではなく、キリストとの間に生涯をかけた愛の契約を結ぶことを意味します。そして、将来の婚姻の日に至るまでの「婚約期間」において、私たちはキリストをより深く知り、その愛に応えて歩んでいきます。相手が誠実で、信頼するに足るお方であることを知れば知るほど、私たちの信仰は不安や義務感ではなく、揺るぎない喜びへと変えられていくのです。
私自身が洗礼を受けたのは中学二年生のときでしたが、そのことは先週お話ししました。私は牧師ではありますが、決して信心深い者だとは思っていません。私の父方の親族は、多くの神道の神主を輩出してきた家系です。そのため、私にもその血統が受け継がれていると思われていたかもしれません。しかし私は、信仰の対象は何でもよいなどと、一度も考えたことがありません。私は、イエス・キリストだからこそ信じているのです。このお方だからこそ、すべてを捧げようと決心し、イエス・キリストと婚約しました。そして私は、やがて訪れる結婚の日を待ち望んでいるのです。
そのような意味でも、このクリスマスの出来事は注目すべきものです。なぜなら、誕生されたイエス・キリストが、私たちが信じるに足るお方であることを示しているからです。イエス・キリストの誕生は、単に神が人としてこの世に遣わされたという出来事にとどまりません。神の子が、馬小屋の飼い葉桶に、布にくるまれて寝かせられている赤ちゃんとしてお生まれになった、という点にこそ大きな意味があります。
赤ちゃん、馬小屋、羊飼い、飼い葉桶、そして布など、クリスマスの出来事に登場するこれらの要素は、いずれもこの世の基準における「弱さ・小ささ・貧しさ」を象徴しています。聖書が記す最初のクリスマスは、決してきらびやかな祝祭ではありませんでした。救い主は宿屋に泊まる場所もなく、家畜の飼料を入れる「飼い葉桶」に、産着ではなく布にくるまれて寝かされたのです。さらに、その誕生を最初に告げ知らされたのは、当時、社会の周縁に置かれていた羊飼いたちでした。万物の創造主は、全知全能の力を持つ比類なきお方です。その神が、あえて無防備な「布にくるまれた赤ちゃん」としてこの世に来られたところに、神の逆説的な愛が示されているのです。
これから洗礼を受けられる方、また、すでに洗礼を受けられている方に申し上げたいのは、キリスト者になるということは、何か特別に力強い生き方ができる力を手に入れることではない、ということです。むしろそれは、自分の人生には自分の力の及ばない領域、すなわち神の領域があることを認めることなのです。
私たちには自分の力でやっていける分野も確かにあります。しかし同時に、自分の力ではどうにもならない領域があることを認めること、それが信仰の出発点です。神を信じるとは、神を理解しようと努めることも大切ですが、それ以上に、自分の力の及ばない領域を素直に認め、自分のすべてを全知全能で完全な愛なる、まことの神の御手に委ねることです。言い換えるならば、自分自身の力に固執している限り、神の力は私たちの人生には現れてきません。今朝は、この徹底した無力さの中にこそ宿る、聖書が示す「真の力」に目を向けたいと思います。
① 力を求める私たち
戦後80年を迎えようとする今、世界は今年もまた戦いに明け暮れました。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、さらには中東各地で、紛争は今も続いています。人々は、なぜ平和に生きることが、これほどまでに難しいのでしょうか。かつて、宇宙から帰還した宇宙飛行士が、宇宙から見た地球のあまりの美しさに圧倒され、創造主なる神を信じるようになった、という話を聞いたことがあります。私たちは、そのように美しく素晴らしい地球に住みながら、なぜ戦争や殺人を繰り返し、互いの家や故郷や国を焼き払い、自然をも破壊しているのでしょうか。その原因は、ただ一つです。それは、人類が口では平和を語りながら、実際には自分本位の力や豊かさを追い求めているからです。つまり、相手を圧倒する力(権力や軍事力)を渇望し、それを平和の担保にしようとしているのです。その結果、感謝よりも恨みが、賞賛よりも批判が、赦しよりも復讐が、癒やしよりも争いが、交わりよりも分裂が、人間社会に横行しています。ある国家は、他国の主権や領土に対して武力を行使し、干渉します。あるいは大規模なテロが行われ、それに対して過剰な反撃がなされ、爆弾やロケットによる攻撃が繰り返されます。こうした出来事は、かつては遠い国のことのように思っていました。しかし、私たちの住む東アジアもまた、今や一触即発の緊張の中にあるのです。自己の権力や軍事力によって他者を支配し、独占しようとする限り、このような状況は続いていくのではないでしょうか。けれども同時に、そのような状況の中で、国や社会のレベルで平和をつくる働きを、命がけで担っている指導者たちのために、私たちは祈っています。私たちの教会も、互いに神の愛をもって生きるという目標を掲げていますが、それは同時に、私たち一人ひとりの生活のレベルにおいても、真剣に取り組まなければならない課題です。
聖書が最も厳しく語っていることの一つは、神を賛美すると言いながら、その生き方が言動と矛盾しているという、形式的な信仰と神から離れた心に対する批判です。それを端的に示しているのが、イザヤ書29章13節の御言葉です。そこでは、神を礼拝しているかのような外形を装いながら、その心は神から遠く離れており、その信仰は人間的な戒めに従っているにすぎず、単なる宗教的行為に堕していることが厳しく指摘されています。神は、そのようなあり方を厳しく叱責しておられるのです。
“主は言われる。「この民は口先で近づき唇で私を敬うがその心は私から遠く離れている。彼らは私を畏れるが人間の戒めを教えられているにすぎない。」” イザヤ書29:13、教会共同訳
この一年を振り返ると、私が心を痛めていることの一つは、世界の政治に関するニュースの中で、「キリスト教」や「福音派」という言葉が、この世の権力の文脈で用いられているという現実です。さらに、統一教会の実態が明らかにされる中で、人々の間に、信仰や教会そのものに対する恐れや不信が広がっていることも、深く憂慮すべきことです。現代の不透明感の多い時代においても、かつてと同じように、人々を支配するために宗教が利用されています。神の名を騙り、人間の信仰心を利用して権力を振るうようなことは、実はイエス・キリストが誕生された時代においても、すでに起こっていました。ローマ帝国の強大な権力が当時の世界を支配していた中で、弟子たちは、それに勝る力によって、イエス・キリストがその支配を打ち破ってくださるものと期待していたのです。しかし、イエス・キリストは、そのような力の世界を打ち破るために、弟子たちの期待とはまったく異なる道を歩まれました。私たちは、このクリスマスを、単なる華やかな祝祭としてではなく、イザヤが「平和の君」と呼んだお方が、この世にまったく無力な姿で生まれ、ついには十字架の上で完全に無力な姿となられた出来事として受け取らなければなりません。私たちは、そのようなイエス・キリストの姿に、改めて目を注ぐ必要があるのです。
② 無力になられた神を見よ
イエス・キリストは、まったく無力な姿でこの世に来られました。この事実は、私たちの生き方や教会の在り方に対して、根源的な確信を与えるものです。キリストは神の本質を備えておられたにもかかわらず、その栄光と権威を、執着すべきものとはなさらず、完全に捨てられました。しかし私たちは、神を信じて祈るとき、しばしば「全知全能の神よ、その力によって私の願いをかなえてください」と、支配的な力を神に期待してしまいがちです。けれども、聖書が描くキリストの姿の中に、世俗的な意味での「強さ」を見いだすことはできません。キリストは十字架の上で、祭司長や律法学者たちから「他人を救ったが、自分を救えないのか」と嘲られました。その最期は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」また「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」という叫びとともにありました。一見すると、それは恥と敗北のうちに死なれたかのような姿でした。しかし、もし私たちが本当に神の愛を知ろうとするなら、力強く輝かしい祈りに応える神だけを求めるのではなく、むしろ弱さと貧しさ、そして苦難のただ中を歩まれたナザレのイエスにこそ目を向けなければなりません。
イエス・キリストは、布にくるまれ、家畜の飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんとしてお生まれになりました。そのあまりにも無力な姿に対して、私たちは恐れを抱くことも、妬むことも、争うこともありません。赤子は、徹底的に無力だからです。 神の御子が自らをこのように無力な者とされたのは、この世の「人間的な力」による支配を打ち破るためでした。誕生のときの「飼い葉桶」に寝ている赤ちゃんの姿は、やがて手足を釘で打たれ、裸でさらされる「十字架」へとつながっていきます。誕生から死に至るまで貫かれた、この完全な弱さこそが、神が愛を示すために選ばれた方法でした。 神は、力による恐怖によって人を支配されるお方ではありません。限りない愛をもって私たちを包み込み、尽きることのない恵みによって、私たちの恐れを取り除いてくださるお方なのです。
パウロは、初代教会で歌われていた「キリスト賛歌」を引用し、ピリピの教会の人々に、このイエスの姿を模範として抱くよう勧めました。パウロがこの賛歌を引用したのは、信者たちがイエスの抱かれたこのへりくだって控えめな態度を共有するためです。私たちが弱さや貧しさの中に神の愛を見出すとき、私たちはもはや力で誇る必要はなくなり、キリストの愛という真の安らぎの中に生きることができるのです。
“キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、御自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。” ピリピ2:6-
“マリヤは…男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。” ルカ2:7
③ この世の力から真の力に
無力な姿は、単に物静かで、受け身で、人にへつらう生き方ではありません。私たちは、イエス・キリストに従うときに、イエス・キリストの真の力によって生きるようになります。イエス・キリストは、前述のとおり、無力なものとなりました。しかしそれは、無力の中にこそ、私たちのうちに、神の真の絶大な力が現実のものとして完全に現れるためです。イエス・キリストに従う私たちが、あえて、この世の力に支配されることなく、この世の力に依存することなく、自ら無力となるのは、真の神の力によって生きるためです。パウロは、自身の経験をコリント教会への手紙の中で、このように語っています。私の力はイエス・キリストによってさらに強くされるのではなく、イエス・キリストの弱さのうちに完全に発揮されるものなのです。最初に言いました通り、キリスト者になるということは、力ある人になることではなくて、何かの力を得ることでもなく、自分の人生に自分の力が及ばないという、神にしか持っていない力の領域のあることを素直に認める生き方に変えられることです。ですから、パウロは、この御言葉の中で、イエス・キリストの力が自分を覆うために、自分の弱さを喜んで誇ると言ったのです。パウロの弱さは、人から侮辱されることかもしれませんし、苦労や困難を負い続けることかもしれません。私たちにも様々な苦労や困難はあります。しかし、私たちは、自らの無力さや弱さを認めるとき、そこに、イエス・キリストの力が包み込んでくださるのです。
この一年を振り返ってみると、私たちは与えられた務めを一生懸命に果たしてきたとしても、なお私たちの力では到底及ばない領域があることに気づかされます。その領域こそが、神の領域なのです。イエス・キリストの愛と十字架の死、そして復活の力が私たちに及ぶのだと、パウロは確信をもって語っています。私たちは、自分の力ではなく、神のまことの力によって生きる者とされ、その力に覆われているのです。だからこそパウロは、「弱いときにこそ強い」と語り、弱さを誇ることができるのです。私たちもまた、そのような人生へと変えられていくのです。そのためには、第一のポイントで述べたように、自分の力で何かを支配しようとすることや、何かを成し遂げようとする自分の力を手放さなければなりません。しかし私たちは、なかなかその力を手放すことができません。「捨てなさい」と言われるほど、かえって強くしがみつこうとしてしまうのです。だからこそ、私たちの恐れを取り除くために、イエス・キリストは飼い葉桶に眠る赤ちゃんとして、無力な姿を示してくださったのです。そして、その飼い葉桶からの眼差しをもって、今も私たちを見守っておられます。私たちは、すべての力を抜き、すべてをお委ねすることのできるお方として、また私たちに愛と平和を満たしてくださるお方として、このイエス・キリストを信じるのです。この世の力によってではなく、真の力によって、私たちは生きていくことができるのです。
“しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。” コリント第二12:9-
Author: Paulsletter
